しおかぜに乗って 銅山集落跡へ(1)

しおかぜに乗って 銅山集落跡へ(1) 愛媛県新居浜市東平,鹿森

アルプさん達とスーツ姿で出かけた,別子銅山・鹿森(しかもり)集落跡です。



2010/3/28 新居浜市東平,鹿森

# 6-1
愛媛の銅山集落跡をめぐる旅のきっかけは,平成22年3月上旬,牛ヶ首島,釜島への旅の夜,六口島の宿でだらだらと飲んでいるうちにできました。
愛媛県新居浜市の別子銅山は,住友財閥の基礎を作ったことで知られ,日本三大銅山(あと2つは足尾銅山と日立銅山)と呼ばれるほどの規模を誇りましたが,昭和48年に閉山となりました。その跡地は住友の手によって整備され,「マイントピア別子」として多くの観光客を迎えています。
「廃村 千選」における別子銅山関係の廃校廃村は,新居浜市東平(Tounaru),鹿森(Shikamori)と今治市(旧宮窪町)四阪島(Shisakajima)の3か所です。東平と鹿森は「マイントピア別子」の範囲にありますが,四阪島は新居浜港から20kmの瀬戸内海に浮かぶ離島です。

# 6-2
明治28年,無人島の四阪島に別子銅山で産出する銅の精錬所の建設が始まり,最盛期(大正年代)には,人口5,500人を超える鉱業所の街が作られました。その後,別子銅山の閉山により規模は縮小され,昭和52年,小学校・中学校は閉校し,鉱業所集落はその役割を終えました。
工場(住友金属鉱山別子事業所四阪工場)は今も存続しており,また,島全体が住友の社有地のため,許可なしに立ち入ることはできません。
マニアが集って話をすると,話題の対象は,訪ねるには難度が高い四阪島となります。「年に一度,「一島一家の会」という四阪島に住まれていた方のOB会があるから,そのとき船に便乗させてもらうと行けるかも」という話は,ネットでアルプさんからうかがっていました。

# 6-3
飲み会では「「一島一家の会」は4月にあるらしい」,「HEYANEKOさんだったら,全国規模で廃村の記録をまとめているのだから,許可を得ることができるのでは」と,話がはずみました。四阪島には行けるものなら是非行きたいところなので,しっかりと,取り組んでみることになりました。
まず新居浜市役所に連絡をして,「一島一家の会」の世話役の田中昌一さんを紹介していただき,3月中旬に田中さんと電話連絡を取りました。田中さんからは,「会は例年4月第一週の日曜日に開催され,規模は60名程度,別子事業所のチャーター船で行く」,「取材は会としてはかまわないから,事前に別子事業所に連絡を取って説明し,許可を得るとよいでしょう」と,良い感触のお話しをうかがうことができました。

# 6-4
平成22年の4月第一週の日曜日は4月4日(日)で,田中さんの確認も取れています。「事前に連絡を取る」ということで,3月下旬に新居浜にご挨拶に上がろうと,別子事業所の総務課長の方に電話をして,経緯をお話ししたところ,「私が総務課に来てからは,特別な許可は出したことがない」,「Aさんに許可を出してBさんに許可を出さないでは,問題が生じる」と,芳しい回答を得ることはできませんでした。
何度かのやり取りの後,「3月下旬には新居浜に行くので,ご挨拶だけでも…」とお願いしたところ,「わかりました」という返事を得ました。しかし,直前に「申し訳ありませんが,急な用事が入ってしまいました」と,キャンセルの留守電が入りました。これはあきらめざるを得ません。

# 6-5
「この機会に,西日本を代表する鉱山街の廃村に行っておこう」と頭を切り替え,アルプさん達と一緒に,東平,鹿森を訪ねることになりました。しかし,別子事業所への挨拶と京都への出張とあわせて日程を組んだことから,私服はウインドブレーカーをかばんに詰めただけで出かけました。
埼玉・東京出発は,仕事が捌けた3月26日(金)夕方。翌27日(土)は京都で仕事をこなし,翌々28日(日),起床は朝6時半。天気は晴。父の見舞いに行った後,堺の実家を出発したのは朝8時半。新大阪から岡山へ出て,特急「しおかぜ」に乗って,瀬戸大橋を渡り,新居浜を目指しました。
新居浜駅到着は12時7分。駅では3週間前に会ったばかりのアルプさん,マミーさんが待っていてくれたのですが,スーツ姿には驚かれたようでした。


# 6-6
まず目指したのは,大正から昭和初期に別子銅山の採鉱本部があった東平です。アルプさんのクルマで新居浜市街を出発すると,端出場(Hadeba)の道の駅「マイントピア別子」あたりまでは晴れていたのですが,山を上ると曇り空になり,東平の手前では道端に積もる雪が見え始めました。
標高750mの山中にある東平集落は,社宅,小学校,劇場,接待館が建てられるなど,昭和43年に休止となるまで,鉱山街として賑わいました。
近年「マイントピア別子 東平地区」は,レンガ造りの貯鉱庫跡付近の外観から「東洋のマチュピチュ」と呼ばれています。3人は「東平歴史資料館」を見学し,弱い雨の中,歩いて15分ほどの変電所跡を訪ねましたが,変電所跡ではTVのロケが行われていたので,中には入りませんでした。


# 6-7
変電所跡からの戻り道では,雨はみぞれ交じりとなり,「何しにきたかな」という雰囲気になりました。しかし,雨はすぐ上がり,駐車場から貯鉱庫跡を見降ろしているとき陽が射して,貯鉱庫跡を包むように虹の橋がかかりました。これには3人とも大いに驚き,ガラリと雰囲気は明るくなりました。
「さっきのTVのカメラも,撮れるとよかったんだろけどね」という声が,アルプさんから上がりました。
虹のインパクトが強かったためか,220段もあるという階段を降りて昇ることがたいへんと思ったからか,貯鉱庫跡には立ち寄らず,クルマに乗って集落跡でいちばん高い所にある小学校跡を訪ねました。東平は二回目というアルプさん達も,学校跡は初めてとのことです。

....

# 6-8
私立別子学園東平小学校は,児童数327名(S.34),明治39年開校,昭和43年閉校。公立に移管されたのは昭和36年でした。学校跡は「銅山の里 自然の家」という宿泊施設になっていますが,この季節,人の気配はありません。夏は涼しくてよさそうです。また,門柱の横には説明書きの立札があり,気楽に探索しても往時の様子を知ることができました。最盛時,東平には社員とその家族3800名が住まれていたそうです。
続いて,昭和初期から閉山まで別子銅山の採鉱本部があり,跡地が道の駅「マイントピア別子」となっている端出場と,その近くの山中の鉱山集落 鹿森へ出かけました。鹿森は,地元愛媛のアルプさん達も「ダムとトンネルの名前しか知らんかった」ということです。

# 6-9
道の駅にクルマを停めて,「マイントピア別子」の本館2階にある別子銅山に関する写真・説明のコーナーで予習をしてから,歩いて鹿森を目指しました。駐車場の端のほう,端出場の貯鉱庫跡(炭焼き窯)の横には石段があり,「鹿森への入口」とわかる看板が立っています。
「マイントピア別子」は多くの観光の方で賑わっていましたが,鹿森へ続く山道に人の気配はありません。それでも山道は整備されており,スーツでも苦にはなりません。「坂道は苦手」というマミーさんには,ゆっくり来てもらうことにして,アルプさんとチョコレートをつまみながら先を進むと,入口から15分ほどで,「大正5年建設 鹿森 昭和45年3月閉鎖」と記された石碑と,「鹿森住宅」と刻まれた銅板がある場所まで到着しました。

# 6-10
銅板には,山の中に段々畑のように作られた鹿森集落の様子が刻まれており,学校跡はいちばん左側の区画(一区)の上から3番目の段にあるようです。
「神社が近いので,行ってみましょう」と,いちばん右側の区画(五区)から探索開始です。「ししもり」と呼ばれる大きな岩と神木,石垣,手水鉢,石柱が残る神社跡は,往時の雰囲気をよく残しています。集落の縁の山道を上っていくと,尾端と呼ばれる住宅が集まった区画があって,住宅跡の敷地には,レンガ造りやコンクリート造りのかまどをたくさん見られます。最盛時,鹿森には社員とその家族1300名が住まれていたといいます。
そのうちに「お風呂の跡があったよー」というマミーさんの声が聞こえましたが,どこからなのかはわかりませんでした。

# 6-11
「ひょっとすると,道を間違えたかも」と心配し始めた頃,直線の下りの階段(三区と四区の境界)がある三差路に到着。三区を横切って,別の階段(二区と三区の境界)を下ると,やっとお風呂の跡(共同浴場跡)に到着し,マミーさんとも再会できました。
学校跡は,浴場跡より2段上にある運動場を横切った場所にあるのですが,「しんどいからここで休んどく」というマミーさんを残して,再びアルプさんと二人で出かけました。私立別子学園東平小学校鹿森分校(のち角野小学校鹿森分校)は,児童数113名(S.34),大正6年開校,昭和45年閉校。門柱には「東平小学校鹿森分教場」と書かれた古びた木の標札が掛けられていて,「おおっ」と思いましたが,しっかり管理された中にあるからのようです。

....

# 6-12
共同浴場跡に戻って,錆びて朽ちた鉄橋と石段をバックに集合写真を撮って,探索は終了。その後,別子銅山の写真・説明のコーナーに戻ると,四阪島のエリアがあって,小学校のパネルなどを興味深く読みましたが,パネルの隅には「私有地のため,立ち入ることはできません」と記されていました。
アルプさん達には,「少し前まで古い社宅街が残っていた」という星越を案内していただいた後,夕方6時頃,新居浜駅で別れました。
この日はそのまま東京まで帰ることも考えていたのですが,「せっかく愛媛まで来たのだから,明日も続きを楽しもう」となり,駅前でレンタカーを借りました。宿は新居浜市街ではなく,クルマの足慣らしと明日の行程を考慮して,約30km離れた四国中央市の川之江市街で探しました。



「廃村と過疎の風景(8)」ホーム
inserted by FC2 system