東の全県踏破は さりげなく達成

東の全県踏破は さりげなく達成 福島県福島市大滝,梨平,名号,
__________________________宮城県七ヶ宿町稲子

中茂庭集落のすぐそばに造られた摺上川(すりあげがわ)ダムの堤体です。



2009/9/5 福島市大滝,梨平,名号,七ヶ宿町稲子

# 19-1
廃村全県踏破は残り13県。「岩手県の次は宮城県」です。宮城県の廃村に足を運ぶと,東日本(東海・北陸以東)は全県踏破したことになります。
ここまで来ると,「チャンスがあれば宮城県へ行きたい!」と思うのは至極当たり前の流れです。私が住む埼玉県から宮城県は案外近く,東北道(浦和IC−白石IC,295km)だと頑張れば3時間,東北新幹線(大宮−仙台,320km)だと1時間15分ほどで行けてしまいます。
岩手県に行ったときの要領でレンタバイクも考えましたが,予算と便利さの釣合いが今ひとつなので,東北道を自走することになりました。宮城県まで行くのなら,隣りの福島県,山形県の廃村にも足を運びたくなるのも世の常です。思えば平成21年,BAJAで廃村めぐりをするのはこれが初めてです。

# 19-2
平成21年9月5日(土)はおおむね晴。妻が1泊2日で出かけるということで,留守になってから「たぶん行けるよね」と荷造りをして,南浦和を出発したのは朝9時45分。計画は2泊3日ということだけで,他はざっとした行程表と地図があるだけです。東北道を福島飯坂ICで下りたのは午後1時40分。ETCなしの二輪車の料金は4,750円。途中,安達太良PAで昼食にあわせて,宿の予約を取りました。
最初に目指したのは,R.13に近い福島市の旅籠町の廃村 大滝(Oodaki)です。大滝は明治10年に,福島−米沢間を結ぶ万世大路(ばんせいたいろ)の建設基地として開村し,明治14年の道の開通から明治32年に国鉄奥羽線が通じるまでの間は,旅籠町として賑わったとのことです。



# 19-3
R.13を走って大滝に到着したのは午後2時頃。分岐点から少し入ると,水汲場にあわせて,古いやぐらとお店の跡がありました。
高度成長の波にもまれ,昭和54年に無住化した大滝は,その後江戸時代の宿場町を再現したテーマパークとして再開発されたといいます。今はそれも撤退し,未舗装の道沿いに看板やお店,芝居小屋風の廃屋などが所々に見られるその風景は,おどろおどろしく感じられます。
中にはまだ営業できそうなお店もありましたが,すべて閉ざされており,人の気配はありません。芝居小屋風の廃屋の辺りにバイクを停めて,近くにある地図の上では営業中とも見えた「すずめのお宿」という茶屋も屋根が大破していて,積雪期の厳しい気候が想像されました。

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# 19-4
「すずめのお宿」の対面には神社(大滝山神神社)の赤い鳥居があり,石段を登って神社にお参りすると,神社の隣りには「大滝記念碑」という立派な石碑がありました。石碑がある高台からは建設中の高速道路がよく見えて,山越え道の今昔の移ろいが感じられました。
中野小学校大滝分校は,へき地等級1級,児童数42名(S.34),明治23年開校,昭和42年閉校。手元の地形図(関,S.48)には文マークは記されておらず,尋ねようにも地域の方が居ないので,分校跡探しは早々とあきらめました。どうも,観光の匂いがする有名な廃村では,探索意欲が薄らぐようです。
後で調べると,「すずめのお宿」の先にも家屋が残り,道の開通時に行幸された明治天皇にかかわる記念碑が建っていることがわかりました。

# 19-5
R.13は大滝で折り返し,次に目指したのは,R.399沿いのダムに沈んだ廃村 梨平(Nashidaira)です。R.13とR.399をつなぐ道は,飯坂温泉を通らないショートカットを使ったのですが,途中で迷ってしまい,余計な時間を使ったようです。
梨平に向かう途中のR.399沿いには,真っ赤に塗られた男根が道祖神として奉られていました。予備知識なしでバイクを走らせていた私は,通過してから「何かすごいものがあったような…」と思い,Uターンして見に行きました。看板によると,この男根は「飯坂温泉神徳道祖神」といい,平安時代初期から性器の神として奉られているとのことです。意外なモノと出会うと,旅の楽しさが引き立ちます。

# 19-6
R.399を先に進むと,中茂庭という集落のすぐ上手にロックフィル堤体の摺上川ダム(平成17年竣工,総貯水量1億5300万立方m)が見えて,さらに進むとダム湖沿いの公園(梨平公園)と神社(梨平神社)に着きました。ダム湖の名前は茂庭っ湖(もにわっこ)。「っ」が入るところがご愛嬌です。
茂庭小学校梨平分校(S.39より梨平小学校)は,へき地等級無級,児童数102名(S.34),平成4年閉校。学校跡は湖の底ですが,梨平公園には往時の小学校の門柱と,運動場にあったタイヤが移設されています。「かつて小学校があったこと」が想像できる,味わい深い雰囲気です。
記念碑には,「梨平小学校は明治10年創設,門柱を公園に移設したのは,閉校時に勤務されていた先生の発案による」との旨が記されていました。

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# 19-7
梨平よりも上手4kmには,名号(Nagou)という小集落がダムに沈んでいます。ダム湖の端っこなので,渇水時には集落跡が出てくるのかもしれません。
茂庭小学校名号冬季分校(S.39より梨平小学校名号冬季分校)は,へき地等級1級,児童数24名(S.34),大正8年開校,昭和43年閉校。名号のR.399には「摺上庵」という茶屋と神社(御嶽神社)があり,茶屋も営業中だったので,名物 玉こんにゃくを食べてひと休みです。
御嶽神社にお参りして名号を後にしてからは,梨平小学校の門柱が夕陽に照らされるのを見るため,ダムの広報館まで戻って,さらに梨平神社に立ち寄ったりしながら日待ちをしました。雲がかかる時間が長くて心配しましたが,ひととき夕陽を浴びた門柱を見ることができました。

# 19-8
梨平を出発したのは夕方4時55分。山間の日暮れは早いので,急ぎ足で目指したのは宮城県七ヶ宿町の高度過疎集落 稲子(Inego)です。名号を通過してしばらくするとR.399は急に狭くなり,待望の宮城県に入ります。しかし,稲子から先のR.399はすぐに福島県に戻って,県境の峠(鳩峰峠)を越えると山形県高畠町になるので,感覚としては稲子は宮城県というよりも福島県です。
やがて「足軽の里 稲子宿」という看板が眼に入り,稲子に到着したのは夕方5時15分頃。「足軽の里」とは,稲子が仙台藩領と米沢藩領の境界近くにあり,藩境監視的な役割を果たすため,仙台藩が足軽をこの地に住ませたことに由来するそうです。

# 19-9
現在稲子に住まれているのはわずか3戸(H.20)。バイクを集落中心のT字路付近に停めて,夕闇に追われながら駆け足で探索開始です。T字路すぐそばの郵便の看板がある大きな家のほうに歩くと,畑から家へ戻られようとするおばあさんに遭遇しました。
湯原小学校稲子分校は,へき地等級4級,児童数19名(S.34),昭和11年開校,昭和48年閉校。おばあさんに「分校はどこにあったのですか」と尋ねると,「少し進んだ枝道を右手に入ると御地蔵堂があってその少し先にあるけど,金網ぐらいしか残っていないよ」とのこと。お礼を言って御地蔵堂に行くと,右に分かれる道は小山の上の祠に続いていました。左に分かれる草むした道をたどると,何とか分校跡の金網を見つけることができました。

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# 19-10
手元の地形図(関,S.48)には文マークは載っておらず,おばあさんに出会えなかったら分校跡にはたどり着けなかったに違いありません。
稲子に通じる3つの道のうち,冬季も通じるのは,稲子峠を越える七ヶ宿町への道だけです。やはり稲子は,仙台藩の流れを組む宮城県の集落なのです。
鳩峰峠まで登って山形県に入ると,ちょうど夕陽が山形盆地に落ちました。この日の宿は,ネットで見つけたJR高畠駅(糠ノ目)近くの「ビジネス民宿 古母里」。この日の走行距離は367km(うち高速は260km)でした。夜は宿の近く,新しいけれど賑やかで雰囲気のよい居酒屋に入ることができました。
この日,稲子を訪ねて「東の全県踏破」を達成できたわけですが,それはとてもさりげないひとときでした。



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