屋敷跡に立つ石碑を探して

屋敷跡に立つ石碑を探して 島根県益田市広見

雪が残る廃村 広見(ひろみ)に立つ,屋敷跡の石碑です。



2011/4/23 益田市(旧匹見町)広見

# 14-1
平成22年11月中旬,東京の編集プロダクションの方(仲村さん:実務担当)から,廃村をテーマとしたムック本製作の協力依頼のメールが来ました。全国の廃村を網羅した市販本は今まで作られておらず,興味を感じました。「お話をうかがえれば」と返事をして,編集プロダクション代表の方(宇治野さん:企画・管理等担当)と打合わせをしたところ,仮タイトルは「廃村をゆく」,完成予定は平成23年3月下旬とのこと。
企画書をもとにお話を伺ったところでは,製作期間4か月で完成というのはピンと来ませんでした。しかし,12月中旬,3度目の打合わせの頃には,自分なりの製作イメージが湧くようになりました。この頃,ムック本は「廃道をゆく」で実績があるイカロス出版から発行されることがわかりました。

# 14-2
「心当たりの方は積極的に紹介する」という線で調整した結果,おきのくにさん,アルプさん,ミナカミさん,むっちーさん,成瀬さん,村影さん,「ムサシノ工務店」Webの武部さん,「流浪の民」Webのター坊さん,「雀の社会科見学帖」Webの夜雀さん,「学舎の風景」Webのpiroさん,「加茂の荒獅子」Webの荒獅子さん,「サラリーマンの休日 ちょっと行ってくる」Webのzinzinさんなど,多くの横つながりの方の協力を得ることができました。
「廃村」の定義を「往時に存在していた地域コミュニティが失われた地区」として,農山村,炭鉱・鉱山関係,離島,ダム関係の4つに分類して製作を進めたところ,3月末にはほぼ完成段階までまとまりました。この間,仲村さんとは9回の打合わせを行い,多くの協力の方と連絡を取り合いました。

# 14-3
当初,平成23年5月下旬出版予定の私家版の冊子「廃村 千選U −西日本編−」の製作への影響を心配したのですが,相乗効果で「廃村千選」の作業も順調に進みました。多くの方の協力をもとに進める作業と,単独で進める作業の違い,その良い所,難しい所など,多くのことを実感しました。
最終的に私が担当(原稿執筆・画像提供)した箇所は,埼玉県秩父市浦山地区など5か所でしたが,多くの箇所のサポートをしました。
作業が一段落した頃,平成23年初めての泊まりがけの旅の目的地となった廃村は,島根県旧匹見町の広見(Hiromi)と,山口県旧錦町の向畑・高木屋・大固屋です。このうち広見は,「廃村をゆく」では地元島根県のおきのくにさん担当(原稿執筆・画像提供)で記事ができた農山村の廃村です。

# 14-4
平成23年4月22日(金)は午後半休で,keiko(妻)とは東京駅で待合わせ。泊まりは妻の実家の岸和田・春木。移動中,おきのくにさんから明日の予定についての電話が入りました。旧錦町でスクーターを借りることも考えていたのですが,おきのくにさんのクルマに便乗して回ることが決まりました。
翌23日(土)は朝6時頃起床。天気は雨混じりの曇。春木を朝7時半に出発し,新大阪からは鹿児島中央行「さくら」に乗って広島に出て,可部線で可部まで行って,広電バス三段峡行に乗り継いで,待合わせ場所の広島県旧戸河内町旧上殿駅に着いたのは午後1時10分。幸い天気は,概ね落ち着きました。
可部線の可部−三段峡駅間(約46q)の廃止は平成15年12月。路盤と屋根の付いた自転車置場が,上殿に駅があったことを物語っていました。

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# 14-5
30分後におきのくにさんと合流し,戸河内ICから一区間だけ中国道を走って旧吉和村に出ました。旧吉和村中津谷から広見を通って裏匹見峡・旧匹見町へ向かうに向かうR.488は,中国地方屈指の酷い道で,交通量はごくわずかです。県境の峠に向かって進んでいると,路傍には雪が見えてきました。
私は平成6年8月,旧匹見町から旧吉和村,旧戸河内町をバイクで訪ねましたが,林道を結ぶルートを走ったので,接点はほとんどありません。
県境を越えて島根県に入り,道路地図でもわかる特徴的なヘアピンカーブまで走ると,その内側に屋敷跡の石碑が見えて,広見に到着したのは午後3時頃。日影には雪が残る外気の温度は5℃ほどしかなく,スクーターで来たら震え上がっていたに違いありません。


# 14-6
「甲佐家屋敷跡」というこの屋敷跡の石碑は,「廃村をゆく」にも載っていますが,実際に見てみるとその立派さに驚かされます。平成18年に立てられた石碑の表面には,往時の屋敷の写真が貼り込まれており,「昭和四十五年 広見集落移転の為 匹見山根下に転居」と記されていました。また,裏面には「幾人も産声あげし広見の地 も一度住みたい皆と共に」という詩が刻まれていました。
私は全国あちこちの廃村をめぐりましたが,屋敷跡の石碑は,平成15年8月に訪ねた京都府宮津市駒倉で見かけた矢野家の石碑ぐらいしか思い浮かびません。おきのくにさんによると,広見には屋敷跡の石碑が7ヶ所も立てられているが,この一つしか見つけていないとのこと。


# 14-7
広見に多くの屋敷跡の石碑があるというのは,このとき知ったことで,今回の探索の良い目標となりました。クルマをやや下手まで走らせて探索すると,おきのくにさんが学校跡手前の枯れ草原の真ん中に小さな石碑を見つけました。
「久留須家屋敷跡」というこの石碑には,「屋号タア 匹見町大字匹見ロ百三十一 昭和四十五年十二月二十五日 匹見町大字匹見イ七百二十三に移転」と記されていました。石碑に続く道はなく,草が茂ると埋もれてしまいそうです。
この石碑も古いものではなく,往時ここに住まれていた方が年を取り,「かつて広見に家があった」ことの証を残そうと立てられたように思えました。

# 14-8
次に足を運んだのは広見小学校跡です。中津谷−裏匹見峡の25kmほどの道中,視界に入る建物は学校跡が唯一です。吉和側からのアプローチだと,校舎は国道よりも低い位置にあり,坂を少し下った場所が定番の撮影ポイントでした。広見小学校は,へき地等級2級 児童数31名(S.34),明治17年開校,昭和45年閉校。 三八豪雪や集中豪雨の影響もあって過疎化が進行した時期は早く,最終年度(昭和45年度)の児童数はわずか2名でした。
広見集落の閉村は昭和45年12月。同年に制定された過疎地域対策緊急措置法(過疎対策法)を受けた匹見町の集落再編事業によるもので,最後まで残った7戸。そのうち2戸は甲佐家と久留須家だったことになります。

# 14-9
学校跡の校舎は,その後林業関係の事務所として使われました。校舎内を探索すると,事務所の頃に作られたらしいかまどや風呂場が見当たりました。体育館にはベニヤ板で区切られた二段ベッドが設けられていました。
また,この校舎は平成20年2月,恐羅漢スキー場(広島県旧戸河内町)から道に迷ったスノーボーダー7名がたどり着き,避難場所として2晩過ごしたことで,ニュースに取り上げられました。教室の一角には,遭難者が暖をとったと思われる焚火の跡が残っていました。
枯れ草原となった校庭は思いのほか広く,片隅にはササ籔に埋もれた門柱が見当たりました。この季節だから,見つけることができた門柱です。

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# 14-10
五万地形図(三段峡,S.42)に記された広見は,ほぼヘアピンカーブから文マークの間に位置します。しかし,おきのくにさんによるとそれは広見上組で,下手には中組,下組があるとのこと。クルマを動かして,心当たりがあれば探索をするという形で先を進みましたが,風呂まわりが残る屋敷跡は見つかっても石碑は見当たりません。学校跡から1km以上下手に進み,橋を渡ったところで,私は「戻ったほうがよいのでは」と声をかけました。
しかし,おきのくにさんの 「いやー,まだあるかも…」という声を受けて,先を進んだ結果,少し下手の右側に風呂まわりが見つかり,私はそこから上手の雑木林の方向に,3つ目(飛石家の碑)を見つけました。ふたりの眼をあわせて探した成果です。

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# 14-11
新しい石碑は「飛石家屋敷跡 匹見町ロ六十二番地甲」と記されただけのシンプルなものでしたが,探索を気持ちよく終わらせるだけの力を持っていました。甲佐家屋敷跡に始まり飛石家屋敷跡に終わった広見の探索は,ちょうど1時間ほどでした。
宿がある山口県旧錦町広瀬までの道中,おきのくにさんに話を伺うと,広見は平成4年に初めて出かけた廃村で,廃校の校舎だけが残る風景は印象深かったとのこと。以来,廃校を過疎の象徴として,島根県を中心に西日本各地の廃村や過疎の村を訪ね歩いているそうです。広見を回り終えて,私とおきのくにさんが一緒に訪ねた廃校廃村は,平成21年1月の岡山県倉敷市松島を皮切りに,5県14ヶ所になりました。

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# 14-12
旧錦町広瀬の宿「旅館小川荘」に到着したのは夕方5時半頃。夕食までの間,静かな広瀬の町を散歩して宿に戻ると,目の前に「錦中 寄宿舎 グランド←」と記された看板が見当たりました。宿の方に話をしたところ,「中学校の寄宿舎は,ずいぶん前になくなった」とのこと。
島根県滞在はわずか3時間弱。おきのくにさんには「申し訳ないなあ…」と思いながらも島根県を訪問して,廃村全県踏破は残り6県になりました。
夜10時頃から始めた飲み会の肴は,「廃村をゆく」の校正紙を綴じたファイルです。「ああでもない,こうでもない」と言いながら賑やかに語らっていると,どんどん時間が過ぎて,会がお開きになったのは午前2時過ぎでした。

(追記) 「廃村をゆく」は,この旅の1ヶ月後(5月23日(月)),東日本大震災の影響等により当初の予定から2ヶ月遅れで発売となりました。偶然ですが,「廃村と過疎の風景(5) 〜 廃村 千選U −西日本編−」も,5月23日に完成となりました。



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