鉄橋見物とあわせて出かけた 但馬の廃村

鉄橋見物とあわせて出かけた 但馬の廃村 兵庫県香美町熱田

探索開始から1時間強,やっと見つけた熱田(あつた)の分校跡です。



2010/6/5 香美町(旧美方町)熱田

# 8-1
「廃村 千選T −東日本編−」の冊子が完成したのは平成22年5月31日(月)。この日は,来春完成予定の「廃村 千選U −西日本編−」の冊子作成の始まりでもあります。その3日後の6月3日(木),起床後すぐに天気予報を見ると,梅雨入り前には珍しく全国的に良い天気になりそうです。
「これは,西日本のどこかへ行けというサインだ!」とひらめき,目標に決めたのは兵庫県の日本海側 但馬地方の廃村です。但馬に決めた理由は,まず,兵庫県が廃校廃村の未訪県であること,次にJR山陰本線の余部(Amarube)鉄橋の架け替えの時期が近いことを耳にしていたことからです。
調べてみると,余部鉄橋は「平成22年7月16日の夜をもって供用終了」とのこと。理由が2つ重なったということで,迷わず但馬にGO!です。

# 8-2
この春(3月上旬)の瀬戸内(香川・岡山)の島への旅で,島根県在住のおきのくにさんから「但馬の廃村に行く機会があったら声をかけてください」という話を受けたので,「2日後なのですが…」とお誘いをしたところ,「熱田と霧滝には,行ってみたかったんですよ」とありがたい返事が来ました。
旅の開始は平成22年6月4日(金)。仕事を終えて,東京駅を夕方6時に出発し,京都乗換えの山陰本線でこの日のうちに行けるのは豊岡まででした。
翌5日(土)の起床は午前5時。コンビニで朝食のパンを調達して,6時35分のローカル列車で豊岡を出発。途中,海の近くの小さな無人駅 鎧(Yoroi)で途中下車して朝食休みをとり,朝8時47分に観光の目的地,かつ,おきのくにさんとの待ち合わせ場所の餘部(Amarube)駅に到着しました。


# 8-3
余部鉄橋が完成したのは明治45年のこと。百年近い歴史がある鉄橋がなくなるのは残念なことですが,架け替えによって強風による運休の回数は格段に減少するそうです。私は,余部集落西側の港の先の岩場で寝そべって,日光浴をしながら消えゆく鉄橋をぼんやりと見ていました。
おきのくにさんのクルマが余部鉄橋下に到着して,合流したのは朝10時半頃。松江から余部までは,およそ3時間の距離とのこと。
この日目指す廃校廃村は,旧浜坂町池ヶ平(Ikeganaru),旧温泉町桧尾(Hinokio),霧滝(Kiritaki),旧美方町熱田(Atsuta),小長辿(Konagatawa)の5か所です。私には少々厳しい行程のようにも思えたのですが,おきのくにさんは「何とかなりますよ」と余裕のお返事です。

# 8-4
まず,今は安泰寺というお寺が建つだけの池ヶ平に足を運びました。安泰寺を訪ねると,修行中の白人の男性(アレックスさん)とお話をすることができました。安泰寺は曹洞宗の寺で住職はドイツ人の方とのこと。池ヶ平の探索では,古びた作業小屋,土蔵,赤い鳥居と石碑が残る神社跡を見つけることができました。池ヶ平集落の越冬住宅(積雪期を過ごすための市街地の住宅)ができたのは,昭和46年12月とのことです。
久斗山の小学校跡で,昼食休みを取った後,峠を越えて熊谷に出て,次の目標 桧尾に出かけました。現住戸数は2戸,多くの空き家が建つ桧尾の探索では,二階建ての赤い屋根の冬季分校跡の建物を見つけることができ,住まれているおばあさん(神野しまゑさん)とお話をすることもできました。

# 8-5
三番目に出かけたのは旧美方町最奥の廃村 熱田です。おきのくにさんにいただいたWeb上の資料によると,「豪雪の被害を契機に昭和44年に旧美方町の中心集落 小代(Ojiro)に集団移転し,その後も夏は農作業がなされていたが,やがてそれも途絶えていった」とのこと。
用意していた地形図(村岡,S.46)には熱田の文マークは記されておらず,出たとこ勝負です。R.482の終点を目指して走ると,途中「土砂流出防備保安林」の看板があって,道が二又に分かれた左のほうに家が4軒記されていました。左の道の先,舗装が途切れた場所にクルマを停めて,探索を開始すると,数軒の作業小屋と土蔵,往時の原動機などが見つかりましたが,分校跡は見つかりません。地域の方とも出会えず,場所を尋ねることもできません。

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# 8-6
右の道の先も見てみると,家屋はあるものの,集落や分校跡の匂いはしてきません。1時間が経過して,「これは諦めかな…」と思った頃,向かいの山の中腹に小さく木造の建物が見えて,「もしや」と思い訪ねることになりました。「土砂流出防備保安林」の看板を過ぎると,少し先に下りの道からはわかりやすい三差路があり,坂を上る道を選びしばらく走ると,昭和34年に建てられたという平屋建て木造校舎が待っていてくれました。
小南小学校(のち小代小学校)熱田分校はへき地等級4級,児童数13名(S.34),明治30年開校,昭和44年閉校。1時間強の探索の末に見つけたということで,ふたりで手をたたいて喜びました。校舎の脇には小さな祠があり,様子を見てみると,手入れがなされている感じでした。

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# 8-7
その後,夕暮れまでに小長辿と霧滝にも足を運びました。小長辿では,「小長辿郷跡」という離村記念碑,昭和39年に建てられたという二階建て冬季分校跡の建物を見つけることができました。また,今は小代に住まれる小長辿出身の方とお話しをすることができました。おきのくにさんにいただいたWeb上の資料によると「個々に移転が進み,昭和44年には実質的にすべての世帯が移転,集落機能は平成4年に麓の集落に併合された」とのこと。
霧滝では,区長をされている地域の方(田村晴夫さん)の案内を受けて,分校跡の敷地と神社(こんぴらさん)を確認することができました。霧滝(菅原・肥前畑)の現住戸数は5戸,アマゴの養魚場や牛舎もありますが,冬季(11月から翌年4月)は全員が越冬住宅で過ごされるそうです。

# 8-8
霧滝をほんのり明るい夕方7時半に出発し,湯村近辺のラーメン店で夕食をとり,おきのくにさんにはこの日の宿「諸寄(もよろせ)荘ユースホステル」まで送っていただきました。ユース到着は夜9時少し前。同宿の方(大阪在住の高橋さん)に廃村めぐりの話をすると,話が通じてびっくりです。
翌6日(日)の起床も午前5時。朝日が射す潮の香りがする集落を散歩していると,トロ箱に入った兄弟風のネコ二匹と出会いました。
諸寄駅を朝6時7分に出発して,餘部で再度鉄橋見物をして,豊岡,和田山,寺前,姫路で乗り換えて,三ノ宮駅で途中下車したのは11時38分でした。
架け替え直前の余部鉄橋見物とあわせて出かけたこの旅で,兵庫県の廃校廃村にも行けたということで,廃村全県踏破は残り8県になりました。

(注) 池ヶ平,桧尾,小長辿,霧滝の詳細レポートは,冊子「廃村と過疎の風景(5)」掲載の旅行記「地域の方と語らう廃村めぐり」に記しました。



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