杖をついて訪ねた 土佐の廃村

杖をついて訪ねた 土佐の廃村 高知県安芸市竹ヶ峯,正藤

農山村の廃村 正藤(しょうとう)に残る学校跡の木造校舎です。



2010/8/8 安芸市竹ヶ峯,正藤

# 12-1
四国東部ツーリング 2番目のターゲット,高知県東部(旧香美郡よりも東側)には12か所の廃校廃村が集中しています。「行きたい」ところはたくさんあるのですが,数を追いかけるだけになることは避けるべきです。また,「是非行きたい」ところには,午前中の早い時間に行きたいところです。
前日の夜に徳島県の廃村めぐりの実績を考えて,目的地を安芸市竹ヶ峯(Takegamine),正藤(Shoutou),安芸ノ川(Akinokawa),旧物部村中津尾(Nakatsuo),旧香我美町撫川(Mugawa)の5か所に絞り込みました。うち,竹ヶ峯と安芸ノ川は,リストに入れるかどうか迷う集落で,訪ねた感じで判断しようとなりました。2日目泊の室戸から目的地経由,3日目泊予定の愛媛県旧伊予三島市までは,見積り距離279km,見積り時間12時間です。

# 12-2
いちばん興味深いのは,長いダートの林道しか通じていない正藤です。五万地形図(手結,S.43)を見ると,長い山道以外に正藤に通じる道はありません。正藤集落は中ノ川,柳井瀬集落とともに安芸市内の一ノ宮団地に移転し,昭和50年に廃村となったが,集落跡はゆず畑として使われているとのこと。
平成22年8月8日(日,旅3日目),起床は午前5時10分,天気予報は降水確率30〜50%ながら,天気はうす曇。室戸からは太平洋を左に見ながらR.55を走り,安芸市伊尾木(Iogi)の海岸で朝食休み。伊尾木の先,奈比賀からは旧東川村,伊尾木川沿いの県道・市道をひたすら走ります。旧東川村(昭和29年 合併で安芸市)は過疎が進んだ地域で,昭和34年には7校(分校含む)あった小学校は,児童数2名の東川小学校が残るのみです(休校除く,H.22)。

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# 12-3
伊尾木から32kmの古井(Koi)では,味がある簡易郵便局があったので小休止。川向こうに休校中の古井小中学校が見えましたが,先を進みます。伊尾木から43kmの別役公民館がある小集落 トベリキ着は朝8時40分でした。
影野,天ノ郷,竹ヶ峯,川成,トベリキ,土居などは,別役(Becchaku)地区を構成する小集落の名前です。私は別役地区の小中学校(別役小中学校)は,地区の中心のトベリキにあったものと思っていたのですが,五万地形図(北川,S.46)を確認すると,トベリキから2km以上離れた山中の小集落 竹ヶ峯にありました。住宅地図を見ると,竹ヶ峯は明らかに廃村なので,別役地区の様子を見てリストに入れるかどうか判断することになりました。



# 12-4
伊尾木川沿いの市道の終点 土居(Doi)まで行くと,別役バス停があって,時刻表を確認したところ,運行は週2日,安芸市街まで往復2便でした。
バス停のそばに農作業をするおばあさんの姿があったので,「こんちわ」と挨拶をして,別役集落の様子を伺ったところ,現在,別役に住まれるのはトベリキと土居の9戸とのこと。また,徳島県旧木頭村北川へ抜ける林道(東川千本谷林道)があるので,時折バイクの方が来られるとのことです。
「学校跡に行ってきます」と言っておばあさんと別れて,市道から竹ヶ峯への林道の分岐点の小集落 川成(Kounaru)の家を見ると,閉ざされて久しい様子です。ダートの林道を走り,登りついた場所には意外な広がりがあって,建物は残っていませんでしたが,すぐに学校跡に着いたと確信できました。

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# 12-5
別役小学校は,へき地等級5級,児童数53名(S.34),明治33年開校,昭和55年閉校。学校跡の広がりはドラム缶で区切られ,入口には門のような木柱が立てられていました。広い校庭には雨水計の施設があり,隅には古い開校記念碑が立っていました。校庭にスダレが敷かれていたので,農作物を天日干しされることがあるのかもしれません。地形図に記された竹ヶ峯集落跡は,学校跡の先の山中でしたが,その道筋はわかりませんでした。
学校跡から土居に戻ると,運良く先ほどのおばあさんにもう一度会うことができました。気になっていた,学校が山中の不便な場所に作られた理由を尋ねると,「昔は山中を歩く道だけしか道はなく,その中で広がりがある場所に学校を建てた」と答えていただきました。

# 12-6
土居を後にして,別役地区でいちばん下手の小集落 影野(Kageno)付近の市道を走っているとき,流水を避けようと足を上げたタイミングでバイク(BAJA)が滑ってしまい,乗り始めて20年目にして初めて走行中に転倒するというアクシデントに見舞われました。
幸いバイクは右ハンドルのレバーが曲がっただけで済みましたが,私は右足外側の付け根を強打してしまいました。それほど痛みはないので,影野からは正藤に向かうダートの林道(張川林道)に入りました。まずまずの走りやすさでしたが,一般車両が走る道ではありません。宝蔵峠を越えて,枝道に迷いながら何とかたどり着いた正藤校区の廃村 中ノ川(Nakanokawa)では,往時の家屋と蜂蜜樽から蜜を採る60代ぐらいの男性の姿が見当たりました。


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# 12-7
バイクを停めて「こんにちわ」と声をかけようと歩きだしたところ,足に痛みが走り,前に進めません。道端に落ちていた木の枝を杖にして,声をかけてみたものの,「これって蜂蜜の樽ですよね」 「そうですよ」ぐらいしか,会話はできませんでした。
幸いにも,足に腫れや熱を持った様子はありません。中ノ川からは,杖を靴下でバイクのハンドルにくくりつけてのツーリングの始まりです。
張川林道から正藤へ向かう林道(正藤林道)への分岐点が予想よりも川下にあって,少々焦りましたが,周囲は静かな山の中,アカショウビンやカモシカに出会うなど野趣は満点です。視界が開けて,ゆず畑が見られる正藤に到着した時はお昼過ぎ(午後12時50分)になっていました。

# 12-8
さて,正藤には着いたものの,学校跡がどこにあるか見当がつきません。農作業の60代ぐらいの女性(小松清子さん)の姿が見当たったので,ご挨拶をして,「学校跡はどこにありますか」と尋ねたところ,「山の斜面に大きな木が見えるじゃろ,あのあたりじゃ」という答えをいただきました。
しかし,どの道をたどれば着くのか見当がつきません。迷いながら歩けば何とかなるのでしょうが,自由に歩けないつらさが身にしみます。
「どうしようか」とひととき考えていると,清子さんから「学校の辺りには長い間行っていないし,どんな様子か見たいので,私が案内しましょう」と,願ってもない声をちょうだいし,学校跡には清子さんの案内を受けて,ふたりで出かけることになりました。

# 12-9
バイクで行けるところまで行ったら,後は急で細い山道を上ります。大きな木が立つ,移転して抜け殻となった神社跡を過ぎて,途中通った集落跡には多くの廃屋が見られますが,ゆず畑の手入れで来られる方が多いためか穏やかな雰囲気です。
歩き始めて10分ほどで,平屋建て木造校舎が視界に入り,正藤小中学校跡に到着しました。 畑山小学校正藤分校(のち正藤小学校)は,へき地等級4級,児童数21名(S.34),明治32年開校,昭和50年閉校。校庭にもゆずの木が植えられており,平屋の体育館,教職員住宅もしっかりと残っていました。
清子さんも「意外に綺麗に残っているねー」と嬉しそうです。もちろん私も大喜びで,清子さんにお願いして記念の写真を撮りました。

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# 12-10
途中,中ノ川の杖は折れてしまったのですが,清子さんが「これなら軽くて丈夫でよかろう」と,剪定されたゆずの枝を杖として使えるように調整してくれました。正藤は,杖をついて訪ねた廃村として,ひときわ印象に残る廃村となりました。
正藤からは張川林道に戻り,安芸川沿いの県道を下流側に進み,枝道を少し入った場所にある過疎集落 安芸ノ川を目指しました。栃ノ木小学校安芸ノ川分校は,へき地等級2級,児童数18名(S.34),明治41年開校,昭和50年閉校。正藤よりも大規模なゆず畑がある集落で,出会った地域の方に伺ったところ,現在住まれるのは6戸,分校跡は県道と枝道の三差路付近にあったとのこと。リストに入れるのは,安芸ノ川ではなく竹ヶ峯に決まりました。

# 12-11
安芸ノ川からは県道を上流側に走り,畑山にある「畑山温泉憩いの家」を訪ねました。正藤,安芸ノ川が含まれる旧畑山村(昭和29年 合併で安芸市)も過疎が進んだ地域で,昭和34年には5校(分校含む)あった小学校は,平成2年の畑山小学校の休校(のち閉校)によってゼロとなりました。
畑山温泉は畑山小中学校を再利用して作られており,温泉に入ってうどんを食べて骨休みしているうちに,この日の予定はここまでとなりました。安芸市街,南国IC,三島川之江ICを経由して,この日の宿,旧伊予三島市のビジネスホテルに着いたのは夜8時20分,走行距離は295kmでした。
翌8月9日(月,旅4日目)は,4か月半ぶりの鎌倉重清さんと一緒に旧金砂村中之川を再訪し,瀬戸大橋を渡って390km走り,大阪・堺の実家へ帰りました。

(追記) 8月10日(火),東京の職場経由で埼玉に帰って整形外科に行くと,大腿骨の打撲と診断されました。この足の痛みは、8月下旬まで残りました。



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