続・列島横断 廃校廃村をめぐる旅(2)

続・列島横断 廃校廃村をめぐる旅(2) 新潟県十日町市阿寺,津南町中ノ平,
________________________________川口町山ノ相川,小高,魚沼市浪拝,鷹ノ巣

廃村 阿寺(あてら)で見つけた,千手観音が祀られた祠です。



2008/11/1〜2 新潟県十日町市(旧中里村)阿寺, 津南町中ノ平,
__________________________川口町山ノ相川,小高,魚沼市(旧湯之谷村)浪拝,鷹ノ巣

# 10-1
平成20年10月,「廃村(3)」の番外編で,茨城県(廃校廃村はゼロ)の廃村もしくは高度過疎集落(目標として見つけたのは大子町相川新田で,戸数2戸),へき地の廃校(目標は北茨城市小川で,へき地等級4級)を訪ねる計画を立てるため,地図を見ているうちに,夏に訪ねた新潟県糸魚川市(日本海沿い),津南町と茨城県大子町,北茨城市(太平洋沿い)が,すべて北緯37度線の近くにあることがわかりました。
このとき,8月に走った糸魚川市から津南町までの道程をさらに東へ伸ばし,途中にある廃校廃村をめぐりながら北茨城市まで到達すると,「「続・列島横断 廃校廃村をめぐる旅」になる」と思いつきました。思いつくと実行したくなるのは,世の常です。

# 10-2
糸魚川市から津南町までは約100km,津南町から北茨城市までは約500kmあり,見積った距離はトータル約600km。4月から8月にかけて実施した「列島横断 廃校廃村をめぐる旅」(走行距離 638km)とほぼ同じ規模で,糸魚川−北茨城間の目標とした廃校廃村は14か所です。
平成20年11月1日(土)出発の旅は,3泊4日のソロツーリング。南浦和を朝9時半に出発し,関越道を湯沢ICまで走り,R.353・清津峡を経由してJR津南駅についたのは午後2時10分。この日の目標は,旧中里村阿寺(Atera),平成18年秋の中越ツーリングで,目標に入れながら行き逃した廃村です。旧中里村で信濃川右岸を走るR.353は,大型車通行止,冬季通行止の心細い道。枝道はさらに心細くなりますが,廃村探索の上ではわくわくする道です。

# 10-3
「この道沿いだろう」とダートの林道を上がっていくと,やがて「林道阿寺線 終点」の標柱に出くわしました。どうも,集落跡は通過した様子です。
下りの道をゆっくりと戻ると,道の脇に祠が見つかり,石垣がある少し広くなった場所では,何やら小さな建物が見つかりました。バイクを停めて近づいてみると,二十三夜供養塔,六地蔵があり,そのそばの小さな建物はエメラルドグリーンに塗られた祠でした。覗いてみると,千手観音が祀られており,「妻有百三十三番観音霊場 第七十九番札所」とのこと。この辺りが阿寺の集落跡の中心と考えてよいでしょう。
「角川地名大辞典」によると,阿寺の離村年は昭和47年。整った雰囲気はありましたが,その他の家屋や田畑はなく,地域の方とも出会いませんでした。

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# 10-4
千手観音から少し下ると,「阿寺 熊野神社入口」という標柱があり,バイクを停めて坂道を上ると,小高い丘の上に小さな祠が祀られていました。
貝野小学校阿寺冬季分校は,へき地等級1級,児童数15名(S.34),明治41年開校,昭和46年閉校。分校開校以前は就学免除地だったとのこと。冬季分校としては珍しく,地形図(松乃山温泉,S.43)に文マークがあったので,神社入口付近を探索しましたが,痕跡は見つかりませんでした。
阿寺を後にして,旧中里村の中心集落 田沢に戻ったのは午後4時頃。時間があるので,津南町であと一つ,未訪の廃校廃村 中ノ平(Nakanodaira)に足を運ぶことになりました。中ノ平は,秋山郷の一角,県境に近い山中にある小さな集落跡です。

# 10-5
R.405から林道東秋山線に入り,手前の小集落 見倉には歴史を感じる風情がありました。しかし,トンネルを越えて到着した中ノ平は,別荘風の建物が数戸建つだけで,バイクを停めて探索すると,「食堂 売店 バーベキュー 休憩所 宿泊施設」と書かれた看板が倒れていました。
建物の庭に焚火があったので,訪ねてみると,年配の男性が二人。ご挨拶をしてお話をすると,一人(滝沢さん)は中ノ平に住まれていた方でした。
秋成小学校中ノ平冬季分校は、へき地等級4級,児童数6名(S.34),昭和16年開校,昭和48年閉校。滝沢さんのお話によると,往時の中ノ平は4戸で,別荘の場所よりも渓谷(中津渓)に近い場所にあり,冬季分校もあったが,今,そこに通じる道はないとのこと。

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# 10-6
話を終えて中ノ平を後にした頃には,周囲はすっかり夜の闇に包まれていました。前倉,下日出山を経由する百ノ木「もりあおがえる」までの道は真っ暗でしたが,8月に訪ねたという土地勘があったおかげで,迷わず走ることができました。この日の走行距離は284km(JR津南駅からは68km)でした。
「もりあおがえる」に泊まるのはこれで4回目。津南町の山間は名高い豪雪地。二階が出入口になるほどの豪雪の頃にも,訪ねてみたいものです。
11月2日(日,旅2日目)の起床は朝6時頃。早めの朝食をとって,7時半に栃木県旧塩原町の前妻の実家を目指して出発し,まず目標としたのは川口町の山ノ相川(Yamanoaikawa)です。道中,十日町市街までは順調に進みましたが,下条から二子へ進む県道は,二子−山ノ相川間で途切れていました。

# 10-7
二子から南側に迂回してR.252に出て,高度過疎集落 慶地(Keiji)を経由し,旧堀之内町下稲倉からの道で山ノ相川に到着したのは朝9時10分。「二子からの道との三差路あたりに集落跡がある」と踏んたのですが,道はどれも新しく,建物,田畑は見当たらず,人の気配もありません。
田麦山小学校山ノ相川分校(のち山ノ相川小学校)は,へき地等級3級,児童数47名(S.34),明治7年開校,昭和48年閉校。「川口町史」には,「昭和48年の雪降り前の10月24日,山ノ相川集落移転、山ノ相川校閉校式挙行」と記されています。川口町の中心近くには山ノ相川団地という移転地があり,訪ねるといろいろお話を伺うことができそうですが,今回は砂防指定地の看板を見つけたことをよしとして,先を急ぎました。

# 10-8
次の目標は,山ノ相川から5kmほど下手にある高度過疎集落 小高(Kotaka)です。ここは平成16年10月の中越地震で大きな被害を受け,集団移転が決められた集落です。報道でもよく取り上げられたので,地名にはなじみがあるのですが,探索には少々不向きです。
田麦山小学校小高分校は,へき地等級1級,児童数70名(S.34),大正3年開校,昭和51年閉校。バイクを停めて地形図(小千谷,S.44)に記された文マークがある更地を歩くと,対面に赤い屋根の三階建の家屋がありましたが,障子は破れていました。小高の方の移転地(小高団地)は,山ノ相川団地のすぐそばにあり,日曜のこの日は,数名の方が戻られている様子でしたが,お話はしませんでした。

# 10-9
小高を出発して,川口町の中心部からはR.17で旧湯之谷村井口新田に出て,井口新田からはR.352で次の目的地 鷹ノ巣(Takanosu)を目指しました。
旧湯之谷村から福島県檜枝岐村にかけてのR.352には「樹海ライン」という愛称があり,銀山湖に近い厳しい山中の区間(およそ80km)は,例年11月中旬から翌5月下旬まで積雪通行止になります(ちなみに,この区間は平成16年夏まで二輪車通行止でした)。
鷹ノ巣は大湯から50km,樹海ラインの真っ只中にあります。樹海ラインはくねくね道が延々続きますが,季節は紅葉の頃,天気も上々ということで,とても気分のよい走りです。雪をいただく山々を見るにはちょうどよい枝折峠(標高1065m)では,紅葉狩りのクルマで賑わっていました。

# 10-10
いくつか観光用の建物が建つ銀山平を過ぎて,道は奥只見湖ダムの近くを走るのですが,見通しがきくのはごくわずかです。この区間には,かつて浪拝(Namiogami)という温泉がある小集落がありましたが,奥只見ダムの建設とともに湖(銀山湖)に沈み,行くことはできません。
東湯之谷小学校浪拝分校は,へき地等級4級,児童数4名(S.34),昭和6年開校,昭和35年閉校(同年離村)。R.352沿いの銀山湖を見下ろす丘の上には「大福銀山十二山神社」という神社がありました。湖に沈んだ社ということで,ここに参ることで浪拝を訪ねたと解釈しました。
視界が開けて,鷹ノ巣に到着したのは昼12時半頃。大湯から2時間かかりました。国道沿いにはヘリポートがあり,へき地度の高さが感じられました。

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# 10-11
東湯之谷小学校鷹ノ巣分校は,へき地等級5級,児童数17名(S.34),昭和6年開校,昭和43年閉校。その後昭和49年まで,夏季分校(井口小学校鷹ノ巣夏季分校)が開設されていました。住宅地図で確認した鷹ノ巣の戸数は9戸ですが,冬季は無人となります。
地域の方が屋外で作業をされていたので,ご挨拶をしてお話を伺うと,この方は戦後の開拓で入植され,交通は長い間徒歩のみだったとのこと。
「学校跡はどこですか」と尋ねると,赤岩平(福島県檜枝岐村)への道の三差路の角にあったとのこと。久しぶりに学校跡の特定ができました。古びたローラーが置かれた校庭跡の奥には,ブロック造りの小屋がありました。地域の方によると,小屋は往時の自家発電の施設とのことです。

(追記) 新潟県川口町は,平成22年3月,長岡市に編入されました。



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