湖国の鉱山集落跡と 2番目の取材旅

湖国の鉱山集落跡と 2番目の取材旅 滋賀県長浜市土倉

鉱山関係の廃村 土倉(つちくら)に残る選鉱場跡です。



2011/7/25 長浜市(旧木之本町)土倉

# 17-1
「廃村と過疎の風景(6) −集落の記憶−」は,当初「廃村 千選T −東日本編−」,「廃村 千選U −西日本編−」で県別でまとめた全国の廃校廃村・高度過疎集落1000か所を,農山村,戦後の開拓集落,鉱山集落,林業専業集落,炭鉱集落,離島(半農半漁)という産業別にまとめ直した資料集「廃村 千選V −産業別編−」として企画しました。冬季分校関係,へき地5級地,ダム関係というテーマ別の分類と,旅行記を2本掲載する計画を立てました。
しかし,それだけでは魅力があるものとはなりません。いろいろ考えた結果,「代表的な廃校廃村を何箇所か取り上げて,住まれていた方に往時の話をうかがい,写真をお借りして,記事をまとめる」という企画を思い付き,これを「集落の記憶」として,冊子の目玉の記事にすることになりました。

# 17-2
平成23年1月頃,「集落の記憶」で取り上げる廃校廃村は,農山村,戦後の開拓集落,鉱山集落,林業専業集落,炭鉱集落,離島(半農半漁),冬季分校関係,へき地5級地,ダム関係,再生した集落で1か所ずつ,計10か所(約20ページ)だったのですが,「廃村 千選U −西日本編−」が完成して,最初の取材を行った頃(平成23年5月下旬)には,「全国各所」という要素を加味したくなり,計18か所(約50ページ)にふくらみました。
基本的な記事の内容やレイアウトは,最初の取材の旅(愛媛県中之川,徳島県空野),記事の編集作業の中で作っていきました。そして,最初のページ見本(徳島県空野)ができたのは旅の1か月後(平成23年6月下旬)のことで,「集落の記憶」というサブタイトルが定まったのもこの頃です。

# 17-3
「集落の記憶」の取材は,愛媛県中之川では鎌倉重清さん,徳島県空野では田浦春夫さんというように,往時住まれていた方の力添えが必要不可欠です。これまで全国各地の廃村に出かけて,多くの方に出会うことができたから立ちあがった企画といえます。
平成23年7月下旬,大阪・堺の実家にあるバイクを埼玉・浦和の自宅に移動させることを主目的として計画した北陸方面6泊7日ツーリングでは,「集落の記憶」の取材も積極的に進めるように調整しました。旅の1週間前には,計4か所(岐阜県鶴見・東杉原,福井県中島・上笹又,富山県北原・長崎,長野県沓津)の取材の予定が立ちました。旅では,廃校廃村の密度が高い北陸をバイクで訪ねるので,約40か所の廃校廃村を訪ねる予定を立てました。

# 17-4
平成23年7月25日(月,旅1日目),起床は6時半頃。天気は日中は晴。堺の実家出発は朝9時。最初に目指したのは,滋賀県高島市(旧高島町)です。
高島には,滋賀民俗学会の月刊誌「民俗文化」で縁がある菅沼晃次郎さんが住まれています。近畿道・名神道は空いており,高島に到着したのは午前11時頃。菅沼さんにお会いするのは平成14年2月以来9年ぶり3回目ですが,毎月「民俗文化」を読んでいるため,久しぶりという感じがしません。
菅沼さんは,昭和39年11月,東近江市(旧永源寺町)茨川(へき地5級地)を現地1泊で訪ねられており,昭和55年には「民俗文化」に記事を発表しています。「集落の記憶」で茨川を取り上げたい私は,その旨を伝えてお話しをしたところ,往時の写真をお借りすることの了承を得ることができました。


# 17-5
この日訪ねる長浜市(旧木之本町)土倉(Tuchikura)は,関西40か所中で唯一,鉱山関係の廃校廃村です。その往時の様子は「e-konの道をゆく」Web(管理者 e-konさん)中の「わがふるさと,土倉鉱山」に詳しくまとめられています。平成17年に公開されたWeb上の記事は,「住まれていた方に往時の話をうかがい,写真をお借りして,記事をまとめる」という形で作られており,「集落の記憶」の企画の一助にもなっています。
私は初めて訪ねることもあり,「現況をしっかり観察しよう」という気持ちで土倉へ向かいました。ちなみに湖国・滋賀県の廃校廃村を訪ねるのは,平成15年夏に旧余呉町丹生川ダム建設予定地(半明,尾羽梨,奥川並など)を訪ねて以来,8年ぶりです。


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# 17-6
菅沼さんの見送りを受けて,高島を出発したのは午後2時頃。途中,今津の港から見た琵琶湖は,海を思わせる広がりがありました。
マキノ,永原を経て,たどり着いた木之本には北国街道の宿場町の趣が残っており,町の南端の三差路は北国街道(米原−木之本−今庄)と北国脇往還(関ヶ原−木之本)の交点で,「左 江戸 なごや道 右 京 いせ道」という大きな道標が立っていました。
この日,菅沼さんからちょうだいした冊子「近江の道標」(木村至宏著)によると,「「江戸」と書かれている道標は,滋賀県では北国脇往還のみで4本しかない」とのことです。この冊子には滋賀県の道標453本の所在・写真等がまとめられているのですが,木之本の道標は載っていませんでした。

# 17-7
木之本からR.303を走り金居原を経て,土倉鉱山入口の三差路に着いたのは午後4時30分頃。選鉱場跡は三差路からダートを入ってすぐに忽然と現われました。上下に張られていたロープがあったので,シックナーがある高さまで登って周囲の風景を見下ろすことができたのは嬉しい限りでした。
土倉鉱山の主要鉱物は銅で,最盛期(戦時中)には1500人を超える鉱山勤務の方・家族などが全国から集まり,賑やかな鉱山街が形成されたといいます。
杉野小学校土倉冬季分校は,へき地等級1級,児童数 82名(S.34),大正8年開校,昭和40年閉校,同年鉱山も閉山しました。閉山から46年,約30分の土倉の探索で見つけたものは,選鉱場跡とその隅にある「土倉鉱山鉱友顕彰碑」,閉ざされた坑道入口のトンネルだけでした。

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# 17-8
土倉を出発し,R.303八草トンネルを超えて曇り空の岐阜県旧坂内村に入って,広瀬あたりから降り出した雨が,以後の7日の行程で毎日どこかで降るというほどのものになるとは,予想だにしませんでした。
この日の宿は旧藤橋村東杉原の簡易宿泊所「すぎはら」です。昭和55年には44戸の暮らしがあった東杉原ですが,杉原ダム(未竣工)の建設計画に伴い平成2年までに大多数の家が移転し,現在は「すぎはら」を含めて2戸が残るだけです。「すぎはら」には,徳山ダムの水力発電施設関係の作業員の方向けの居酒屋が併設されており,まだ明るい午後7時頃から,居酒屋の一角で食事を始めると,やがて若い衆二人組が飲みに来ました。


# 17-9
テレビを見ながら淡々ととる食事は面白くなく,「どうしようか」と思っているうちに年配の方がひとり来て二人組と入れ替わりました。ふとテレビの脇を見ると分厚い本が置いてあり,「これはカラオケに走るしかない」と思い,ご当地ソングの「柳ヶ瀬ブルース」(美川憲一)を唄いました。
唄を歌うと,一気に消化がよくなった感があり,年配の方とも話しやすい雰囲気になりました。この方は高知県出身で,発破の専門家だそうです。そのうちに私と同じ年配の青森出身のトンネル掘りの専門家の方が登場して,呑んで唄ってと賑やかに過ごしているうちに,時計は午前0時を回りました。
鶴見・東杉原の「集落の記憶」の取材は翌7月26日(火,旅2日目)の朝,「すぎはら」の女将 島岡範子さんの協力を受けて行うことができました。



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