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 ホハレ峠越え 門入キャンプ(3)
                       − 旧徳山村 変化し続ける村 門入の現況

 徳山村最奥、唯一水没しないのが門入(かどにゅう)集落。「へき地学校名簿」(1961年)によると、徳山小学校門入分校のへき地等級は5級。この級数の判断は「へき地教育振興法」により定められており、5級が最高級。東海4県のへき地5級地は他に同じ岐阜県の白川村加須良(1967年離村)しかなく、全国でも有数のへき地といえる。
 合掌造りの家屋が建ち並んでいた門入の風景は、1956年7月に起こった大火(35戸中、24戸が焼失)により一変した。焼け出された村人たちは、山中の炭焼小屋を使うなどでしのぎ、苦難の上に新しい家を建てたという。しかし、徳山村が自治体規模の廃村となった1987年、ダム建設に伴う移転の補償条件としてほとんどの家屋は取り壊された。
 最後まで残った門入大橋近くのAさんの家屋が取り壊されたのは2006年5月。同年8月私がネット仲間と訪ねたときは、Aさん宅跡は更地となっており、土台の脇のお地蔵さんに花を供えて手をあわせた。また、峠に向かう林道沿いのBさん宅を訪ねてお話しをうかがい、その近くに養蜂場を持つCさん宅も訪ねて、蜂蜜の瓶詰をお土産に買った。

 2007年10月7日(日曜日)、離村記念碑がある広場(八幡神社跡)の四阿に張ったテントで目覚めたのは未明5時頃。私はひとり、昨夏戸入で泊まったときと同じように、朝もやがかかる門入を探索した。離村記念碑は水資源機構が建てたもので、「平成18年9月建立」と記されている。同様の記念碑は、旧徳山村の8集落すべてに建立されるという。
 少し下手に建っている古びた小屋は、私が2000年春に訪ねたときには真新しかった水資源機構の事業用地管理棟。緊急用の電話が通じるこの小屋は、建築工事の作業小屋としても使われている様子だ。少し離れた道の反対側に立つ「警告 ここは旧徳山村民が生活されていた門入です」という看板とともに、私にとってはなじみが深い。
 その隣には、建設中の屋根裏がある大きな建物。工事の方のお話などから推測すると、この家屋は避難施設を兼ねた公共の建物で、横にはバーベキューができそうな施設も作られていた。「ダム湖にフェリーが走るようになると、夏休みにはこの家屋に子供たちが泊まり、キャンプをするようになるのかも」と想像できる雰囲気があった。

 テントに戻り一度休んでから、皆と一緒に朝食をとり、荷物をまとめて再び門入の探索を始めたのは午前9時頃。この日の天気は曇。なぜか網が取り払われた門入分校跡を通り過ぎ、町道の終点に建つ家屋には、愛嬌があるイヌが三匹居てご挨拶。主の方には会えなかったが、山仕事の作業小舎として活用されている様子がうかがえた。
 Aさんの家屋の跡には、真新しいログハウスが建てられていた。偶然出会えたログハウスを建てたという方によると、丸太は近くの山から切り出し、コンクリートや建材は、ホハレ峠越えの山道を通じて調達したとのこと。主に、釣り仲間の宿泊の基地などとして使われているそうだ。そして変わらぬ姿のお地蔵さんに、再び花を供え手をあわせた。
 門入には数台のクルマやバイクが走っているが、ガソリンも峠越えの山道から調達しなければいけない。たいへんなことだが、それができるのは門入で過ごすひとときが楽しいからに違いない。そのことは私たち4人の旅人にも当てはまることだ。「ここで飲むビールの味は格別だ」は、趣味でここに集うお酒好きの方なら誰でも思う言葉であろう。

 「徳山村史」(1973年)冒頭のカラーページ、門入集落の写真には、黒い屋根の八幡神社の社殿、赤い屋根の門入分校の校舎、多くの家屋や水田が写っている。八幡神社には、室町時代(1478年)に作られた宝物が収蔵されていたという。「昔から神様が奉られてきた場所でテントを張った」と思うと、改めてこのキャンプの重みを感じた。
 午前11時半頃、門入を後にしてホハレ峠に向かって歩き始めたとき、私は寂しさを感じなかった。それは無事にホハレ峠まで歩き通すことへの緊張感のせいもあったが、昨夏は「よほどのことがないともう来ることはないだろう」と思っていた門入、戸入への再訪を果たしたからに違いない。「よほどのこと」が実現してしまったのだ。
 帰り道のクルマの中、4人の間では「来年も門入でキャンプをしたいね」という声が飛び交っていた。来年訪ねることができたら、どのような変化があって、誰に出会うことだろうか。眠りから目覚めたホハレ峠越えの道、湖に沈んだ戸入、変化し続ける門入の様子は、いよいよ本格運用が始まる徳山ダムの様子とともにこれからも目が離せない。

    (注) 徳山本郷でも1954年5月に村役場や小学校を巻き込む大火(118戸中、116戸が焼失)があり、この災害の復旧時、区画整理がなされた。さらに1965年10月の集中豪雨でも小学校を含む多くの家屋が被災した。ダムに沈んだ徳山小学校跡のRC三階建校舎は、災害復興の象徴として1966年に建てられたものである。

    * 画像は、左:「警告」の看板と建設中の屋根裏がある大きな建物、右:門入大橋近くの新しいログハウスとお地蔵さん

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