日本最大の炭都廃村と 9番目の取材旅

日本最大の炭都廃村と 9番目の取材旅 北海道夕張市北炭夕張,_________
______________鹿島,鹿島千年,白金,北炭真谷地,登川,丁未,福住

炭鉱町の廃村 鹿島千年(かしまちとせ)に残る往時からのキリンのオブジェ(鹿島キリ助)です。



2012/5/2〜3 夕張市北炭夕張,鹿島,鹿島千年,白金,北炭真谷地,登川,丁未,福住

# 25-1
「廃村と過疎の風景(6) −集落の記憶−」,「集落の記憶」で取り上げた全国各所の廃村は計18か所。このうち夕張市鹿島(Kashima)は,最盛期には2万人強が住んだ大きな炭鉱町が,閉山とダムの建設によって無住の地となったという目を惹く歴史があることから,取り上げることになった廃村です。
鹿島の取材は,平成23年6〜7月,東京・新宿区歌舞伎町の「夕張」という鹿島出身の方(桜井千津子さん)のお店に通うことで進めました。往時の写真は,桜井さんに教えていただいた「写真集 ふるさと大夕張の記憶」の編集委員で,夕張市在住の高橋勇治さんと連絡を取って確保することができました。
残る現地の画像は,平成24年のGWに鹿島を訪ねることで確保する計画となり,同時に平成19年9月以来の北海道への旅の計画が立ちあがりました。

# 25-2
夕張市は,最盛期(S.35)は24か所の炭鉱,約12万人の人口を誇る炭鉱都市でしたが,炭鉱閉山後の観光地化には無理があり,平成19年の財政再建団体入りを経て,現在(H.24)の人口は1万人少しまで減少しました。夕張市の廃校廃村は8か所もあり,この機会にしっかりとめぐってみたくなりました。
また,「廃村と過疎の風景(7) 全県踏破への道T」では,夕張市がある道央の廃村は訪ねておらず,「全県踏破」の眼からもよいタイミングです。
北海道は,廃校廃村探索に関係する友人が多く,旅では「廃村千選」の製作でお世話になったウインデーさん,piroさんとお会いする計画を立てました。その結果,夕張2日目は,ウインデーさんに同行していただくことになりました。



# 25-3
4泊5日の北海道廃校廃村探索の旅,平成24年5月2日(水,旅1日目),南浦和の家出発は朝6時20分。羽田空港,新千歳空港を経由して,特急「スーパーとかち」が新夕張駅に到着したのは午前11時27分。南浦和から夕張までの所要時間は,およそ5時間でした。新夕張は,紅葉山駅だった頃(昭和56年8月),立ち寄って1時間ほど過ごした記憶がある駅で,今回はそれ以来31年ぶりです。
新夕張からは石勝線夕張支線で,この日の宿「ビジネスホテル夕張」がある南清水沢に向かい,荷物を置く予定だったのですが,4月27日に起きた路盤流出事故の影響で夕張支線は不通になったため,南清水沢には赤色の代行バスに乗っての到着となりました。

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# 25-4
宿に荷物を置いて,宿の方に送ってもらって清水沢駅に到着したのは午後12時35分。駅前食堂が開いていたので,入って味噌ラーメンを食べました。
清水沢は,北炭夕張炭鉱(本町)と三菱大夕張炭鉱(鹿島)の分岐点であり,発電所など,炭鉱関連の施設が多く作られました。また,北炭清水沢炭鉱が稼働していた時期もあります。炭鉱があった時代を偲ばせる大きな駅で,記念に窓口で南清水沢までの手書きの切符を購入しました。
駅を背にして左側裏手の道に飲み屋街があるので,夜に備えて下見をしたところ,看板は15軒ほどありました。当日は晴れていて暖かかったのですが,清水沢振興会館の横にはしっかりとした雪の山が残っていました。この冬は大雪ということで,空店舗のいくつかは倒壊した様子です。

# 25-5
清水沢からは,社光行き夕鉄バスに乗って,JR夕張駅,市役所がある本町を通過して,北炭夕張炭鉱(明治23年開鉱,昭和52年閉山)が稼働していた地域を目指しました。志幌加別川の東側に社光,高松,小松,西側に住初,福住,富岡,錦,いちばん奥に丁未という町名がありますが,市が主導した「石炭の歴史村」の観光開発のため,ほぼ無住化しています。小学校は全部で3校,福住に2校(夕張神社隣と丘の中腹)と丁未にありました。
社光はどんな雰囲気の町かと思いきや,人家があるのは本町寄りだけで,バス停があるあたり(旧炭住街)は,公園と観光施設があるのみでした。観光施設「花畑牧場 夕張希望の丘」(「シネマカフェ」「アートギャラリー」)に人影はまったくなく,営業開始は5月中旬とのこと。

# 25-6
「シネマカフェ」「アートギャラリー」を素通りして,少し進むと,存在感があるコンクリ橋が構えていました。橋を渡ると,説明の看板があったので見てみると,「高松跨線橋」という昭和11年にできた炭鉱専業鉄道を跨ぐ橋で,かつて右側(山側)に高松炭住街,左側に炭鉱浴場があったとのこと。
浴場跡には「北の零年 希望の杜」という観光施設が建っていました。「北の零年」は吉永小百合さん主演の映画で,施設はそのセットとのこと。
社光炭住街は平成12年頃,高松炭住街は平成10年頃に無住化し,跡地は「石炭の歴史村」の一角である「郷愁の丘」として観光地化されました。しかし,平成19年の財政破たんを経て,リニューアルした「夕張希望の丘」も先行きは厳しい様子で,社光バス停のサブの名称は「郷愁の丘」のままでした。

# 25-7
誰もいない「北の零年 希望の杜」の施設からは,谷を挟んで旭小学校(旧夕張第二小学校)の校舎跡がはっきりと見えました。夕張第二小学校は,へき地等級無級,児童数2638名(S.34),明治37年開校,昭和50年統合閉校。校舎跡は「ファミリースクールふれあい」という公営の宿泊施設として使われていましたが,所在地 福住炭住街は平成15年頃に無住化し,「ふれあい」が市の財政破綻のあおりを受けて閉鎖となったのは平成18年9月のことです。
学校の規模の大きさを考慮して「廃村千選」では,この地区名を「北炭夕張」と呼んでいます。福住のほか,社光や高松,住初の子供たちも通っていたことでしょう。校舎跡には「ふれあい」の青い看板が残り,一見綺麗に見えますが,よく見るとガラスが割れて,荒んでいる様子がわかります。

# 25-8
「北の零年 希望の杜」の施設からは,遠目に校舎跡を見ながら川の下流方向に進み,営業していた花畑牧場直営ショップをちらっと覗いて,住初の夕張神社へ足を運びました。夕張神社は,旧旭小学校とほぼ隣り合わせ。荒れているのかもと思いきや,しっかりとした神社で,おみくじを引くと吉でした。昭和60年までの夕張駅は,神社のすぐそばにあったらしいですが,それは後で知った話で,現地ではまったく思い付きませんでした。
神社から対面の山には,古い軌道跡とトンネルが見られました。北炭夕張炭鉱高松ズリ捨て線は,延長は800m。昭和24年から52年(北炭夕張炭鉱の閉山)まで稼働したとのこと。また,「夕張希望の丘」と書かれた煙突は,北炭夕張炭鉱の大煙突を赤く塗り直されてネームを入れたもののようです。

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# 25-9
夕張神社の参道を背にして,左側に入っていくと,明らかに使われていない舗装道があって,その先に,旧旭小学校のRC3階建ての校舎がそびえていました。旭小学校は,昭和50年4月に夕張第二小学校,福住小学校,丁未小学校が統合し,第二小学校の場所に創立。児童数は,昭和50年が413名,昭和57年(最終年度)が60名。その雰囲気や規模の大きさを考えると,校舎や体育館は,第二小学校の頃からのものと思われます。
5年前までは使われていた校舎跡,正面から入って様子を見てみると,気候のせいか,人為的な破壊のせいか,驚くほど荒れていました。3階まで上がって通路を進むと,大きな体育館にたどり着きました。荒れた感じが薄い体育館では,ひとときゆっくりして,北炭夕張が繁栄していた頃を偲びました。

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# 25-10
体育館からは,3階の高さになっている平屋建ての建物を通って外へ出ました。建物から出てすぐの斜面には,ふきのとうが群生しています。谷のほうを見ると,赤色の花畑牧場ショップがポツンと建っていました。後で振り返って,ショップの辺りが国鉄夕張駅の広い構内だったことがわかりました。
夕張神社を通り過ぎてからは,住初炭住街跡,夕張医療センター(旧夕張炭鉱病院)前を通って,本町のホテルシューパロの裏,梅ヶ枝横丁という飲み屋街に向かいました。さびれた夕張の象徴ともいわれる横丁ですが,予想よりも営業している店が多かったです。小さな黄色い提灯のような横丁共通仕様の看板とセットメニューが明記された飲み屋があるのが印象的でした。

# 25-11
梅ヶ枝横丁と本町表通りを結ぶ狭い階段があったので,降りてみると「高倉健主演 幸せの黄色いハンカチ ロケ地ここ」という看板が吊るされていました。本町の街角には,「映画の街夕張」関係の観光地化の一環でできたと思われる,昭和を意識した映画の看板が見当たりました。
夕張市役所前からはホテルマウントレースイ併設のJR夕張駅を目指して,坂を下りながら歩きました。本町では,普通の家やお店に混ざってあった,医院跡のビルの廃屋が記憶に残っています。道が階段になった箇所では,真正面に夕張小学校(旧夕張第一小学校)と夕張中学校(旧夕張第一中学校)の跡が並んでいる姿が見えました。

# 25-12
昭和34年の夕張市の小中学校は,小学校21校(分校1校)と中学校9校。これが,平成22年に中学校が,平成23年に小学校が,ともに清水沢地区の1校に集約されたというのですから,夕張は,廃校めぐりの聖地といえるかもしれません。
学校跡に着いたとたんに,そばのバス停(6丁目バス停)に夕鉄バスが到着したので,夕張駅にはこだわらずに清水沢に戻ることになりました。
二度目の清水沢では,駅東側の不自然な陸橋がある丘の上を目指しました。「何があるか」と思った陸橋の先には,小学校跡の建物が静かにたたずんでいました。清水沢小学校は,児童数1119名(S.34年),平成元年移転閉校。片隅の記念碑には「閉校 1989(昭和64)年3月31日」と記されていました。


# 25-13
小学校跡からは,丘の上,南隣にある清水沢神社へ足を運び,参道を下りて国道沿いのセイコーマート,汽車が来ない清水沢駅ホームなどを経由しながら,駅のそばにある読売新聞夕張中央メディアセンターに立ち寄り,所長の高橋勇治さんにご挨拶をしました。
お話をしているうちに,いろいろ話題が広がって,そのうちに昨年お礼でお送りした 「廃村と過疎の風景」第4集が気に入ったという方(Aさん)をお呼びすることになり,さらに,南部(南大夕張)の居酒屋「張張」に行くことになりました。「写真集 大夕張の記憶」にも出てくる「張張」は,平成9年,鹿島から南部に移転。店主の高橋孝さんは,平成3年に内地から鹿島に戻り,お母さんから継いだ食堂を居酒屋に替えてオープンしたとのことです。

# 25-14
清水沢まで戻って高橋勇治さんと別れた後は,炭住街にある共同浴場,パチンコ店,神社,学校跡を経由して,お昼に訪ねた飲み屋街へ足を運びました。共同浴場は閉まっていましたが,営業されている様子はわかりました。パチンコ店は中にも入りましたが,まずまず賑わっていました。
飲み屋街ではいろいろ考えた結果,入口の角にある比較的大きい「い」という居酒屋に入りました。大将は気さくな方で「清水沢に飲みに来る内地の人は珍しいよー」とカウンタを挟んでいろいろ話をしてくれました。「い」では小1時間軽く飲んで,清水沢駅前に付けているタクシーに乗って,「ビジネスホテル夕張」へ帰り着いたのは午後11時半頃でした。

# 25-15
翌 5月3日(木祝,旅2日目),起床は午前5時頃。身繕いをしていると,ウインデーさんから「到着!」との旨電話があって,ホテル前で合流したのは午前6時。オンラインでは長い付合いですが,お会いするのはこの日が初めてです。
この日の探索予定は,北炭夕張を除く夕張市内の廃校廃村7か所です。まずは「集落の記憶」で取り上げている,一番の目的地 鹿島へと出かけました。
夕張シューパロダムは,堤高111m,総貯水量4億2700万立方m,平成3年竣工,平成26年竣工予定。鹿島を通るR.452は,平成23年12月,新道に切り替わりました。往時の町名を付した橋が続く新道を走り,到着した富士見町・鹿島小学校跡には,雪の重みで倒れた枯れ草で覆われた広い空間がありました。

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# 25-16
鹿島小学校は,へき地等級無級,児童数2195名(S.34年),昭和3年開校,平成10年閉校。私は平成元年8月,北海道をKATANA750でツーリングしたとき,鹿島に立ち寄っているのですが,そこには普通の町並があって,一服したぐらいで写真ひとつ撮らず終いでした。今回はそれ以来23年ぶりです。
「ふる里大夕張の碑」は離村の年(平成10年)建てられたもので,そばには「鹿島中学校閉校記念碑」「鹿島小学校碑」とイタヤカエデの木が並んでいます。カエデの木は昔からのもので,往時の運動会の写真でも確認できます。鹿島関連のWebやブログの記事で見慣れた風景なので,「初めて来た」という感じはしませんでした。

# 25-17
鹿島小学校跡からは,比較的往時の雰囲気が残っていて,もうひとつの小学校 鹿島東小学校跡がある千年町に向けて,旧R.452を歩きました。
鹿島キリ助は,旧R.452沿い,往時から千年町の入口に立つキリンのオブジェで,胴体はドラム缶でできています。枠は往時からのものですが,「キリ助」という看板は少し前に再生されたばかりだそうです。長い間失われていたという頭と首も,同時期に再生したとのことです。看板の上にランプがあって,近くには交番があったので,「往時は看板には交通安全の標語が入っていたのかな」とか,いろいろ想像することができます。
鹿島東小学校をめざして,千年町のメインストリートを歩いていると,センターラインや木製の電柱に,大きな炭住街があったことが感じられました。

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# 25-18
メインストリートを歩ききり,道なりに曲がって坂を下ると,鹿島東小学校跡のとても広い空間が構えていました。鹿島東小学校は,へき地等級無級,児童数1383名(S.34),昭和26年開校,昭和53年閉校。蛇行した夕張川に三方を囲まれた学校跡は,新道よりもだいぶ低い位置にあり,ダムができたら水没は免れないと思われます。学校跡には記念碑はなく,10分ほどの探索で見当たったものは古い消火栓だけでした。
鹿島東小学校跡からは,ウインデーさんと「行けるところまで行ってみよう」となり,鹿島橋のほうへと歩きました。小学校跡から歩いて5分ほど,鹿島橋にたどり着いた私達の眼を惹いたのは,すごい量の水流でした。急に雪解けが進んだ鉛色の川に,意外な春の表情を感じました。

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# 25-19
橋を渡って常盤町にも足跡を残しましたが,道がぬかるんでいることと,道中の予定を鑑みて,深入りはせず,千年町へと戻りました。
鹿島橋からは千年町のメインストリートに戻り,暁橋がかかっていた跡地などに立ち寄りながら,あたりを探索しました。その中で,眼を惹いたのは,枯れ草の中で花を咲かせたクロッカスです。かつてここに家々が建っていたことを,語りかけているようでした。
鹿島千年町を後にして,宝町,緑町あたりは,砕石プラントが近いため,ダンプカーが走る道を歩かなければいけない箇所がありました。砕石プラントは,栄町に作られていたようです。青緑色の屋根の大きな工場は,私達が訪ねてからまもなく,ダム堤体工事終了のため,撤去されたそうです。

# 25-20
鹿島小学校跡に戻り,富士見町の住宅街跡を探索してから,クルマに乗って,R.452の新道を北に向かって走りました。ほどなくたどり着いた旧道との交点の手前左側には,大夕張炭鉱の坑口(新斜坑材料坑口)が見当たりました。ウインデーさんによると,新道ができて,雪どけで草の少ない頃だから,簡単に,かつはっきりと見えるとのこと。硫黄の匂いがするやや温かい水が流れ出る坑口上方には三菱のスリーダイヤが見られました。
三菱大夕張炭鉱が操業を開始したのは昭和4年,その前年,炭鉱町 鹿島が誕生しました。戦後,炭鉱は石炭需要の高まり,技術革新とともに発展しましたが,昭和45年操業の南大夕張炭鉱への生産集中により,昭和48年に閉山しました。南大夕張炭鉱(夕張市最後の炭鉱)も平成2年に閉山となりました。

# 25-21
坑口からR.452の新道を清水沢へ戻るべく走っていると,途中,常盤町を見下ろせる場所があったので,クルマを停めました。鹿島中学校は,平成8年閉校。常盤町から富士見町(鹿島小学校所在地)に移転したのは昭和53年のことで,その頃,常盤町炭住街は無住化していたと思われます。
常盤町を見下ろしてから,夕張東高校跡の碑がある広場にクルマを停めて,南側に広がるシューパロ湖と,その先にある三弦橋(林業鉄道跡の鉄橋)を眺めました。この広場から目指したのは,遠くの三弦橋ではなく,近くに見える白銀橋でした。眼では近くの橋なのですが,行ってみようと思うと道はなく,ウインデーさんと下りの斜面,ササ籔をかき分けながら,やっとこさでという感じでたどり着きました。

# 25-22
白銀橋の先には白金(Shirogane)という戦後開拓集落がありました。鹿島東小学校(のち鹿島小学校)奥鹿島分校跡は,へき地等級2級,児童数18名(S.34),昭和32年開校,昭和55年閉校。記念碑が新道沿いに移転しているということもあり,分校跡は目指さず,橋から10分ぐらいで折り返しました。
鹿島小学校跡から白金橋まで,鹿島の探索は3時間半。ウインデーさんによると,4月下旬までは「カンジキがいるかも」と思うほど雪が多く残っていたのが,暖かい日が続いて急に雪が融け,ちょうどよい感じになったとのことです。
白金からは,一度町に降りて,JR新夕張駅で,ウインデーさんの友達(Iさん)と合流。隣接の道の駅で,昼食をとって休憩です。

# 25-23
次に目指したのは,沼ノ沢から少し山へ入った真谷地(Mayachi)です。北炭真谷地炭鉱は,明治期から昭和62年まで稼働した炭鉱で,かつての炭鉱町には,今も100戸を超える暮らしがあります。真谷地炭住街は一区から六区までありましたが,改良住宅がある六区と,真谷地市街バス停がある三区を除いて,住居はなくなっています。
真谷地二区入口はゲートがあって,炭鉱施設,二区,一区跡,真谷地小学校跡はゲートの先にあります。探索隊はクルマを停めて,長靴に履き替えました。炭鉱跡の密閉された坑口は,黄色いガス抜き管が印象的です。往時は,隣接して炭鉱総合事務所があったそうです。

# 25-24
真谷地小学校跡は,今は道も通じていない林野の一角に閉校記念碑だけが残っているとのこと。難度は高そうだけれども,楽しみでもあります。
一区と二区の間,右手に分かれる枝道を入ってしばらく歩くと,右手に材木が積まれた場所(土場)がありました。土場を過ぎてすぐに,雪融け水で増水した川の流れがあって,何とか渡れないかと試みましたが,水量の多さと流れの速さとから断念せざるを得ませんでした。
しかたがないので,やや下流の川幅が広くなった場所からアプローチしたところ,何とか渡り切ることができました。しかし,学校跡にたどり着くためには,土場近くで合流するもうひとつ川も渡らなければならず,これを渡るのもなかなか厳しかったです。長靴がとても役に立ちました。

# 25-25
林道を横切って,ササ籔をかきながら上りの勾配を進むと,何とかササに埋もれないぐらいの,背の低い閉校記念碑が待ち構えていました。
真谷地小学校は,へき地等級無級,児童数336名(S.34),昭和50年閉校。今はまったく人の気配がなくなった山中,「真谷地小学校跡 開校 明治43年5月26日 閉校 昭和50年3月31日」と記されたプレートが埋め込まれたコンクリートの碑を囲んで,3名で記念写真を撮りました。
ウインデーさんによると,碑が建っている場所は神社の敷地で,学校跡はわずかに離れた,今は杉林になっている場所ではないかとのこと。その杉林を歩いていると,「おそらくこれは便槽だろう」という丸い穴が2つ見つかりました。

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# 25-26
真谷地小学校跡の続きは,ウインデーさんの勧めで,炭住街としてはいちばん奥の真谷地一区へと向かいました。小学校があった位置よりも少し高い丘の上,広がっていた炭住街跡は,倒れた枯れ草に覆われていました。雪が融けたばかりだから見ることができる風景なのかもしれません。
真谷地一区からゲートの場所まで戻り,真谷地市街を過ぎてすぐ,「もうひとつ寄り道していきましょう」というウインデーさんの勧めで,左方向の枝道に入りました。到着した広がりのある空間は,真谷地四区という炭住街跡だそうです。クルマを停めて,町跡をどんどん歩いて進むと,川が流れる谷があって,三人組は草をかき分け谷を下りて行きました。待っていたのは,「真谷地通学橋」というプレートがある赤い橋脚の廃橋でした。

# 25-27
もうひとつのプレートには「昭和51年9月竣工」とありました。真谷地小学校が廃校になってからできた,比較的新しい橋です。
通学というのは,橋の対岸にある真谷地西小学校への通学を表すものと思われます。真谷地西小学校は昭和60年3月閉校,単純に計算すると,この橋が通学用に使われたのは,8年半だったことになります。近年廃橋に凝っているというIさんからは,「味のある遺構だねえ」という声があがりました。
次に目指したのは真谷地の南側,楓と登川です。楓(Kaede)の町並では,古い呉服店の看板がある空家が見られました。楓小学校は,へき地等級無級,児童数176名(S.34),昭和61年閉校。閉校記念碑がある場所から,横の坂を上がって,川を渡った広い場所に学校の建物の基礎が残っていました。


# 25-28
反対側に下ると,教員住宅跡らしきRC造2階建ての廃屋が残っていました。この廃屋のそばには川があり,渡れない廃橋の向こうには普通の暮らしがある家々が建っていて,子供の姿が見えました。登川は「廃村千選」には含まれていますが,楓は含まれていません。真谷地は「北炭真谷地」として,真谷地小学校付近を対象として「廃村千選」に含めました。この辺りは,微妙なところです。
続いて立ち寄った登川(Noborikawa)は,平成元年8月以来の再訪です。登川小学校は,へき地等級無級,児童数662名(S.34),大正2年開校,昭和61年閉校。小学校と中学校の閉校記念碑(平成23年8月建立)が国道(R.274)脇に並んでいますが,往時の小学校は国道の北側,中学校は南側にありました。

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# 25-29
碑から小学校跡に行く途中には,プールの跡が残っていました。管理者は夕張市とのことで,学校関係のプールには違いなさそうです。「小学校,中学校共用で使っていたから,この位置にあるのではないかと」想像しましたが,実際にはどうだったのでしょうか。
プールの跡からゆるい坂道を上がっていくと,古い地形図に文マークがある場所にたどり着きましたが,そこはただの林となっていて,往時の痕跡は,斜面に建つ何と書かれているかわからない石碑以外,何も残っていませんでした。
あたりにある数戸の家屋の多くは閉ざされており,住まれる方がいるらしい家も見当たりましたが,探索の間,誰かに出会うことはありませんでした。

# 25-30
登川からは,ルベシップ林道の様子を見て,鹿ノ谷駅そばの路盤崩落現場に立ち寄りながら,丁未と福住へ向かいました。夕張駅はこの日もスルーです。
丁未(Teimi)はいちばん奥の北炭夕張炭住街跡。万字に抜ける道道沿いには雪があちこちに残っており,通じるようになってまもなくという雰囲気でしたが,交通量はほとんどありません。雪が残った斜面に,往時の公園跡なのか,ブランコの姿がありました。
丁未小学校跡は,「めろん城」という観光施設になっており,雪が残る季節ということで,この日は休業でした。丁未小学校は,へき地等級無級,児童数1085名(S.34),明治41年開校,昭和50年閉校。閉校記念碑は,めろん城の一角にしっかりと建っていました。

# 25-31
次の福住(Fukuzumi)が,この日最後の目的地です。「石炭の歴史村」の一角を担う「花とシネマのドリームランド」として再開発され,往時の面影はほとんど残っていません。「ここが入口」という三差路,進行方向には立入りを遮るゲートが設けられていました。天気は小雨混じりとなりました。
Iさんはここでクルマで待機。ウインデーさんは黄色いカッパで,私は水色の折りたたみ傘で,ゲートをくぐり,歩いて坂を上りました。登りつめた場所には,とても大きな平地があり,「石炭の歴史村」の主要部が小さく見下ろせます。ウインデーさんによると,映画「サウンドオブミュージック」の巨大看板が立っていたそうです。そして平地の隅のほうには,「北陵中学校碑」と記された閉校記念碑が建っていました。

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# 25-32
福住小学校は,へき地等級無級,児童数878名(S.34),昭和31年開校,昭和50年閉校。往時,北陵中学校と福住小学校は,同じ敷地に建っていたのですが,「福住小学校の碑」は存在しませんでした。
往時の面影がほとんど残っていない中,異彩を放っていたのが,福住人車跡です。小学校跡を目指して坂を上がる途中,妙な立体交差があり,「これは何ですか」とウインデーさんに尋ねたことで,私は福住人車の存在を知りました。
福住人車は,昭和20年から49年まで運行されていたケーブルカーです。福住は,ケーブルカーが交通手段というほどの急斜面の町だったのですね。

# 25-33
帰りは,小学校跡付近から人車跡のスロープを下りました。少しばかり雑木が生えていましたが,すんなりと道道まで下ることができました。ウインデーさんによると,人道を歩くことができるのはわずかな期間だけで,後は雪もしくは草に埋もれるとのことです。
この日の宿,千歳近郊の「ニタッポロ荘」に到着したのは夜7時頃。訪ねたことで,知り得たものが多くあった,とても実りある夕張2daysでした。
「集落の記憶」の記事は,歌舞伎町「夕張」の関係でまとめていた2ページに,高橋勇治さんに書き下ろしていただいたページが加わり,全3ページになりました。また,「ダム建設に係わった集落の記憶」のページには,鹿島キリ助の画像を用いることになりました。

(追記1) 石勝線夕張支線は,この旅の1週間後(5月9日)に復旧しました。

(追記2) 南清水沢「ビジネスホテル夕張」は,夕張シューパロダムの工事関係で賑わっていました。宿主によると「4月は満室が続いたが,GWは止まる作業があるので部屋が空いた」とのことでした。



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