気分はお遍路旅 阿波の廃村めぐり(2)

気分はお遍路旅 阿波の廃村めぐり(2) 徳島県上板町大山畑,美馬市空野,
___________________________________吉野川市西野峯,那賀町溝

戦後の開拓集落の廃村 空野(あきの)に残る分校跡の建物です。



2010/8/7 上板町大山畑,美馬市(旧穴吹町)空野,__________________
__________________________________吉野川市(旧山川町)西野峯,那賀町(旧上那賀町)溝

# 11-1
四国東部ツーリング,徳島県2日目の目標は,上板町から海陽町(旧海南町)まで,全部で6か所です(リスト線上のものを含む)。宿泊予定の高知県室戸市までの見積り距離は250kmですが,6か所の廃村・高度過疎集落に立ち寄ることを考えると見積り時間は12時間となりました。
平成22年8月7日(土,旅2日目)の起床は朝5時,天気は快晴。早朝の出発にもかかわらず「寿食堂」のおかみさんは,見送りに出てきてくれました。
徳島の廃村巡礼5番札所 上板町大山畑(Ooyamahata)は,麓の市街地 神宅(Kanyake)から5kmほど,香川県との県境の山(大山)の中腹にあります。 大山畑には,大山寺(たいさんじ)という由緒あるお寺があって,調べると四国別格二十霊場の1番札所とのことです。

....

# 11-2
神宅から急勾配の道をぐんぐん進むと,背後には朝日を浴びた徳島平野が広がってきました。その高低差は400mもあります(大山畑の標高は約430m)。傾斜が少し緩やかになってきたところで無人の家屋が見えて,大山寺の山門に到着したのは朝6時頃。バイクは山門近くに停めて,歩いて探索開始です。
住宅地図(H.19)で見た大山畑の戸数は3戸。クルマは通れない狭い舗道を歩くと,草に埋もれた廃屋がいくつか見当たりました。視界が開けたところには牛舎があって,世話をしている若い方の姿が見えたので,ご挨拶をして分校跡について尋ねると,「少し上手の家の方が詳しい」とのお返事。上手の家は新しい家で,「朝早くだけど」とためらいながらも「ごめんください」と訪ねると,家の方(藤原さん)とお話をすることができました。

# 11-3
神宅小学校畑分校は,へき地等級1級,児童数6名(S.34),昭和21年開校,昭和43年閉校。藤原さんのお話によると,「分校は大山寺の境内で開かれて,その後建てられた分校は,牛舎の右手にあって,今も往時からの高いスギとシュロの樹が立っている」とのこと。
藤原さんにお礼を言って,訪ねた分校跡の入口は,すでに歩いている場所でした。お話を聞かなければ,分校跡とはわからなかったことでしょう。
次の目標(廃村巡礼6番札所),吉野川市(旧土成町)平間(Hirama)は,宮川内ダムがある戸数5戸(H.19)の高度過疎集落です。しかし,平間には国道(R.318)が通っていて,うどんのお店があるほど開けているので,大山寺でひと休みしたとき,「平間には行かず,先に進もう」と決めました。

# 11-4
吉野川市(旧土成町・旧市場町・旧阿波町)では,背中に朝陽を浴びながら,昔ながらの地域の道を走ると,数名のお遍路さんと出会いました。美馬市(旧脇町・旧穴吹町)でR.193に入り,JR徳島線穴吹駅で,朝食休みを取ったのは朝8時15分。コンビニで温めたハンバーガーなどを食べました。
廃村巡礼7番札所,美馬市(旧穴吹町)空野(Akino)は,穴吹の市街地から8kmほど,高越山の中腹にある戦後の開拓集落です。地形図に記された空野への道は,「これでもか」というぐらい曲がりくねっており,その高低差は600mもあります(空野の標高は約650m)。
道の行止まりには,町営の放牧場があって,入口には「空野開拓碑」が立っていました。碑の前からは,とても立体的な吉野川に流れが見えました。

# 11-5
穴吹小学校空野分校は,へき地等級1級,児童数13名(S.34),昭和26年開校,昭和49年休校,平成2年閉校。住宅地図(H.19)で見た空野の戸数は1戸,集落跡や分校跡は放牧場の手前にあります。地形図に記されていると思われる三差路で枝道に入ると,家屋が見つかり,集落跡は特定できました。
分校跡の探索を始めようと思ったところに,イヌを乗せた軽トラがやってきて,地域の方(田浦春夫さん)と出会うことができました。
ご挨拶をして,分校跡のことを尋ねると,「ちょっと入った場所にある」ということで,一緒に行っていただくことになりました。分校跡は草に埋もれていましたが,開校時に建てたという木造校舎が傷みながらも残っていました。「風が強いので植えた」というスギの並木もしっかり残っています。

....

# 11-6
田浦さんは,昭和20年,満州から引き揚げて空野開拓団に加わり,穴吹町が合併で美馬市になった年(平成17年)まで空野に住まれていて,今も畑や山の手入れで,週に一度は穴吹市街から空野に通われているとのことです。戦後の開拓集落の様子は,改めてじっくりとお聞きしたいものです。
田浦さんにお礼を言って別れてから,「じっくり見ておこう」と分校跡に戻って校舎入口周囲の草を倒すと,入口の脇に残る鉄棒が見つかりました。
廃村巡礼8番札所,吉野川市(旧山川町)西野峯(Nishinomine)は,今も学校がある旧美郷村美郷平(Misato-taira)から8kmほど入った山の中腹にあり,その高低差は480mあります(西野峯の標高は約630m)。高い山中に小集落が点在するのは,積雪が少ない阿波の農山村の特徴のようです。

# 11-7
美郷平から西野峯に向かう道は,手元のツーリングマップには記されておらず,また枝道が多くて迷わないよう注意しましたが,品野(Shinano)という手前の集落名が記された案内板を追いかけていくと,やがて「西野峰」が記された案内板が見つかりました。案内板はありがたいです。
山の稜線を越えて,少し下ったところにある西野峯に到着したのは午前11時20分。古びた地すべり防止地域の看板には,文マークといくつかの家屋が記されていますが,それらしきものは見当たりません。平屋建ての長い屋根が見えたので,その建物の前にバイクを停めて中を覗くと,それは農機具の収納庫でした。収納庫の脇には,炭焼き用と思われる今も使えそうなかまどがありましたが,人の気配は感じられません。

.. ..

# 11-8
川田山小学校西野峯分校は,へき地等級2級,児童数6名(S.34),昭和9年開校,昭和45年休校,昭和59年閉校。収納庫付近を20分ほど探索したところ,植林されたスギ林の中に錆びたブランコが見つかりました。あと,神社跡とお地蔵さんが見当たりましたが,お地蔵さんはスポットライトのような木もれ日に当たっていたのが印象的でした。住宅地図から推定した離村時期は平成5年頃ですが,この様子だと高度成長期あたりかもしれません。
美郷平への帰路では,往路で見かけた「高開の石積み」というノボリを追って,ちょっと寄り道です。高開(Takagai)は山の斜面の小集落で,石積みは耕地を守るなどのため,随所に作られた石垣のことでした。立体的な石垣はとても見応えがあり,集落の小道は探索できるよう整えられていました。

# 11-9
後で調べると「高開の石積み」は,文化的景観として地域の方に大切にされており,夏と冬にはライトアップされ,観光の方も訪ねられるとのこと。また,その修繕は,地域の方の指導のもと,学生ボランティアなどによりなされているとのことです。
次の目標(廃村巡礼9番札所)の那賀町(旧上那賀町)溝(Mizo)までは,美郷平から主にR.193を走って60kmほどある上,峠をふたつ越えなければなりません。一つ目の峠(倉羅峠)を越えた神山町上分(Kamibun)では,「あめご料理」というノボリのお店があったので,あまごの塩焼きで昼食休み。二つ目の峠(雲早トンネル)は標高約1000m。トンネルを超えて那賀町(旧木沢村)に入ると,平成7年秋に走った剣山スーパー林道とクロスしました。

# 11-10
旧上那賀町に入り,曇り空のもと,溝に到着したのは午後2時45分。溝はR.195沿いの市宇(Ichiu)から林道で3kmほど入った山の中腹にあり,その高低差は280mあります(溝の標高は約570m)。五万地形図(桜谷,S.47)には溝に向かう道は歩道しか記されておらず,比較的新しい二万五千図(永安口貯水池,H.19)でも,林道は途中までしか記されていません。見かけた道脇の標柱には,「白石線 平成12年度林道地域整備事業」と記されていました。
白石小学校(のち平谷小学校白石分校)は,へき地等級2級,児童数73名(S.34),明治14年開校,昭和46年閉校。学校跡は林道途中の広い更地になっており,校舎は平成16年頃まで残っていたとのこと。また,学校跡手前の古びた無人家屋は,往時の教員住宅とのことです。

....

# 11-11
小学校名の白石(Shiroishi)は地域の大字名で,大字白石には市宇をはじめ,一般の集落がいくつかあります。車道がない山中の集落に本校があったというのは,徒歩交通時代には,溝が各集落から通学するのに便利な場所だったからでしょうか。
学校跡のすぐ上手,学校跡の少し先の林道下手には,数戸の家屋が見られましたが,雨戸は閉ざされており,人の気配は感じられませんでした。
市宇に戻った頃,パラッと降ってきた雨は,白石トンネルを越えたあたりから本降りとなり,カッパを着ざるを得なくなりました。幸い雨は10分ほどで上がりましたが,探索意欲は落ちてきました。R.193に戻った海川(Kaigawa)では,カッパを脱ぎがてら,ベンチに座ってジュースを飲んで一服です。

# 11-12
この日最後の目標(廃村巡礼10番札所)の海陽町(旧海南町)樫木屋(Kashigoya)は,へき地等級4級,戸数5戸の高度過疎集落です。「頑張れば何とかなるかな」と,霧越峠に挑みましたが,狭くて曲がりくねった道はなかなか先に進みません。さらに峠に越えると再び雨が降り出して,樫小屋行きどころではなくなりました。後で調べると,霧越峠は四国有数の難路とのことで,雨に降られなくても樫小屋行きは無理だったようです。
再びの雨も5分ほどで上がりましたが,カッパは荒瀬(Arase)のバス停まで着たまま走りました。険しい峠越えが続いたR.193も,荒瀬からしばらく進むと走りやすくなり,終点の海南市街は大きな街に感じられました。海沿いに走るR.58に合流すると,後は一気に南下して室戸市を目指すのみです。

# 11-13
室戸岬の丸い突端に到達したのは,日没直前の夕方6時40分。中岡慎太郎像を過ぎると空が明るくなり,海に沈む輝いた夕陽を見ることができました。
この日の宿は,室戸市 室津(Murotsu)の高台の公園内にある「ライダーズイン室戸」。走行距離は282km,時間は13時間半かかりました。
ライダーズイン室戸は,高知県が平成10年頃に行った「中山間ふるさと支援事業」に基づいて建設された県内5か所あるライダー向け宿泊施設のひとつで,16室のうちお客さんがいたのは3部屋,ライダーは私を入れて2名。夕食は室津市街のスーパーに出かけ,弁当とビール,ゆず酎を調達しました。
徳島県を踏破して,廃村全県踏破は残り7県になりました。この旅で,徳島県の廃校廃村は,全12か所中7か所まで足を運ぶことができました。



「廃村と過疎の風景(8)」ホーム
inserted by FC2 system