わたる君と出会った 山形の廃村めぐり

わたる君と出会った 山形の廃村めぐり 山形県高畠町青井流,________________
________上山市古屋敷,泥部,竜沢,内山,最上町親倉見,作造原

廃村 泥部(どろぶ)の離村記念碑と無人家屋です。



2009/9/6 高畠町青井流,上山市古屋敷,泥部,竜沢,内山,
____________________最上町親倉見,作造原

# 20-1
南東北の廃村めぐり,2日目のターゲットは山形県です。「廃村千選」おける山形県の廃村は77か所で,北海道,新潟県に次いで3番目,面積に対する「廃校廃村」の密度は日本一です(114ku/箇所)。その中から,今回は上山市の4か所と最上町の2か所に絞り込みました。
平成21年9月6日(日),起床はまだ暗い早朝4時半。コンビニまで朝のサンドイッチを買いに出かけると,外はメガネが曇るほどのすごい霧です。出発時,宿の方とお話をすると,「こういう霧が出る日は,日中は良い天気になる」とのこと。
まず,高畠市街にある山形交通線の旧高畠駅に立ち寄りました。旧高畠駅は,重厚な石造りの駅舎。何でも高畠は石材の産地だそうです。


# 20-2
高畠町にも1か所,青井流(Aoinagashi)という風流な名前の廃村があるので,当初の予定に加えてまずここに立ち寄りました。高畠市街ではまだ濃かった霧は,R.113を二井宿へと走っているうちにどんどん薄くなり,青井流に着いた頃には青空が広がっていました。
二井宿小学校青井流分校は,へき地等級3級,児童数 6名(S.34),昭和45年休校,昭和48年閉校。枝道をたどって行くと,古い家屋や草に埋もれた廃屋,放牧地のような広い草原がありましたが,集落があったという感じがしません。地形図(赤湯,S.44)に文マークは載っておらず,分校跡探しには力が入りません。草原にバイクを乗り入れて転がっていると心地よかったので,しばらくここで小休止しました。


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# 20-3
後で調べると,分校の開校年は昭和33年。古い地形図(赤湯,S.22)には青井流という地名は載っておらず,青井流は短い間しか存在しなかった戦後の開拓集落ではないかと思われます。
トンネルを越えて高畠町から上山市に入り,この日2番目に訪ねたのは戸数5戸(H.20)の高度過疎集落 古屋敷(Furuyashiki)です。古屋敷は「ニッポン国古屋敷村」(昭和57年)という映画の舞台となったことがあり,観光の方も訪ねられるようですが,どんな様子かは行ってみてのお楽しみです。途中,大門の三差路で缶ジュースを飲んで休憩したとき,視界に入った看板には「ニッポン国古屋敷村 4km」と記されていました。


# 20-4
たどり着いた古屋敷には,大きな駐車場があり,「ニッポン国古屋敷村観光マップ」という看板が立っていました。バイクを停めて探索すると,大きな萱葺き屋根の家があり,明治期の馬頭観音もあったりで,時代劇のセットのようでもあります。表通りの一軒の家では,足場が組まれて補修工事が行われていました。また,裏通りの一軒の屋根は雑草が生え放題になっていました。
探索しているうちに,ここに住まれる地域の方に出会えたので,ご挨拶をしてお話を伺うと,補修工事が行われているのは東京近辺の方が使われている家とのこと。「ニッポン国古屋敷村」の観光についても尋ねたのですが,「今は静かなものだよ」とのこと。


# 20-5
東小学校古屋敷分校は,へき地等級1級,児童数33名(S.34),明治29年開校,昭和46年休校(昭和55年冬季分校休校),平成4年閉校。分校は古屋敷と萱平(Kayadaira)という隣村(昭和46年離村)の間にあり,二階建ての木造校舎は,「ログ工舎」という団体によって使われていました。
3番目に出かけたのは,古屋敷から谷ひとつ北側にある廃村 泥部(Dorobu)です。上生居(Kaminamai)から山への道に入り,生居川ダムを過ぎてしばらく進むと,道の真正面に「泥部の碑」という離村記念碑が現れてびっくりです。
碑の脇にバイクを停めて集落跡を歩くと,大きな家々のトタン屋根は赤茶色に錆びていましたが,新しい自転車が置かれた家もありました。

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# 20-6
宮生小学校泥部冬季分校は,へき地等級1級,児童数6名(S.34),昭和26年開校,昭和47年閉校。集落の中には公民館跡のような建物があり,もしかすると冬季分校は公民館と兼用で開かれていたのかもしれません。
集落跡は,離村記念碑前から一周できるつくりになっています。ひと回りした後,碑の前に座ってひと休みしていると,地域のおばさんがスクーターで走ってきました。「こんにちわ」と挨拶をすると,おばさんは会釈をされて,すぐに集落のほうに走って行かれました。すぐに「冬季分校のことを尋ねておきたいな」と思いましたが,陽射しはちょうどよいぐらいに暖かく,せわしなく動く気分になりませんでした。

# 20-7
泥部から西に向かって走り,上山市街に入ると「スカイタワー41」という超高層マンションが建っていました。このマンションは上生居あたりからでも目立っていて,周囲の風景とのギャップが妙な味を醸し出しています。
4番目の冬季無人集落 竜沢(Ryuuzawa)は,上山市街の西側,葉山温泉の近くから山へ入り,すいぶん走った高原状の場所にありました。
西郷第二小学校竜沢分校は,へき地等級2級,児童数15名(S.34),明治19年開校,平成2年休校(平成4年冬季分校休校),平成18年閉校。公民館兼用の分校跡は,入口手前の階段に沿ったコンクリート製のすべり台が個性的です。

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# 20-8
集落を探索すると地域の方に出会ったので,ご挨拶をすると,神社のこと,エドヒガンザクラの古木があること,冬季は山を下りられることなど,お話をうかがうことができました。
高原状の竜沢は居心地がよく,2つある神社に足を運んだり,別の地域の方々と話をしたりしているうちに,すぐに1時間過ぎました。
竜沢からは,R.348沿いの狸森(Mujinamori)に出て,休校中の山元小学校前の食堂でそばを食べながらお昼休み。食堂でラジオを聞いて,この日,山形市では「日本一の芋煮会フェスティバル」が行われていることを知りました。

# 20-9
食堂を出ると,芋煮会の賑わいには興味のない私は,5番目の廃村 内山(Uchiyama)を目指しました。R.348から内山へ向かう枝道は,途中から内山林道というダートになり,「大丈夫か」と心配しましたが,しばらく走ると道をふさぐように倒れた廃屋が見つかりました。廃屋の手前にバイクを停めて,その先を探索すると,いくつかの廃屋と消防小屋が見当たりました。
山元小学校内山冬季分校は,へき地等級1級,児童数9名(S.34),昭和29年開校,昭和48年閉校。住宅地図(S.58)には集落の入口に公民館が記されていて,冬季分校は公民館兼用ではないかと思われたのですが,そこに公民館跡の建物の気配は感じられませんでした。

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# 20-10
山形県内陸中部(村山)の上山市から内陸北部(最上)の最上町までは90kmほどの距離があり,この間はひたすら移動です。それでも,田舎道を走るのが好きな私は,東根市までは主要道(R.13)には入りませんでした。思えば高畠町は内陸南部(置賜)。地域別のバランスはうまくできています。
途中,天童市郊外のとある交差点で信号を待っていると,すごい顔をした横断歩道坊や(わたる君)と目が合いました。空の青,田んぼの緑をバックとする黄色のわたる君には,バイクを停めて画像を撮りたくさせるほどの強い存在感がありました。
山形市と東根市までは高速道もあるのですが,田舎道には思いがけない出会いがあるので,たいていの場合は時間短縮よりものどかさを選んでいます。

# 20-11
東根市からは舟形町まで淡々とR.13を走り,JR鵜杉駅近くでR.47から枝道に入り,「ホタルの里」というノボリを見ながら,6番目の廃村 親倉見(Shigurami)に着いたときには午後3時半を過ぎていました。「しぐらみの里」という離村記念碑の辺りにバイクを停めて探索すると,いくつかの作業小屋,耕された田んぼや白い花が咲くそば畑があって,一見廃村には見えません。
大堀小学校親倉見分校は,へき地等級2級,児童数18名(S.34),大正11年開校,昭和50年閉校。地域の方に出会えたので,ご挨拶をして分校について尋ねると,碑のそばの赤い屋根の建物が分校跡とのこと。お話を聞かなかったら,ただの作業小屋と思っていたに違いありません。

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# 20-12
最上町といえば,平成16年2月,「全国で3校残った冬季分校を訪ねる旅」で立ち寄った野頭(Nogashira)冬季分校があった町です。前回の旅ではカンジキを履いて歩いた道をバイクで走り,たどり着いた野頭では平成18年に閉校となった冬季分校跡を探したのですが,心当たりの場所に建物を見つけることができません。偶然その場でお会いしたおばあさんに尋ねたところ,「確かにここに冬季分校があったが,この間取り壊された」とのことでした。
寂しく思うと同時に,「開校していた頃に行けてよかったなあ」としみじみ。年度をまたいで5年半だから,未来さんは中学2年,はやてくんは中学1年,どんな中学生になっているのでしょうか。そして笠原先生は,元気に過ごされているでしょうか。

# 20-13
この日最後(7番目)に訪ねる戦後開拓集落の廃村 作造原(Sakuzouhara)は,野頭からだとかなりの距離があります。陽はすっかり傾いているので,先を急がなければなりません。
JR大堀駅近くでR.47に戻り、赤倉温泉駅近くでR.47から外れ,道がダートに変わった場所には神社があったのでご挨拶。「もうすぐかな」と思って先を進むと,それらしき家屋は見当たりましたが,どうもはっきりしません。反対側から来た軽トラのおじさんに「作造原ってどのあたりですか」と声をかけると,「あと少し先に進んだところだ」とのこと。


# 20-14
やがてそば畑がある見通しがよい場所にたどり着き,作造原へ到達したことを確信できたのは夕方5時半頃。そば畑の先には家屋がありましたが,住まれている様子はなく,往時の家屋が作業小屋として使われている様子です。
赤倉小学校大森分校は,へき地等級3級,児童数32名(S.34),昭和30年開校,昭和47年閉校。あたりは薄暗くなっていて,分校跡を探すのはあきらめていたのですが,心当たりの枝道に入ってみると,分校の体育館のようなつくりの建物に遭遇しました。この建物は,農作業の用具置場として活用されている感じがしましたが,ゆっくりとはできません。記録に残すための画像をひとつ撮るのがやっとでした。

# 20-15
この日の宿は,宮城県旧鳴子町 東鳴子温泉の「旅館 大沼」です。「たまには温泉宿もよいだろう」と,前日の夜 高畠で旅行雑誌を買って決めました。
この日の走行距離は241km。高畠を出発するとき,宿の方には「鳴子温泉までだと,ゆったりとした一日ですね」と見送られましたが,7つも廃村をめぐると,「ゆったりしよう」と心がけながらも,どうしても時間に追われてしまいます。
鳴子温泉泊は,大学2年(昭和57年)の春以来 27年ぶり。旅館では,ロビーで緑茶をちょうだいしたり,たくさんの料理を堪能したり,クルマで鍵のかかる専用露天風呂に案内してもらったりと,ひとり旅としては珍しいノリのひとときを過ごしました。



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