集落跡に咲く花を探して

集落跡に咲く花を探して 山口県岩国市向畑,高木屋,大固屋

春の花が咲く廃村 向畑(むかいばた)に残る分校跡の建物です。



2011/4/24 岩国市(旧錦町)向畑,高木屋,大固屋

# 15-1
平成23年4月下旬,島根県,山口県の廃村を訪ねる旅のいちばんの目的は,錦川右岸の山の中腹の廃村 向畑(Mukaibata)の古くて大きなヤマザクラが咲いている様子を見ることです。平成23年は全国的にサクラが遅かったため,「標高360mの向畑のサクラはこの時期だろう」と想定しました。
「左近桜」と呼ばれるこのサクラは,平成22年4月29日,NHK-TV「にっぽん紀行」で取り上げられました。向畑集落は平家伝説の秘境で,昭和20年頃は約300人が暮らしていたが,今はおばあさん(藤村キヌヨさん)が一人暮らすのみ。その中で,左近桜は春には変わらず咲き続けているとのこと。
また,ご子息(緑さん)は,向畑に残るお母さんのために,毎日広瀬から向畑に通って食事や身の回りの世話などをしていると紹介されていました。

# 15-2
平成23年4月24日(日,旅2日目),起床は朝6時半,天気は晴。朝食を食べながら「左近桜を見に行きます」と話すと,宿のおかみさんは「向畑への道は狭くて危ないから」と,藤村緑さんに電話をかけてくれました。ただ,残念なことに「サクラの盛りは終わった」との話です。
藤村さんの軽トラックが宿に到着して,2台のクルマが広瀬から向畑へ出発したのは朝8時頃。R.434から入った市道には「←左近桜」という看板が立ち,TVのこともあって訪ねる観光の方が居る様子です。ガケに沿った狭い市道を走ると,やがて葉が茂った左近桜が迎えてくれました。
藤村さんによると,左近桜の満開の時期は,昨年は4月3日頃,今年は4月12日頃。名前は平家の武将 広実左近守に由来し,樹齢は800年を超えるとのこと。

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# 15-3
広瀬小学校向畑分校は,へき地等級1級,児童数24名(S.34),明治12年開校,昭和47年閉校。手元の地形図(鹿野,S.41)の文マークは,向畑ではなくやや手前の延ヶ原(Nobugahara)に記されています。このことを藤村さんに尋ねると,「私は小学2年まで延ヶ原の分校に行って,卒業は向畑の分校で迎えた」というお返事でした。延ヶ原は無人化して久しく,市道から分岐する道はどの道なのか,初訪の私には見当がつきません。
おきのくにさんは,戦後 旧錦町近辺にあった学校跡にひと通り足を運んでおり,延ヶ原の文マークは見なかったことにしたかったそうです。「サクラの頃に再訪して,そのとき延ヶ原の分校跡を探索するとよいかも」と私が言うと,おきのくにさんは苦笑いしていました。


# 15-4
藤村さんにお礼を言ってお別れし,広実神社にお参りをしてから,来た道を少し戻り,分校跡を目指しました。向畑の分校跡の建物は,藤村さんの元の家屋とともに,しっかりと残っています。ただ,平成19年6月に訪ねているおきのくにさんによると「4年の間に,家屋はずいぶん崩壊が進んだ」とのことです。分校前には赤い花が綺麗に咲いており,平成19年11月に亡くなられた藤村さんのお父さん(守さん)が手入れされてことが想像されました。
分校跡の建物の入口には「向畑書道館」「広実左近頭神楽団」という貼紙があります。建物の中には,昭和天皇・皇后両陛下の写真(皇太子ご成婚の頃),年度ごとに描かれた卒業生の自画像,往時の向畑集落の戸数,住宅の配置図,神楽団が神楽を舞う練習の様子を記す新聞などが残されていました。

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# 15-5
卒業生の自画像の中には藤村緑さんのものもあって,昭和37年卒業とあります。つまり,分校は昭和33年に延ヶ原から向畑(現在地)に移転したようです。黒板に書かれた住宅の配置図には,町道向畑線,向畑旧道といった道も記されており,サクラの頃なら延ヶ原への探索も可能かもしれません。
向畑集落の戸数は「昭和60年60人,平成元年16人,平成9年9人,平成10年3人」と書かれていました。また,新聞の発行時期は平成11年9月発行でした。
次に訪ねたのは,向畑とは錦川を挟んで対岸の山の中腹の高度過疎集落 高木屋(Takagoya)です。おきのくにさんから「前回,高木屋には行ったが,その先には行かなかった」という声が上がったので,あわせてその先の右穴ヶ浴(Unagaeki)という廃村にも出かけました。

# 15-6
向畑−高木屋間の錦川では,平瀬ダム(平成26年竣工予定)の建設工事が行われています。ダム堤体予定地間近には平瀬という集落がありましたが,平成7年に集団移転が行われ,無住の地となりました。
市道高木屋線を進み,2戸ほどの家屋が見える場所には「臼転橋 金曜日 通院される方は広瀬タクシーへ連絡して下さい」という患者輸送バスの看板がありました。さらに少し進みたどり着いた高木屋は,向畑よりやや標高が高い(440m)こともあってか,サクラの花が迎えてくれました。住宅地図(H.18)には3戸記されており,患者輸送バスの看板が見当たりましたが,人の気配は感じられません。

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# 15-7
広瀬小学校高木屋分校は,へき地等級1級,児童数28名(S.34),明治16年開校,昭和45年休校,昭和46年閉校。校舎は一部分が削られた形で残っており,閉校後は公民館となりましたが,閉ざされて久しい雰囲気でした。
脇に水が流れるコンクリ貼りの歩道を上って行くと,行く手に大柄な野生動物の姿が見当たりました。写真を撮ることができるほど動きが遅いこの動物,私はもちろん,おきのくにさんも「タヌキにしては丸々とした顔だし…」と,何なのかわかりません。後の調べで「テンではないか」と思いましたが,確証は持てません。この動きを見ていると,人が居なくなった山里は野生動物にとっては居心地が良い場所のようです。


# 15-8
3つ目の目標 右穴ヶ浴へ続く道は,高木屋からほんの少し先で未舗装となり,クルマは集落の少し手前までしか入れませんでした。地形図の右穴ヶ浴には卍マークが記されており,「お寺の跡を目指して歩きましょう」となりました。
雑草に覆われた頼りない山道を歩くと,集落の入口には家跡のがれきが行く手を遮るように積もっていました。一段低くなったところには草に覆われた土蔵が見当たり,その手前の荒れ地の真ん中には小さいけれど目立つ赤い花が咲いていました。「何の花だろう」と道を外れて近づいてみたら,チューリップでした。右穴ヶ浴の離村時期は昭和50年頃,花が野生のものとは考えにくく,離村の頃から咲き続けているとすればすごい生命力です。

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# 15-9
土蔵を過ぎて,坂を上って行くと,石垣や建物の敷地はありましたが,お寺の跡を特定できるものは見当たりませんでした。
4つ目の目標 大固屋(Oogoya)は,錦川の支流 木谷川の峡谷(木谷峡)沿いにあります(標高280m)。右穴ヶ浴の探索が終わり,クルマに戻る直前にパラつき始めた雨は,高木屋に戻った頃には本降りとなり,大固屋まで走るクルマの中はずっと雨でした。雨になると,クルマのありがたさを感じます。
「錦町町制施行50周年記念誌」には,大固屋を含む木谷地区は昭和48年9月集団移転(24世帯)。この年の3月,錦町議会に平瀬ダム対策特別委員会設置と記されています。大固屋は水没はしませんが,ダムはすぐ下流にできることから,集団移転には何かしらダム建設の影響があるものと推測されます。

# 15-10
木谷小学校は,へき地等級1級,児童数58名(S.34),明治16年開校,昭和44年閉校。林業会社(吉川林産)の事務所が立てられている大固屋の集落跡には,村跡の雰囲気はあまり感じられません。しかし,事務所から脇道の坂を上がった先には,往時のままの木造二階建ての校舎が残されていました。
校舎は閉校後「木谷峡自然の家」として利用されたこともあり,傷みはあるもののしっかり残っています。中に入ると,「テレビ室」「1・2・3年」「4・5・6年」といった標札や,「希望の朝」「感謝の夕」といった書き物が残されており,自然の家の頃も学校跡を意識して運営されていたことがわかります。入口の右側の壁には,「昭和28年4月 木谷小学校落成記念」の寄付金芳名の木札が往時のままに残されていました。

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# 15-11
校舎内を探索している間に雨は上がり,日が射し始めました。学校跡を後にしてからは,香椎神社の軒先を借りて昼食休みを取り,山を上がった島ノ谷,木谷峡をさかのぼった木地屋といった小さな廃村に足を運びました。高木屋,大固屋,木地屋などの地名は,木地師との係わりを想像させます。
おきのくにさんとは,錦川鉄道錦町駅で散会です。その後おきのくにさんは,錦川上流 菅野ダムに水没した廃村 鳴の学校跡を見にいかれたそうです。
岩国行きの気動車の錦町駅出発は午後2時14分。列車はパック旅行の方々で,北河内駅まで満員でした。夕方,堺・新金岡の実家でkeiko(妻)と合流し,翌日(4月25日(月))は「廃村をゆく」(イカロス出版刊)の校正紙に対する意見を仲村さんとメールでやり取りしながら,南浦和に帰りました。

(追記1) 「テンではないか」と思えた謎の動物,「アナグマに違いない」を経て,「おそらくハクビシンだろう」という結論に達しました。

(追記2) 平成24年4月7日(土),「集落の記憶」の8番目の取材旅で,再び向畑,高木屋,右穴ヶ浴,大固屋を訪ねました。メンバーは,おきのくにさん,宮崎県在住のめいこさんの3名,錦町駅待ち合わせです。
 緑さん・キヌヨさんからはいろいろなお話を伺うことができましたが,左近桜は花が咲く前でした。

(追記3) 再訪することで,延ヶ原の分校跡の探索,右穴ヶ浴のお寺の跡への到達が実現しました。

★ 延ヶ原の分校跡
 向畑分校の旧校跡(延ヶ原の分校跡)には,藤村緑さんに案内を頼むことで,行き着くことができました。今の分校跡(谷の分校跡)までの距離はおよそ2km。緑さんによると「谷周辺のほうが戸数は多かったので,移転はスムーズに行われた」とのこと。
 林道を4人で歩き,屋敷跡の石垣を見ながら進んでいると,行く手の山の上からサルが岩を落としてきましたが,笑いで済む程度の出来事でよかったです。
 分校跡には自然に茂った木々が育っていて,緑さんの案内なしでは,場所の特定は難しかったことでしょう。校庭跡には「庭園合作」と記された石碑が横たわっていましたが,昭和10年代のものということ以外,わかりませんでした。
 近くのやや高い場所には「○○先生○○之地」と記された大きな石碑が建っていて,これも何の碑かはわからなかったのですが,「クルマのない時代,大きな碑を山奥に建てるのはたいへんだっただろうなあ…」と,しみじみ思いました。

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★ 右穴ヶ浴のお寺の跡
 向畑でゆっくり時間を過ごしたため,高木屋はさらっと見るだけにして,陽が傾き始めた中,右穴ヶ浴を目指しました。
 私はチューリップがどうなっているか気になって草原を見てみたのですが,スイセンの黄色い花しか見つけることはできませんでした。
 しばらくすると,藪こぎをしていたおきのくにさんから「寺の参道が見つかった」という声が上がりました。
 声を追いかけてめいこさんと道なき道をたどっていくと,そこにはコンクリート造りの草むした参道(上りの階段)が続いていて,その先には風変わりな飾りがついた山門が構えていました。
 お寺の建物は残っていませんでしたが,片隅に「光暁山 明専寺跡」(昭和54年建立)という石碑が建っていたので,記念写真を撮りました。お寺の跡にたどり着けたのは,おきのくにさんの下調べ力のおかげです。

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(追記4) 平成25年6月29日(土),広島ホームテレビの「ホビーの匠」という番組のロケで,三たび高木屋・右穴ヶ浴を訪ねました。メンバーは,中島尚樹さんという進行役の方と制作スタッフの方3名,私とおきのくにさんの6名です。
 梅雨時にもかかわらず天気には恵まれました。また,深い茂みの中の右穴ヶ浴ロケはマムシが出てきたりしてたいへんでしたが,無事明専寺跡にもたどり着くことができました。
 夕方には,錦町広瀬にある善教寺を訪ねて,岡崎公隆住職(明専寺の最後の住職のご子息)から,往時の右穴ヶ浴のことを伺うことができました。

(追記5) 平瀬ダムは,平成27年末現在未竣工です。



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