廃村全県踏破の記録は 東西に分裂

廃村全県踏破の記録は 東西に分裂 青森県平川市民部平,弘前市舟打,
______________________________________西目屋村砂子瀬,青森市二股,大谷

廃村 二股(ふたまた)に残る冬季分校跡の建物です。



2009/6/6 平川市(旧碇ヶ関村)民部平,弘前市(旧相馬村)舟打,
___________西目屋村砂子瀬,青森市二股,大谷

# 15-1
廃村全県踏破,残り15県を改めて見直すと,東日本は東北地方の3県(青森,岩手,宮城)だけになりました。そこから「平成21年の夏・秋は東北地方を集中して回ろう」となり,さらに,「全県踏破の記録は,東日本編(中部地方以東)と西日本編(近畿地方以西)に分けよう」と思い付きました。
青森県の弘前にはかりんさんというネット仲間がいて,かりんさんが運営されている「RGB」Webには多くの青森県の廃校の写真が掲載されています。
「一緒に回ることができればよいな」と思いかりんさんに連絡すると,「了解です」とのお返事。時期は梅雨入り前の6月上旬の土日に決まり,回る目標は弘前の近辺で行ってみたい場所ということで,旧碇ヶ関村民部平,旧相馬村舟打,西目屋村砂子瀬,青森市大谷,二股の5か所となりました。

# 15-2
交通手段も思い付いていろいろ調べたところ,廃村めぐりの旅では初めて,高速夜行バスを使うことになりました。金曜夜東京発,土曜朝弘前着(弘前1泊),日曜夜弘前発,月曜朝東京着で計画すると,青森県内で丸2日,のんびり時間が使えて,年休消化はゼロで済みます。
高速夜行バスには定期バスとツアーバスの2系統あることは,調べていて気づいたことです。東京−弘前の定期バスは3列シート・トイレ付で往復約2万円に対して,ツアーバスは4列シート・トイレなしで往復約1万円。JR(新幹線−特急)だと往復約3万4千円。価格と時間,過ごし心地を考慮して,定期バスを選びました(帰路は2列のスーパーシート)。ツアーバスは,経路にディズニーランドが入っていたりするので,主な客層は若い方なのでしょう。

# 15-3
東京−弘前間の定期高速夜行バス「ノクターン号」は,京急バスと弘南バスの共同運行の定期夜行バス。 約700kmの道のりの所要時間はおよそ9時間。昭和61年より運行の地方都市への高速夜行バスの草分けで,年間の利用者数(約7万7千人,H.18)は,関東−東北を結ぶ高速夜行バスでは最も利用者が多いとのこと。
宿は「風情のある古い旅館がよい」とネットで調べると,「石場旅館」という明治12年創業の老舗旅館のWebが見つかり,すぐに決めることができました。弘前は学生の頃(昭和58年3月)以来27年ぶり,雪の積もったお城と寺町を回った記憶があるのですが,宿泊は初めてです。

# 15-4
平成21年6月5日(金),職場から帰って家で食事をして風呂に入り,南浦和発は夜9時頃。JR京浜東北線で浜松町に出て,コンビニでビールとお茶を調達して,浜松町バスターミナル発は10時30分。客層はさまざまです。1号車から4号車まで,4台が同時に発車する様子は,列車のようです。
窓側の席でもカーテンを閉めて走っていると,どこを走っているのか見当がつきません。「佐野,国見,紫波で運転手交替の停車がある」と耳にしたので,時計と停車のタイミングで場所の見当を付けました。ぐっすりとは眠れなかったものの,目を閉じてぼんやりしているとまずまず休めたようです。
弘前着は6日(土)朝7時10分。天気は小雨まじりの曇り空。視界の広い道を歩き,コンビニでパンを調達して,まず石場旅館へ向かいました。

# 15-5
宿の方にご挨拶して荷物を置かせてもらい,食事の場を頼んだところ,「陸軍召集軍用旅舎」の看板が置かれたフロントの小部屋を借りることになりました。かりんさんとの待ち合わせも石場旅館です。食事中に「着きました」と携帯に連絡があったので,フロントに入ってもらいました。
かりんさんは20代後半の男性で,弘前近郊生まれで,大学も弘前とのこと。今回訪ねる予定の廃村にはすべて足を運ばれており,心強い限りです。
最初に出かけたのは,旧碇ヶ関村の開拓集落の廃村 民部平(Minbutai)は,私は当初「たみべだいら」と読んでいましたが,東北北部では平を「たい」と読むことが多いようです。かりんさんのクルマに便乗してR.7を走り,大鰐のコンビニで昼食のおにぎりを買ったあかりから雨が降り始めました。

# 15-6
かりんさんの話では,民部平はタケノコ,山菜の名産地で,5〜6月のシーズンには見張りの方が,入山料を徴収するとのこと。「ほんとかな」と思いながら,山間の道を走って行くと,集落直前の三差路に「古懸共用林野組合」という腕章をしたおじさんが,焚き火にあたりながら構えていました。
クルマを下りて,おじさんにご挨拶をして「民部平の学校跡を目指してきました」と話すと,「あんたらは,どう見ても山菜採りの格好じゃないね」と,入山料は免除されました。「学校跡はどこでしょうか」と尋ねると,「少し行った三差路を左に行ったところで,記念碑がある」とのこと。
地蔵堂がある三差路が見つかり,民部平に到着したのは朝9時半頃。まず,三差路右側に立っていた営林署と山菜採りについての看板をチェックです。

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# 15-7
地蔵堂を覗くと,顔が白く塗られたお地蔵さんが二体あったので「来ました」とご挨拶。三差路を左に曲がり,「この辺りかな」とクルマを停めた敷地には,記念碑が立っていました。かりんさんは2年前に来たとき,学校跡は見つけられなかったそうで,びっくりするほど良い勘です。
民部平小学校はへき地等級3級,児童数25名(S.34),昭和22年開校,昭和46年閉校。記念碑には校歌の歌詞が記されていて,裏側には碇ヶ関村などの名前が刻まれていました。歌詞にある三ッ森山(Mitsumoriyama)は,民部平の東側の山の名前で,地形図(碇ヶ関,S.48)では,集落名も三ッ森山となっています。碑から一段下がった草むした平地を歩くと,隅には錆びた旗を立てるポールが残っており,この平地に校舎が建っていたようです。

# 15-8
一軒使われている家があり,家を訪ねるとご主人(石井さん)に出会えたので,ご挨拶して,集落のことを伺うと「昔は営林署の事業所があった」,「戦後開拓があった頃は家も多くあったが,今はおれたちが春から夏・秋にかけて暮らしているだけだ」など,話を聞かせていただきました。
学校跡の対面には,フキが茂る参道の奥に神社が見えました。神社の近くに草刈りをする方(長内さん)がいたので,「学校跡を訪ねてきました」とご挨拶すると,長内さんは民部平に住まれていた方で「おれは小学6年生までこの学校に居たんだよ」,「よくこんなところに学校があったってわかったねえ」と,懐かしそうに話してくれました。天気は雨でしたが,地域の方とお話しできたおかげで,かつての集落の様子を想像することができました。


# 15-9
民部平を後にして,次に目指したのは旧相馬村の鉱山関係の廃村 舟打(Funauchi)です。近くの木造校舎が残る古懸(Kogake)小学校跡を経由して,広域農道を使って走ると,手前の小集落 沢田まではすぐに着いたのですが,相馬ダムから先はダートで,意外な距離感がありました。
舟打鉱山跡の案内板がある駐車場に到着したのは午前11時40分頃。近くには「舟打鉱山友之会」という石碑が立っていて,無縁仏が奉られていました。
案内板には「鉱山の主要鉱物は銅,江戸末頃に発見され,昭和初頃より本格的に稼働,最盛期は千人を超す鉱山街が形成されたが,昭和37年に閉山となった」とのこと。その奥にはキャンプ場の施設がありましたが,「キャンプ場跡」という雰囲気になっており,蛇口をひねっても水は出ませんでした。


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# 15-10
舟打小学校はへき地等級3級,児童数145名(S.34),昭和13年開校,昭和38年閉校。地形図(弘前,S.40)には,キャンプ場の手前,進行方向左側に文マークがあるのですが,雨の中,探せそうな雰囲気はありません。「少し先に鉱山施設の跡がある」ということで,訪ねてみると,コンクリート造の何かの施設がありましたが,それよりも存在感があったのは材木の山です。鉱山施設の跡は,土場として使われている様子です。
3番目に目指したのは,西目屋村の鉱山関係・農山村の廃村 砂子瀬(Sunakose)です。岩木川(美山湖)沿いにある今の砂子瀬集落は,昭和35年に目屋ダムの建設による移転で作られましたが,平成14年,かさ上げダム(津軽ダム)の建設により再びの移転を余儀なくされたとのこと。

# 15-11
砂子瀬に到着したのは午後12時半頃。バス停がある三差路を左に折れると尾太(Oppu)鉱山跡があり,かりんさんによると2年前には鉱員住宅跡があったそうですが,今は建物の気配はありません。バス停周囲の砂子瀬集落跡の更地の中にぽつりと一軒古びた家屋が残っているだけです。
「西目屋村誌」によると,ダムによる移転対象の家屋は,砂子瀬が113戸,隣接する川原平(Kawaratai)が70戸(H.3)。ダム完成時(平成28年見込)には,集落はすべて水没します。かりんさんの話では,「保守的な風土のためか大きな反対運動は起こらず,弘前でも話題にならなかった」そうです。
砂子瀬を通るバスは,弘前と川原平を結ぶ路線バス(弘南バス)で日に往復7本。わずかに残った家屋の方々のためとは思えない本数です。

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# 15-12
砂子瀬小学校はへき地等級1級,児童数257名(S.34),明治8年開校,平成12年閉校。RC造二階建の大きな校舎跡(砂川学習館)は津軽ダム工事事務所の広報室として転用されており,一般の方も見学できます。偶然にも,案内の方(佐藤さん)は,かりんさんの知り合いの方でした。
学習館には,ダムの立体模型,集落に住まれていた方から寄贈された民具など,多くのものが展示されていて,特に林業用ののこぎりは圧巻でした。
尾太鉱山の資料もあり,「鉱山の主要鉱物は銅,奈良の大仏にも使われたという歴史を持ち,江戸時代の最盛期は2000人を超す鉱山街が形成されたが,昭和53年に閉山となった」とのこと。ここでは,鉱石標本は見事でした。学習館もダム完成時には水没し,取り壊すかどうかは未定とのことです。

# 15-13
尾太鉱山資料室でおにぎりを食べた後,事務室(旧職員室)で佐藤さんから砂子瀬・川原平の見どころを伺うと,「レンガ造りの広泰寺と不識塔」が紹介されました。建設者の斎藤主(つかさ)という明治頃の実業家は,奥羽線の矢立トンネルの建設で名を上げ,寺と塔は晩年に建てられたとのこと。
学習館を出て,川原平の生活改善センター跡にクルマを停めて集落跡を探索すると,更地になった家の敷地には紫やピンクのルピナスの花が綺麗に咲いていました。バス停から少し奥に入った大きな古い建物は,往時の旅館で,今もニジマスを養殖される方が使われているとのこと。
不識塔は修復中ということで手前の広泰寺を見に行くと,川原平からだいぶ入った山の中に,見慣れないレンガ造りのお寺が静かに建っていました。

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# 15-14
大きな集落があった砂子瀬・川原平は,見どころいっぱいで大満足。かりんさんも砂川学習館,広泰寺とも初めてとのことで,満足そうです。
西目屋村の中心部を過ぎて,弘前市街をかすめて,4番目・5番目(最後)に目指したのは青森市西部の農山村の廃村 二股(Futamata)と大谷(Ootani)です。ともに小規模な廃村ですが,「RGB」Webでは味のある廃校の画像が載っていて,興味深々です。
地図の上では近くに見える二股と大谷ですが,クルマで二股に行く道は青森IC近くからの一本だけです。弘前への帰りやすさも考えて,遠めの二股から回りました。手前の岩渡(Iwatari)は路線バスの終点。集落の端の学校跡に立ち寄ると,古びた門柱と体育館,草むした校庭が残っていました。

# 15-15
二股集落の家屋が見え始め,到着を確信したのは夕方4時40分。冬季分校跡は集落の手前,枝道を左に入った場所にあり,まずは分校跡に向かいました。
岩渡小学校二股冬季分校は,へき地等級4級,児童数17名(S.34),昭和24年開校,昭和49年閉校。最終年度(S.48)は,6年生が2名。新潟や山形,秋田に比べ積雪が少ないためか,高い山が少ないためか青森県には冬季分校はわずかしかなく,二股校は青森県の廃校廃村中,唯一の冬季分校です。
古びた平屋建木造校舎は,農機具置場として転用されており,中を覗くとトイレの跡や黒板などに分校跡らしい雰囲気が残っていましたが,物が雑然と置かれていました。風情は外観のほうが強く,「RGB」Webではモノトーンに映っていた校舎の屋根は深い赤色で,雨に濡れてよく光っていました。

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# 15-16
かりんさんは初めてという二股集落にも足を運びました。家屋は5軒ほどですが,住宅地図に名前があるのは1戸だけ。住まれている家はすぐにわかりましたが,雨の日の夕方ということで,挨拶できる雰囲気ではありません。集落の端に大きな萱葺きの空家があったので,近くにクルマを停めて,これを撮るだけで引き上げました。屋根の様子を見ると,かぶせたトタンが傷みで落ちている様子でした。
夕方になり,夜行バスの旅の疲れが出てきてもおかしくはないところでしたが,移動のクルマの中でもかりんさんとのお話が続き,眠くなることはありませんでした。好きなことをしている分には,気力,体力は湧き出してくるものののようです。

# 15-17
二股からは青森I.C.近くを通り,JR鶴ヶ坂駅近くまで来た道を戻り,青森空港のすぐそばの大谷を目指しました。途中の孫内(magonai)には閉校になったばかりの小学校があるということで立ち寄ると,赤い屋根に「孫内小学校」と書かれた平屋建木造校舎が迎えてくれました。内を「ない」と読むところは北海道のようで,北のはずれを旅していることを感じさせます。
森の中を抜け,青森空港有料道路が見える大谷に到着したのは夕方5時半。学校跡は道からも見える場所とのことでしたが,目印の閉ざされた建物の近くにクルマを停めてもそれらしい建物は見当たりません。「もしや…」と案内してもらった分校跡は,新しい木の柵が立つ更地になっていました。

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# 15-18
高田小学校大谷分校は,へき地等級4級,児童数18名(S.34),昭和22年開校,昭和49年閉校。2年前に写された「RGB」Webの大谷分校の画像は,いつ崩れてもおかしくはない感じでしたが,どうやら危険という判断から青森市が取り壊したようです。更地には草はなく,隅に井戸がある以外は何も残されていませんでした。「予想外のことがあるのも,廃村めぐりの醍醐味だねー」 といいながらも,とても残念なひとときでした。
大谷には他にめぼしい建物はなく,雨の夕方ということで早々と後にしました。分校跡は空港の滑走路から外れた位置にあり,足を運んだ感じでは,広島県の用倉(広島空港)や長崎県の箕島(長崎空港)とは異なり,空港の建設が離村につながったわけではなさそうでした。

# 15-19
大谷からは,旧浪岡町の王余魚沢(kareizawa)小学校跡に立ち寄って,弘前市街を目指し,かりんさんがなじみという弘前大学近くのそば屋に到着した頃には,周囲はすっかり暗くなっていました。気になっていた走行距離は約250kmでした。これで廃村全県踏破は,残り14県になりました。
夕食はかりんさんはそばとお茶,私はカツ煮とビール。散会は元に戻って「石場旅館」でした。ずっと運転してくれたかりんさんには改めて感謝です。
翌 7日(日)は曇り時々晴。廃村めぐりとは趣を変えて,弘前城を見てから,未訪の竜飛崎まで列車とバスで行きました。夜行バスの弘前発は夜10時。翌々 8日(月)の東京着は,定刻より早い朝6時15分。自宅(南浦和)に戻って荷物を置いて服を着替えて,いつもの通勤電車で職場へ向かいました。

(注) 往時(平成19年6月)の大谷分校の校舎跡の画像はかりんさんにお借りしました。

(追記) 竜飛崎では,灯台や階段国道といった一般的な観光地にも足を運びましたが,いちばん印象深かったのは,灯台直下の海辺の岩場で缶ビールを飲んだひとときでした。弘前市街探索用,駅と宿の連絡用の自転車を借りた上,夜の風呂もお世話になったということで,「石場旅館」の方々にも土産を買いました。

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