東西の境界 紀伊半島の廃村めぐり(西編)

東西の境界 紀伊半島の廃村めぐり(西編) 奈良県十津川村大渡,錨

山上にある廃村 錨(いかり)の学校跡へと続く荒れた山道です。



2010/10/10 十津川村大渡,錨

# 13-1
平成22年10月10日(日曜),台風一過の晴天のもと,「村影弥太郎の集落紀行」Webの村影さんと一緒に出かけた紀伊半島の廃村めぐり,午前中の三重県旧紀和町の和田(Wada)に引き続き,午後からは奈良県十津川村の大渡(Oowatari)と錨(Ikari)を訪ねました。
大渡,錨はともに村影さんのWebで知った廃校廃村で,村影さんは二度目となるので,村影さんに案内していただく形となりました。
十津川村は面積672ku,人口4,063名(H.23)。日本一の広さを誇る村の山間には,55もの大字(ジゲ)があり,さらに数多くの小字(バン)があります。和田の探索を終えて小松橋(和歌山県北山村)を出発し,R.169から葛川沿いの村道に入り,午後12時5分に大渡バス停に到着しました。


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# 13-2
バス停から少し入った道沿いには2軒の無住家屋があり,昭和32年に移転して建てられたという分校跡の建物は道の奥にひっそりと建っていました。
葛川小学校神下分校はへき地等級3級,児童数43名(S.34),明治6年開校,昭和42年閉校。村影さんのWebによると,大渡は葛川沿いに道が作られたことに伴いできた新しいバンで,徒歩交通の時代は山道沿いの大杉(Oosugi)というバン(現在1戸在住)が分校所在地だったとのこと。
平屋建ての木造校舎は,「何かに使われているかも」と思うほど整っていましたが,周囲に人の気配は感じられませんでした。なお,分校名の神下(Kouka)は,大渡,大杉などを含む大字の名前で,十津川村ではおおむね大字はジゲ(地下),小字はバン(番)もしくはキレ(切)と呼ぶとのことです。


# 13-3
大渡から比較的近い山中の神山(Kouyama)にも行ってみました。古くからのバンの神山は大渡よりもたいぶ高所の道の行止まりにあり,戸数は6戸(H.21)。休耕地の雑草の中,石垣や石段,いくつかの家屋が見える集落の様子に,私は「スギ林がない頃の和田はこんな感じじゃなかったかな」と思いました。しかし,郵便のポストがあり,移動販売のクルマが来る現住集落ということで,長居はしませんでした。
新旧の住宅地図の比較と,閉ざされた家屋の様子から,大渡の離村時期は平成中頃ではないかと推測しました。
大渡からは葛川トンネルを抜けてR.425,さらにR.168へとつなぎ,十津川温泉バス停がある土産物屋に入って,遅めの昼食休憩を取りました。

# 13-4
十津川温泉バス停からは,日本一走行距離が長いローカルバス(奈良交通大和八木−新宮線)が出ており,「帰路に使えるかも」と時刻表をチェックしました。八木方面は五条行きを含めて日に5便,最終便は午後3時50分発の五条行きで,時計は午後1時25分。山の稜線上にあり,山道を歩いて往復しなければならない錨の学校跡を訪ねてからでは,間に合いそうにありません。この時点で,帰路は紀伊田辺に出ることが決まりました。
錨に通じる山道は複数ありますが,村影さんが前に錨を訪ねたときは,迫野・七ッ森からの道を選んだということで,今回は出谷小原からの道を選びました。出谷小原の集落は,上湯川沿いの村道から少し入った場所にあり,軽トラは山道の分岐がある見晴らしのよい丘に停めました。


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# 13-5
出谷小原から錨までの山道は2km少しですが,通る人はほとんどいないと思われる道は荒れています。苔が生えた丸木を束ねた橋を渡ると,歩くのもたいへんな傾斜の道となりました。斜度は往時のままに違いなく,「ほんとに子供たちは毎日こんな道を歩いたのだろうか」と,素朴な疑問が生じます。
山が仕事場の村影さんに対して,私は相当にバテ気味です。斜度が少し穏やかになったあたりから,3軒の木造の廃屋がポツポツと見当たりました。これも「どうしてこんなところに家があるのだろうか」と思えるところですが,「昔からあったから」が答なのでしょう。やがて稜線の上の道に合流し,「出谷小学校跡 第六中学校出谷分校跡」という標柱が立つ学校跡の広がりに到着したのは午後2時55分。出谷小原から45分かかりました。


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# 13-6
出谷小学校はへき地等級2級,児童数96名(S.34),明治8年開校,昭和45年閉校(昭和44年度は西川第二小学校出谷校舎)。学校跡の広がりには,防火水槽が見当たりました。「十津川学校史」には防火水槽の近くに建つ校舎の写真が載っており,標柱は校舎入口近くのグランドにあるように見えます。
出谷(Detani)はこの辺りの大字(ジゲ)の名前です。古い地形図には,錨に通じる山道は出谷,出谷小原,殿井,迫野・七ッ森,松柱,柿垣内など各バンから出ており,徒歩交通の時代には大字出谷の児童が集まるには都合が良い場所だったことが想像されます。しかし,高度成長期まで山の稜線の学校が存続したのは驚くべきことです。なお,昭和44年に新設された西川第二小学校は上湯川沿い(谷間)にあり,今(H.22)も存続しています。



# 13-7
出谷小原への帰り道では,改めて廃屋の様子を見ながら進みました。中には庭先が水色に見えるほど一升瓶が積み重なった廃屋がありましたが,これは大酒呑みというよりは,空き瓶を積み重ね続けた結果こうなったということなのでしょう。
廃屋の様子から,錨の離村時期は小学校の閉校(昭和45年)からそれほど経たない高度成長期ではないかと推測しました。
出谷小原からはR.168,R.311を通って旧中辺路町近露に戻り,村影さんとは乾杯をして別れました。長い時間付き合っていただいた村影さんには感謝する次第です。秋の行楽シーズンということで,本宮大社前発紀伊田辺行きのバスは,熊野古道歩きや熊野本宮参拝の方々で満員でした。



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