福岡の廃村めぐりは 三池炭鉱から筑豊へ

福岡の廃村めぐりは 三池炭鉱から筑豊へ 福岡県大牟田市四山,添田町大藪

高度過疎集落 大藪(おおやぶ)に残る分校跡の建物です。



2009/11/22 大牟田市四山,添田町大藪

# 3-1
九州本土の廃校廃村めぐり,2県目の目標は福岡県大牟田市四山(Yotsuyama)です。大牟田といえば,平成9年まで稼働していた三井三池炭鉱の企業城下町。海辺に近い四山にも三池炭鉱の社宅街(四山社宅)があり,その中に小学3年生までが通ったという分校が開かれていました。
住宅地図を見ると,平成元年までは社宅街が掲載されていた四山町でしたが,平成2年にはそこは巨大な更地に変わっていました。社宅街には診療所,保育所,郵便局,公園,共同浴場,労働組合の支部などが記されていたのですが,短期間にすべてが取り壊されたようです。
有明海海底の炭層を採掘していたという四山坑の稼働時期は,大正12年から昭和40年。閉坑からも社宅街は20年以上残っていた計算となります。

# 3-2
四山という地名は大牟田市と熊本県荒尾市にまたがっていて,泊まった旅館「長崎屋」の所在は荒尾市四ツ山町です。角打ち「かいせん」では,お店の方,常連さんから,「四山の名前は,市街地と工業地の間にある四つの山から来ている」など,いろいろな話をうかがうことができました。
荒尾・大牟田では,炭鉱があった頃の雰囲気が残る飲み屋に行きたかったのですが,泊まった宿の目の前に角打ちがあったのは,ラッキーでした。
平成21年11月22日(日),旅3日目の起床は朝6時頃。天気は重めの曇。宿の隣の大衆食堂「長崎屋」で朝食をとった後,おきのくにさんと歩いて四山に出かけたのは朝7時40分。はっきりしない県境を越えて,三池鉄道跡のガードをくぐると,今は住む方は誰もいない工業地帯です。



# 3-3
住宅地図には,北から数えて2つ目の山の頂上に山神祠(神社)が記されており,ここは四山社宅があった頃から変わっていない様子です。
山神祠に向かう薄暗い舗装道の両側には柵があり,やがて海側に三池炭鉱四山事業所跡の古びた門が見当たりました。往時は門の向こうにコンクリート製の大きな竪坑のヤグラが建っていましたが,平成8年秋に爆破解体されました。四山の歴史を考えると,残してほしかったところです。
そのすぐそば,山側の柵の切れ目が山神祠の入口ですが,知らない方は見逃すに違いありません。草に埋もれそうな階段を上ってたどり着いた山頂の広がりに祠はなく,「福岡縣」と記された折れた石柱が残るばかりでした。どうやら,山神祠も祠跡になっている様子です。

....

# 3-4
ここで昨夜「山神さんで待ち合わせて四山に行こう」といって別れた「かいせん」の常連さん(藤島さん)に電話をすると,「山神さんって,四山神社じゃなかとか」とのお返事。四山神社は北から数えて4つ目の山の頂上にある大きな神社で,ふたりは歩いて移動して藤島さんと合流しました。
藤島さんは広島県の方で,「荒尾には単身赴任で来ているが,気兼ねのない住み良い町」とのこと。その後は,藤島さんのクルマで,昔ながらの社宅が残る大牟田市入船町を経由して,四山社宅跡へと向かいました。現在,四山社宅跡の北側は,全農エネルギーという会社の石油基地になっており,この会社の正門手前にクルマを停めて,南側の更地に向かって探索を開始しました。

# 3-5
三里小学校四山分校はへき地等級無級,児童数283名(S.34),昭和30年開校,昭和48年閉校。古い地形図(大牟田,S.43)の文マークは,社宅街の中央,県境ぎりぎりに記されています。広々とした更地を3人ばらばらに足の向くまま探索をしてみましたが,往時の痕跡は何もみつかりませんでした。
所々に草のない広くて黒い地面が見当たりましたが,四山社宅が取り壊されてから閉山までの間,この地が貯炭場として使われていたからのようでした。時折小雨が降るモノトーンの風景は,夢のように感じられたのですが,それはかつて住まれていた方の夢がここに眠っているからかもしれません。
藤島さんからは「あんたらに会わんかったら,まず来なかっただろうけど,なかなか面白かった」という声をちょうだいしました。

# 3-6
旅館「長崎屋」に戻って,お酒を調達して,あいにくの雨空の下,おきのくにさんのクルマで荒尾を出発したのは午前11時半頃。当初は大牟田駅から鉄道で関門トンネルをくぐり,母校(近畿大学)の友人達の集い(堀田コンパ)がある山口県の川棚温泉を目指すつもりでしたが,「雨なので,今日は帰路の方向の山口県内で宿を取ります」というおきのくにさんの動きに便乗して,急きょもう一か所,福岡県内の廃校廃村を目指すことになりました。
大牟田から関門橋・山口県に向かう途中で行けそうなのは,旧嘉穂町の栗野(Kurino)か添田町の大藪(Ooyabu)です。迷っている時間はなく,峠(大藪峠)を越える道があって行きやすそうな大藪を選びました。持っていたのは,五万地形図(田川,S.48)のみです。

# 3-7
久留米の市街地,甘木,秋月,山深い小石原を過ぎて,大藪峠を越えて大藪に到着したのは午後2時過ぎ。昼食は,コンビニで調達したサンドイッチを移動中の車内で食べました。まず見当たった神社は車道沿いにあって,雨に濡れたイチョウの黄葉が綺麗です。
添田町は数多くの炭鉱があった筑豊にあります。往時は添田にも大峰炭鉱(昭和37年閉山)などがありましたが,大藪は炭鉱とは無関係の農山村です。
地形図を見ると,文マークは神社よりも少し下手にあります。新道と旧道の分岐では旧道を選んで,わずかに走るといかにも学校に続くという感じの坂道が見当たりました。「これは期待できますね」とクルマを停めて,坂道を上がると,期待通りの古びた木造校舎がふたりを迎えてくれました。

..

# 3-8
中元寺小学校大藪分校は,へき地等級2級,児童数26名(S.34),明治27年開校,昭和44年閉校。熊本・福岡の廃校廃村めぐりでは,5か所の廃校廃村を回りましたが,校舎は残っていたのは大藪が初めてです。雨の中の探索という気だるさは吹き飛び,「来てよかったね」とふたりして大喜びです。
校舎内には,何に使うかわからない道具がたくさん置かれていて,壁には,平成5年と記された大藪婦人会宛 九州電力からの感謝状が飾られていて,よく読むと検針・集金業務についての感謝状でした。もしかすると,分校跡は今も共同作業場として使われているのかもしれません。
住宅地図(H.18)に記された大藪の戸数は5戸。クルマを停めたあたりから遠くに数戸の家屋が見えましたが,集落には立ち寄りませんでした。

# 3-9
大藪から,陣屋ダム,添田,香春,小倉南IC,関門橋,下関ICを経て,川棚温泉の宿「寿旅館」に到着したのは,ほんのりと明るさが残る夕方4時半。熊本・福岡の廃校廃村めぐり 2泊3日の旅,熊本空港から川棚温泉まで,ずっと付き合っていただいたおきのくにさんには改めて感謝です。
コンパの飲み会では,ふぐ料理を食べながらやたらと元気でした。元気とは,好きなことをしていると,泉のごとく湧いてくるもののようです。
翌23日(月祝),旅4日目の天気は快晴。旅の〆には,関門海峡に浮かぶ無人化した有人島 巌流島(船島)に,コンパの仲間と一緒に立ち寄りました。
平成21年の廃村全県踏破の旅はこれにて終了。東日本は9月の宮城県を最後にめぐり終わり,未訪県は西日本ばかりちょうど10県となりました。

(注) 山神祠に向かう私の後姿が写った画像はおきのくにさんに,講演会の画像は前川雅彦さん(近畿大学)に提供していただきました。

(追記1) 大牟田出身の中川雅子さんが(当時高校生)の著書「見知らぬわが町 1995真夏の廃坑」(葦書房,1996)では,爆破解体直前の四山坑第一竪坑のヤグラが表紙写真に登場します。冊子の編集中(平成26年2月)に「見知らぬわが町」がNHK-TVでドラマ化(平成22年12月)されたことを知った私は,翌月,妻と一緒にNHKアーカイブス(埼玉県川口市)までドラマ(忽那汐里さん主演)を見に行きました。。

(追記2) この旅の5日後(11/27(金)),第10回近畿大学日本文化研究所学術講演会「廃村と過疎の風景」〜都会からは見ることのできない日本〜の講師を勤めました。第1回は作家の五木寛之さんで,演題は「暗愁のゆくえ」でした。そこで「暗愁のゆくえ」が掲載された「元気」(幻冬舎文庫,2005)を読んだところ,「死をつよく意識する。そのことによって人は生の強烈な実感をつかむことができるのである」という一文が記されていました。五木寛之さんとの縁を記念して,講演会では廃村を村の死と例えて,「廃村を訪ねると,生きているという実感を強く感じることができる」いう言葉を結びに使いました。

....




「廃村と過疎の風景(8)」ホーム
inserted by FC2 system