北の果て 駅前高度過疎集落に行く

北の果て 駅前高度過疎集落に行く 北海道音威子府村筬島,
__________________________________________________物満内,上音威子府


高度過疎集落 筬島(おさしま)の学校跡を利用した施設「アトリエ 3モア」です。



2007/9/17 音威子府村筬島,物満内,上音威子府

# 2-1
平成19年8月23日(木),東京・飯田橋のチェーン店居酒屋「北海道」で職場の労組の暑気払いがありました。そのとき,労組の専従 中島由美子さんから「9月中旬に北海道で国労の闘争団の方との交流会があって,ひとり欠員ができた」との話題がありました。「北海道のどこですか」と尋ねると,音威子府と名寄とのこと。「自由行動の時間をいただけるんでしたら,是非参加させてください」と頼んだのは,いうまでもありません。
日程は2泊3日,宿泊地は音威子府と名寄で,2日目の音威子府−名寄の移動では,観光で稚内,宗谷岬を経由するとのこと。この時間(朝8時半〜夕方5時半)を自由行動にあてて,音威子府から名寄に向かってクルマを借りて廃村めぐりをすると,多くの心当たりの廃村に行けます。

# 2-2
名寄には,廃墟関連で長い付合いの成瀬健太さんが在住しており,成瀬さんとの現地オフができると,さらに楽しめそうです。
心当たりの廃村の古い地形図の写しは,この旅が決まる前から持ち合わせています。追加の資料を国会図書館で調べているうち,名寄市の智東が廃校廃村ということがわかりました。成瀬さんからは「是非ご一緒しましょう」との返事が来て,レンタカー(カローラ)は名寄市街で手配しました。
9月16日(日)朝9時半,羽田空港で待ち合わせた労組のメンバーは10名。旭川空港には,国労 音威子府闘争団の方がクルマ2台で迎えに来てくれていて,音威子府の宿「天塩川温泉」に着いたのは夕方4時頃。夜の音威子府公民館での交流会では,労組の旅ならではの地域の方との交流がありました。



# 2-3
9月17日(月祝),起床は朝5時頃で天気は曇り。レンタカーを前日夕方に宿に配車していただけたので,交流会のとき「朝食前の時間を利用して音威子府近辺の廃校廃村へ行こう」と思いつきました。霧で煙る人の気配がない道を走ると,「北の果ての地に来た」ことが実感できます。
最初に目指したのは,音威子府から稚内方向にひとつ目の駅がある高度過疎集落 筬島(Osashima)です。廃校になったばかりの咲来小学校跡,音威子府市街を過ぎて,R.40から天塩川の橋を渡り,宗谷本線 筬島駅に到着したのは早朝5時40分。車掌車を使ったペンキ塗りの駅舎は,北海道ならではです。
駅前にクルマを停めて探索すると,ほどなく赤い屋根の小学校跡を利用した施設「アトリエ 3モア」が見つかりました。

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# 2-4
物満内小学校(S.37より筬島小学校)は,へき地等級1級,児童数61名,明治42年開校,昭和53年閉校。閉校後は彫刻家 砂澤ビッキがアトリエとして移り住み,今「アトリエ 3モア」では,ビッキの作品が展示されています。アトリエの手前には,ビッキが作ったトーテムポールが立っていました。
筬島の戸数(H.14)は5戸。営業中の駅がある廃校廃村は,雄信内(幌延町・宗谷本線),上厚内(浦幌町・根室本線)と筬島だけです。
次に目指したのは,筬島の川向いの廃村 物満内(Monomanai)です。古い二万五千図(筬島,S.34)の文マークは,R.40から南へ6km入った山中にありますが,S.37にはR.40沿いに移転しています。「何かないかな」とR.40を隣町(中川町)との境まで走ると,左手に神社の鳥居が見つかりました。


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# 2-5
上物満内小学校(S.38より物満内小学校)は,へき地等級5級,児童数8名,昭和30年開校,昭和50年閉校。移転前の上物満内は戦後の開拓集落でした。後で新しい二万五千図(筬島,S.52)を見ると,文マークはR.40と上物満内へ向かう山道の分岐近くに記されていました。
物満内と筬島は2kmほどの距離ですが,昭和42年までは橋はなく,交通手段は渡船でした。音威子府から筬島に向かう手段も,鉄道と渡船だけでした。
物満内からは,一度音威子府市街に戻り,音威子府駅を訪ねました。最盛期(S.25頃)には4000人を超えていた音威子府村の人口は,「今年になって1000人を切った」と交流会で伺いました。「音威子府は鉄道の町として栄えた」ことが想像できる風格のある駅でしたが,この時間人影は皆無でした。

# 2-6
3つ目に目指したのは,音威子府から浜頓別方向にひとつ目,旧天北線の駅があった廃村 上音威子府(Kamiotoineppu)です。たまに対向車があるだけのR.275を進むと,左手に宗谷バス 上音威子府バス停の赤い看板と「上音威子府小学校跡」という標柱が見つかりました。
上音威子府小学校は,へき地等級1級,児童数59名(S.34),大正6年開校,昭和50年閉校。学校跡の標柱は,昨夜交流会で偶然見せていただいた物満内小学校跡と同じ形でした。あたりを探索しましたが,「上音威子府過疎農道」という看板があるだけで,人の気配は感じられません。また,宗谷バス 天北線は,音威子府−稚内が3往復,音威子府−小石が3往復。無人化したと思われる上音威子府集落のバス停で,乗降される方はいるのでしょうか。


# 2-7
学校跡とともに上音威子府で探し出したかったのは,上音威子府の駅跡です。学校跡から1km弱ほど進んだ右手にあるのは,五万地形図(音威子府,S.47)を見れば一目瞭然です。
上音威子府駅は,昭和48年に無人化し,昭和62年に臨時駅に降格(冬季営業休止),平成元年 天北線とともに廃止。駅舎は廃止後も往時のまま残されていましたが,平成16年,倒壊の危険のため取り壊されたそうです。
草むらを注意深く見てみると,ホーム跡の石垣が見つかりました。しかし,ここに20年弱前まで列車が走っていたとは,想像できないぐらいでした。

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# 2-8
私が確認した駅跡がある廃校廃村は,全部で44か所(廃村36か所,高度過疎集落8か所,営業中の駅 3つを含む)。うち42か所は北海道です。
朝食の時間は迫っており,足早に天塩川温泉に戻り着いたのは7時15分。所要時間2時間弱,走行距離50kmで,3か所の廃校廃村に行くことができました。
温泉に入って朝食をとると,ほどなく国労闘争団の方のクルマがやってきたので,私は事情を説明して,宗谷岬に向かう一行を見送りました。
クルマでひとり,天塩川温泉を出発したのは8時20分。成瀬さんと待合わせの豊清水駅までは,隣町(美深町)ながら10分足らずです。R.40から豊清水駅に向かう道はダート混じり。駅前は廃屋が見当たるだけで,町営バス 東27線のバス停看板も,廃止となって久しい様子の錆び方でした。

(追記) 上音威子府駅舎跡(平成9年7月)の画像は,廃屋の猫さんに提供していただきました。



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