九州本土の廃村めぐりは 熊本から

九州本土の廃村めぐりは 熊本から 熊本県山都町内大臣,_______________
_____________________________________________美里町小田尾,相良村野原

廃村 小田尾(おたお)の籔の中に残る分校跡 建物の基礎です。



2009/11/21 山都町(旧矢部町)内大臣,美里町(旧砥用町)小田尾,相良村野原

# 2-1
平成21年11月,恩師を含めた母校(近畿大学)の友人達の集い(堀田コンパ)が山口県の川棚温泉で行われることになりました。日取りは22日(日)から23日(月祝)の1泊2日です。西日本での催しということで,何とか廃村めぐりと結び付けたいところです。
これまで九州の廃校廃村には,長崎県の離島部しか行ったことがなかったので,九州本土の廃村がターゲットとなり,「まずは行きやすい熊本県・福岡県に足を運ぼう」と決まりました。目指す廃村は,旧矢部町内大臣,相良村野原,五木村端海野(以上熊本県),大牟田市四山(福岡県)です。
計画を練るのは楽しいもので,岸和田のだんじり祭りの頃(9月中旬)には基本計画が立ち上がり,熊本空港行のチケットを手配していました。

# 2-2
基本計画では,旅は3泊4日,空港から熊本市内に出てスクーターを借りて,旧矢部町で1泊目。内大臣,五木村,野原,端海野をスクーターでめぐって,大牟田市近辺で2泊目。歩いて四山に出かけて,川棚温泉で3泊目,帰りは新幹線というものでした。
問題点は「スクーターを走らせるには,少々寒いのでは」という気候です。そこで9月末,よく九州(大分県,宮崎県,熊本県)の林業集落跡に足を運んでいる,島根県在住のおきのくにさんに「ご一緒しませんか」とお誘いのメールを出したところ,「内大臣と端海野には,行ってみたかったんですよ」と色よい返事が来ました。クルマだと,雨風寒さの心配がなくなるので,この時点でレンタスクーター案はなくなりました。

# 2-3
平成21年11月20日(金),旅の初日は午後半休。飛行機はSNAの特売チケット(12,600円)で,羽田発は午後3時55分。熊本空港に到着した頃(午後5時45分)にはすっかり暗くなっていました。天気は小雨まじりの曇りです。
おきのくにさんのクルマが到着して合流したのは夜6時半。旅でご一緒するのは,1月中旬の瀬戸内(岡山県)の島めぐり以来2度目です。熊本空港から矢部までは意外に遠く,前日に予約した矢部町の中心部(浜町)の宿「川萬屋」に到着したのは夜8時過ぎ。浜町は,酒蔵がある古くて落ち着いた町です。宿に近い居酒屋「やむらかん」で,飲み会兼打合せをしているうちに,おきのくにさんのお勧めで旧砥用町小田尾,五木村中道が加わりました。

# 2-4
翌21日(土),旅の2日目の起床は朝6時。天気は穏やかな晴。朝食をとって,コンビニで昼食用おにぎりを調達して,通潤橋の駐車場で鹿児島県在住のむっちーさんと待ち合わせたのは朝8時。むっちーさんはSNS(mixi)の「廃村コミュ」つながりの方で,直前のおきのくにさんのお誘いによって,一緒に熊本県の廃村を探索することになりました。「廃村探索」というキーワードで,中年男子3名が集いました。
まず目指したのは,長く存続した林業集落の廃村 内大臣(Naidaijin)です。途中で渡った緑川の渓谷は,九州らしいすごい深さです。内大臣へ向かうダートの林道は,往時の森林鉄道の軌道を使ったものとのこと。路面をよく見ると,鉄道の枕木が埋まっていました。

# 2-5
内大臣到着は朝9時半。歩道の橋を渡ると,「内大臣製品事業所跡 この場所は大正5年開設以来昭和55年3月まで60年余りの長きにわたり戦後の復興用資材など国の要請に応え木材生産を行ってきたところです。平成14年3月 熊本森林管理署 矢部事務所」という看板がありました。
看板の周囲には,石垣で区切られた家屋の敷地跡がたくさんあって,冷蔵庫の残骸,風呂のタイルなど,生活を感じさせるものが散らばっていました。
五万地形図(鞍岡,S.48)や住宅地図を見る分には感じなかったのですが,どうやら内大臣の集落の規模は,これまで私が訪ねた林業集落跡の中では最大級のようです。「かつて多くの林業集落があった九州中南部に来た」ことが実感できました。


....


# 2-6
白糸第二小学校(のち白糸第三小学校)内大臣分校は,へき地等級3級,児童数59名(S.34),大正7年開校,昭和54年休校,昭和55年閉校。道なりに坂を登っていくと,鮮やかな紅葉が眼に入り,その先には分校跡の門柱が見えてきました。広い校庭には雑木ではなく,規則正しく落葉樹が植えられています。その整然とした姿から,かつて内大臣に暮された方が今もこの地を大切にされていることが想像できました。
一度坂を下って分校の反対側に行くと,神社(山神社)があって,祠は整然と手入れされていました。1kmほど山に入ったところには,平家の落人が小松内大臣平重盛が祀ったといわれる小松神社がありますが,そこまでは行きませんでした。内大臣という地名の由来は,この平家落人伝説によります。


# 2-7
おきのくにさんは,廃村探索に航空写真を使います。「神社より少し先にプールが写っている」ということで,確かめに行ったところ,山間とは思えない広いプールが残っていました。分校からは離れていますが,かつて山の子達が水泳を学んだプールなのでしょう。
九州本土上陸 はじめの一歩の廃村 内大臣は,紅葉が印象深い,整然とした大きな林業集落跡でした。
緑川沿いに戻り,霊台橋,旧砥用町の中心(三和)からR.445に入り,次に目指したのは農山村の廃村 小田尾(Otao)です。従来,三和よりも下手(目磨)から山に入る行止まり集落でしたが,今はR.445から新しい林道が出ており,五木村へ行く途中に立ち寄るには好都合になっています。

# 2-8
狭くて曲がりくねった道が続くR.445に対して,新しい林道は走りやすい舗装道。しかし,地域の方に確認したところ,小田尾までは続いていないことがわかり,小さな川に沿って道を下ると,小田尾に向かうらしい古くて狭い荒れた舗装道に合流しました。
この道を上り切ると,まだ工事中の新しい道につながる三差路があり,ここにクルマを停めて探索開始です。小田尾の旧道(草むした歩道)は新しい道に付いたり離れたりしながら続いていて,そのうちに竹混じりの籔の中に二軒の廃屋が見つかりました。うち上手の一軒は立派な門構えがある大きな家で,庭には池があり,石碑が立っていました。家屋の裏手には,祠が残されていましたが,手入れはなされていない様子でした。

....

# 2-9
砥用小学校小田尾分校は,へき地等級2級,児童数13名(S.34),明治30年開校,昭和42年閉校。私の五万地形図(砥用,S.42)の文マークと,おきのくにさんの「分校は祠より少し下手にあったらしい」というネット情報を手掛かりに,3人で雑木を縫いながら探索を続けると,分校跡のものと思われるコンクリートの階段を見つけることができました。校舎は残っていませんでしたが,コンクリートの基礎がしっかり残っていました。
校庭跡は雑木に覆われているため,真昼にしてほとんど日差しが入りません。単独で訪ねていたら,見つけられなかったように思います。後日「砥用町史」(1964)を調べたところ,往時の小田尾分校の校舎の写真が載っていました。コンクリートの階段の正面は,校舎の入口になっていました。

# 2-10
三差路に戻って,昼食休みをとって,小田尾を出発したのは午後1時半頃。予定はまだ半分も消化していません。R.445に戻り,二本杉峠を越えると,秘境として名高い旧泉村五家荘ですが,今回の道程を考えると五家荘は普通の観光地,迷うことなく通過です。この頃には空は曇りとなりました。
3番目に目指した林業関係の廃村 中道(Nakamichi)は,旧泉村と五木村の境界近くから入った山の中腹にあります。五万地形図に記された橋は落ちてしまったのか,橋脚が残るのみです。五木村に入ってすぐの新しい橋に向かうと,渡ってすぐに「社有地に付き許可なく立入る事を禁ず 農林興業(株)」という看板付きの柵があって,行く手を阻まれてしまいました。集落跡に続く道が柵で閉ざされている例は,神奈川県地蔵平に続き2か所目です。

# 2-11
古い橋の所に戻ってみると,向こう岸の橋があった部分にも錆びた看板付きの柵があり,中道は無人化してすぐ(推測では昭和末頃)に社有地になった様子です。中道行きはあきらめとなりましたが,時間的にはいっぱいいっぱいです。この時点で,同時に端海野行きもあきらめとなりました。
五木村に入ると,R.445は格段に走りやすくなります。五木村は川辺川ダム建設により中心部(頭地)が水没,頭地は代替地に移転し,新しい集落となりました。道の改良はダムの建設に伴うもので,集落の移転も完了していますが,川辺川ダムは建設が止まり,今後の建設予定は白紙になっています。
「道の駅いつき」では,「子守唄まつり」というお祭りが行われていましたが,2台のクルマは賑わいを避けて,R.445新道から旧道に入りました。

# 2-12
むっちーさんは「廃墟Pure Love」という廃墟を取り扱ったWebの管理者です。その中で「沈みゆく五木村…」という特集のページには平成14年8月と12月の頭地の旧集落画像が掲載されており,移転の頃の頭地の様子がリアルに描き出されています。
五木村(ダム建設予定地)の探索は,むっちーさんの先導で行われました。大きなイチョウの木があるあたりには,かつて五木東小学校が建っていたそうです。小学校跡から見える長くて高いコンクリート橋は,ダムに沈む村の姿を象徴しています。また,旧五木中学校跡には,往時のままのグランドに桜並木,夜間照明塔が残り,地域の方がイヌを連れて散歩に来られていました。グランドの上手には,R.445新道のガードレールが見えます。

....

# 2-13
頭地を後にして,R.445旧道を少し下流側に進むと,古びた児童注意の交通看板と横断歩道が見当たり,野々脇の分校跡に到着です。頭地,野々脇は,新道沿いにそれぞれの代替地が作られていて,住民の方が移転されているので,集落が継続していると見て,廃村千選のリストには入っていません。
さらに進んで相良村に入ってすぐの場所にあるのが,4番目の目標 農山村の廃村 野原(Nohara)です。ダム工事は進行していて,往時からのものは,つる草がからまった吊り橋が見当たる程度です。「全面通行止 相良村長」という看板文字のうち,赤色文字は色褪せて見えなくなっていました。
むっちーさんによると,「前に来たときは工事の車両が通って落ち着かなかったが,工事が止まって探索しやすくなった」とのことです。

# 2-14
五万地形図(頭地,S.57)では,吊り橋のそばに文マークが記されていますが,その場所は盛り土がなされて,地形が変わってしまった様子です。
野原の代替地は造成されたものの,住民の方は誰も移転しませんでした。このため集落は消滅したと見て,廃村千選のリストに入っています。
相良北小学校野原分校(のち野原小学校)は,へき地等級無級,児童数133名(S.34),明治29年開校,平成6年閉校。私が住宅地図で調べた代替地(野原小学校移転予定地)は,川よりもはるかに高所にあり,学校跡からはさらに下流側に進むなど,ずいぶん回り道をしなければ行くことができません。何があるかわからない野原代替地に到着したのは夕方4時50分。ぎりぎり明るいうちに間に合いました。

....

# 2-15
たどり着いた代替地の真ん中には大きな集落センターらしきものが建っていて,片隅には野原小学校の記念碑と往時の門柱が飾られていました。変化に富んだこの日の廃村探索の最後を締めくくるには,ちょうどよいものが見つかりました。
その後はR.445を南下し人吉市街に出て,人吉IC近くのラーメン屋で一服して,むっちーさんとはここでお別れです。おつかれさまでした。
この日の宿,荒尾市の旅館「長崎屋」には,九州道を移動中に予約の電話を入れました。旅館の対面は酒屋があって,その右側は「かいせん」という角打ち(酒屋に併設された小さな飲み屋)になっていました。「おつかれさまー」と,角打ちでおきのくにさんと乾杯したのは,夜10時頃でした。



「廃村と過疎の風景(8)」ホーム
inserted by FC2 system