東の徳山村 集落跡の記念碑めぐり

東の徳山村 集落跡の記念碑めぐり 秋田県北秋田市湯ノ岱,小滝,
_______________________________森吉,桐内沢

廃村 森吉(もりよし)の水没予定地から見た,ダム湖を渡る予定の橋です。



2009/8/2 北秋田市(旧森吉町)湯ノ岱,小滝,森吉,桐内沢

# 17-1
平成21年8月2日(日)午後,秋田県鹿角市 JR八幡平駅前の食堂でざるそばを食べながら,急きょ「ここに行ってみよう」と決めたのは,森吉山ダムの建設が進められている旧森吉町森吉地区(森吉,桐内沢,小滝,湯ノ岱)です。大館市合津(Kattsu)の再訪も考えましたが,初訪の興味が勝ちました。手元のツーリングマップで距離を見積もると八幡平から森吉山ダムまでは60km(往復120km)。半日で回るにはちょうどよい距離です。
「秋田・消えた村の記録」(佐藤晃之輔さん著,無明舎出版刊,H.9)では,森吉地区は本文最後,「平成4年,ダム建設のため小又川に沿った14集落・198戸が移転した」と記されています。私はその規模の大きさに,岐阜県の旧徳山村(徳山ダム)を連想したものでした。

# 17-2
急な思いつきのため地形図などの備えはなく,勘と経験,度胸で勝負です。午後の天気予報は雨の確率が高く,無事探索できるかどうかは運次第です。
八幡平を出発したのは午後1時15分。旧比内町大葛(Ookuzo)の県道の分岐点には,赤い頭の黒い鳥が記された「太平湖 小又峡」という看板がありました。鳥はクマゲラというそうで,県道比内−森吉線には「くまげらエコーライン」という愛称が付けられています。
大谷という小集落を過ぎると,くねった県道はひたすら森の中を走ります。峠を越えてたどり着いた太平湖は,遊覧船も出る観光地です。太平湖(ダムは森吉ダム,昭和27年竣工)には分校もあった集落 砂子沢(Sunakosawa)が水没しているのですが,昭和28年閉校のため,リストには入っていません。



# 17-3
県道からちらりと覗く太平湖を見ながら坂を下り,最初の目標 湯ノ岱(Yunotai)に到着したのは午後2時半。湯ノ岱には往時二つの炭鉱(電化 奥羽無煙炭鉱(S.41閉山),東北炭鉱(S.37閉山))があり,昭和43年までは国鉄(現秋田内陸線)阿仁前田駅に通じる森林軌道があったとのこと。
湯ノ岱のダム建設に伴う移転戸数(H.4)は7戸。しかし,水没はせず,国民宿舎「森吉山荘」と温泉宿「杣の湯」が営業しており,廃村の雰囲気はありません。「杣の湯」で足湯につかり,宿の方に「往時を偲ぶものはありませんか」と尋ねようと考えたのですが,ちょっと場違いな感じです。「杣の湯」はあきらめて「森吉山荘」の駐車場にスクーターを停めると,勘がはたらいたのか,目の前に小中学校跡を示す石碑が立っていました。

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# 17-4
湯ノ岱小学校は,へき地等級4級,児童数252名(S.34),昭和17年開校,昭和46年閉校。「秋田・消えた開拓村の記録」(佐藤晃之輔さん著,無明舎出版刊,H.17)には「昭和33年には1244名の人たちが生活していた」と記されており,往時の炭鉱集落の規模がわかります。昭和51年建立という記念碑のそばには説明板があり,「湯ノ岱小中学校同窓有志会」と記されていました。
「森吉山荘」では,炭鉱があった頃の湯ノ岱の写真や年表,無煙炭の塊が展示されていました。こちらも同窓会の方々によるもので,アイスクリームをかじりながら写真を見ていると,往時の炭鉱集落の様子を想像することができました。また,「森吉山荘」は小中学校跡に建てられているようです。

# 17-5
炭鉱,温泉,林業,農山村,ダム建設と,多くの要素が混じり合う湯ノ岱ですが,さらに「消えた開拓村」によると,湯ノ岱から3kmほどの山中には大印(Oojirushi)という開拓集落があったとのこと(昭和44年離村)。これほど多くの要素が一つの地区に集まる場所は,他に心当たりがありません。
次の目標 小滝(Kotaki)は,湯ノ岱より5km下流ですが,水没は免れます。広くてほとんどクルマの走らない県道を進むと,公園のように整備された場所があり,「小滝霊水」という湧き水,「菅江真澄の歩いた道 小滝」という石碑の間に,平成6年建立の離村記念碑が立っていました。菅江真澄は江戸時代後期の民俗学の先駆者とも呼ばれる国学者で,「菅江真澄の歩いた道」の標柱・石碑・説明板は,秋田県の各所に立っているようです。

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# 17-6
森吉小学校小滝分校は、へき地等級3級,児童数60名(S.34),明治14年開校,昭和53年閉校。後で地形図(大葛,S.45)を見ると,文マークは小又川の向かい側に記されていました。小滝のダム建設に伴う移転戸数(H.4)は16戸,集落の主要部は川向いにあった様子です。
「小滝霊水」を飲みながら一服して,その次に目指したのは地区の中心集落 森吉(Moriyoshi)です。ダム水没予定地に入ると,道は高台の新しいものになり,川のほうには荒れた更地が目立ち始め,鷲ノ瀬トンネルを越えると,森吉に向かうと思われる旧道への接続道がありました。「おじゃまします」とご挨拶して柵をすり抜けて,川に近い場所まで行くと,古い看板が立った三差路があり,道には「止まれ」と白文字が書かれていました。

# 17-7
森吉小学校は,へき地等級2級,児童数226名(S.34),明治11年開校,平成 4年閉校。昭和47年までは中学校(森吉中学校)もありました。森吉のダム建設に伴う移転戸数(H.4)は56戸。後に新旧の地形図を比較すると,このとき私が行ったのは森吉集落の下流寄りの端っこだったようです。
訪ねたときには位置関係はまったくわかりませんでしたが,経験からいって長居は無用です。三差路でUターンし,戻り道の接続道の橋の下流側には,ダム湖を渡る予定の大きな橋(森吉山大橋)と削られた川が見えました。その雰囲気は,ダムを建設していた頃の徳山村にそっくりです。
橋の右側の高台には新しい施設が見えたので,足を運んでみると,天照神社と記された鳥居,十四合同神社と記された新しい石碑が立っていました。

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# 17-8
十四合同神社には,各集落の神社の祠が集められているほか,庚申塔など往時の石碑,お地蔵さんなども集められており,あわせてかつてあった集落名も記されていました。いくつかの新しい石碑を見ると,十四合同神社は平成15年に建てられたことがわかりました。
ダム建設による合祀神社を訪ねたのは,平成12年春の福井県旧上穴馬村の穴馬総社,平成18年夏の徳山村(所在は本巣市)の徳山神社以来です。
最後の目標 桐内沢(Kirinaizawa)は小又川の支流沿いにあり,水没は免れるということで,徳山村でいうと門入のようなところです。桐内沢に離村記念碑があるのは,青森の廃村めぐりでご一緒したかりんさんからの報告でわかっていました。行くことができないと,悔しいことになりそうです。

# 17-9
心当たりの道をたどるとダートの林道となったので,「先に情報を収集しよう」と判断し,ダムサイトの「森吉山ダム広報館」に足を運びました。
森吉山ダムの竣工予定は平成23年,総貯水量7810万立方m。広報館の敷地から見たロックフィルの堤体には迫力を感じたのですが,理由は堤高(90m)ではなく堤頂長(786m)にありました。これは全国でも屈指の長さです(ちなみに徳山ダムは,総貯水量6億6000万立方m,堤高161m,堤頂長427m)。
広報館の職員の方に「桐内沢にはどこから行くのでしょうか」と尋ねたところ,掲示されていた航空写真を使って「森吉山大橋を渡って,三差路を右側に折れた道を進みます」と教えていただきました。どうやら桐内沢はダートの林道の先にある様子で,往時の道は通れなくなっているようです。


# 17-10
度胸をもってダートの林道を進むと,2kmほどで舗装された往時の道にたどり着きました。静かな舗装道をほんの少し走ると,道が赤色,川が水色で記された平成18年建立の離村記念碑が見つかりました。記念碑の周囲の草は刈られており,地域の方が手入れされている様子が垣間見れます。
森吉小学校桐内沢分校は、へき地等級2級,児童数42名(S.34),明治14年開校,昭和55年閉校。記念碑の地図を見ると,分校は集落の山側の端っこに記されていました。「秋田・消えた分校の記録」(佐藤晃之輔さん著,無明舎出版刊,H.13)には,最終年度(S.54)の分校入学式の写真が収められています。桐内沢のダム建設に伴う移転戸数(H.4)は17戸。探索では,記念碑以外,往時を偲ぶものは見出せませんでした。

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# 17-11
桐内沢を出発したのは夕方4時55分。八幡平にはできるだけ早く帰るべく,来た道を戻りましたが,太平湖を過ぎ,峠を越えたあたりから雨が降り始めました。雨は宿泊の「ゆきの小舎」まで降り続きましたが,スクーターはオフロードバイクよりも足もとが濡れにくく,ダメージは小さめでした。
「ゆきの小舎」到着は夜7時5分で,お客は私ひとり。午前中は岩手県,午後は秋田県,変化に富んだこの日の走行距離は235kmでした。
後に「消えた村」を見直すと,この日の行程の範囲にさらに大杉,高畑という廃村が記されていましたが,これらをすべて確認することは困難です。改めて「消えた村」を読むことで,廃村ではなく「廃校廃村」に的を絞ったリストが,全県踏破への道を切り拓いたことが実感できました。

(追記) 森吉山ダムは平成24年3月に竣工しました。ダム湖は森吉四季美湖と名付けられました。



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