美作・因幡の廃村と 金婚式祝いの旅

美作・因幡の廃村と 金婚式祝いの旅 岡山県鏡野町久田上原,______
_______________________________________鳥取県鳥取市杉森・板井原

廃村 板井原(いたいばら)に残る古びた土蔵です。



2011/10/1〜3 鏡野町(旧奥津町)久田上原,鳥取市(旧用瀬町)杉森・板井原

# 18-1
平成22年11月2日,私の両親が結婚50周年を迎えました。父浅原孝昭は昭和10年大阪市生まれ,母彌生は昭和8年兵庫県淡路島中川原生まれ,昭和35年に結婚し堺市に居住。私(昭生)は昭和37年,長男として生まれました。
「新婚旅行は岡山県奥津温泉,鳥取県鳥取市内の2泊で出かけた」と聞いていたので,「この足跡をたどる金婚式祝いの旅を企画しよう」となりました。
1泊目は50年前にも泊まった奥津温泉の旅館「河鹿園」に決定。2泊目は私が平成18年に泊まった鳥取港に近い賀露の旅館「山田屋」に決まりました。3名の旅ということで,大阪から津山までは鉄道で行き来して,津山でレンタカーを借りて動く予定となりました。

# 18-2
「せっかく西に行くのなら…」と,欲張りになるのはいつものことです。平成20年6月に開始した「廃村全県踏破」は残り5県まで進行し,九州以外は鳥取県を残すのみです。鳥取県の廃校廃村は因幡(県東部)に偏在しており,旧用瀬町杉森・板井原は鳥取市と津山市をクルマで移動する場合,少し寄り道をするだけでいくことができます。また,津山市から奥津温泉に向かう途中には,岡山県美作(県北東部)唯一の廃校廃村 久田上原があります。
平成23年9月30日(金)は,午後半休を取って大阪・堺の実家に前泊。翌10月1日(土,旅1日目),天気はおおむね晴。JR大阪駅から智頭急行線,姫新線経由で津山に入り,レンタカーに乗ってR.179沿いのラーメン屋で昼食休み。レンタカーは平成22年3月の愛媛県新居浜以来1年半ぶりです。


# 18-3
津山駅から奥津温泉は,吉井川沿いのR.179を走って28km。久田上原(Kuta-Kaminohara)が湖底に沈む苫田ダム(奥津湖)は,そのほぼ真ん中にあります。R.179から枝道に入り,奥津湖畔は時計回りで走りました。
しばらく走ると「古民家 赤壁邸」という観光施設があったので,クルマを停めて立ち寄ると,入口には「休業中」の看板があり,人の気配はありません。「土曜の午後なのに」と思って中に入ると,「7月末で閉店した」との貼り紙がありました。この場所で採算を取るのは難しかったのかもしれません。萱葺き家屋などいくつかの時代の古民家を再生させたこの施設はまだまだ使えそうで,広々とした中庭は一服するには良いポイントでした。

# 18-4
「赤壁邸」から少し進んだ湖畔には,たくさんの大きな石碑が立っていました。見てみると「団結之碑」,「団結之碑の由来碑」,「耕地整理記念碑」,「久田小学校百周年記念碑」など,碑は昔からあるものを湖畔に移転したものと,湖ができてから新たに作られたものが混在していました。
久田小学校は,へき地等級無級,児童数 338名(S.34),明治7年開校,平成4年閉校。久田地区は昭和30年に合併で苫田村になるまでは久田村という自治体で,昭和10年の人口は1954名でした。村役場は「赤壁邸」や碑がある久田下原,小学校は久田上原,郵便局は川の対岸の黒木にありました。
昭和34年に合併で奥津町が発足してからも,久田地区は町の中心でしたが,平成7年,苫田ダム建設により全戸移転し,自治体規模の廃村となりました。

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# 18-5
昭和33年建立の「団結之碑」には,連判誓約者名1908名の名前が刻まれており,行政(苫田村・奥津町),住民が一体になったダム建設阻止運動が展開されたことが想像できます。「団結之碑の由来碑」には,「平成6年に奥津町が,翌7年に阻止期成同盟会がダム建設に同意した」と記されていました。
自治体規模の廃村は全国で9か所ありますが,失われた村の中心部の規模を見ると旧久田村は最大級です。苫田ダムの大きさ(堤高74m,貯水量8410万立方m)は,それほどのものではありませんが,奥津湖の端,R.179沿いにある久田神社は,旧久田村の大きさを彷彿させる存在感がありました。
旧久田村を訪ねて,私は全国9か所の自治体規模の廃村にすべて足を運ぶことができました。久田神社では両親と一緒に記念写真を撮りました。


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# 18-6
奥津温泉「河鹿園」は,版画家 棟方志功氏ゆかりの老舗旅館。「50年前とあまり変わらない」という宿は,土曜ということもあってかまずまず賑わっていました。早い時間に宿に着いて,温泉に入り,すき焼き鍋を食べてお酒を飲んで,酔っぱらってTVを見ながら横になる…。このところ時間に追われる日々が続いていることもあって,「こんな感じでのんびりと過ごすひとときが幸せなのかもなあ…」と思えるようになりました。
翌10月2日(日,旅2日目),天気は曇時々晴。奥津温泉から鳥取港(賀露)までは,倉吉経由の最短ルートだと80kmほどですが,時間に余裕があるので,大山を周回するルートを考えました。朝食後は奥津温泉名物の「足踏み洗濯」が行われるとのことで,奥津橋のたもとまで3人で出かけました。



# 18-7
この日の午前中は,R.179人形峠トンネルを越えて,R.482などで蒜山高原を走り,大山周遊道路,大山広域農道などで大山の裾野を回り,昼食は鳥取県旧名和町御来屋の「おさかな市場」で刺身定食を食べました。慣れないクルマの運転には少々心配がありましたが,父母とも快適そうです。午後は,両親の趣味がバードウォッチングということで,東郷池,湖山池をめぐりましたが,印象に残る鳥はカモぐらいでした。
「山田屋」は日曜ということもあり,お客は家族3人のみ。展望風呂に入り,海の幸を食べてお酒を飲んで,酔っぱらってTVを見ながら横になる…。昨夜と同じように,とてものんびりしたひとときを過ごしました。奥津温泉から鳥取港(賀露)までは,大山を周回して202kmでした。

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# 18-8
翌10月3日(月,旅3日目),天気は曇時々晴,一時強い雨。朝食前に父と2人で鳥取港まで散歩に出ると,港の施設はまだ開いていませんでしたが,海辺の西の空にかかる虹を見ることができました。帰り道,賀露の裏道を通ると,小さなスーパーが開いていたので,鳥取の地醤油を土産に買いました。
朝食をとり宿を出て,海産物の土産を買いに鳥取港に出かけると,思いがけない大雨が降りました。こんなとき,クルマは助かります。鳥取港(賀露)から津山駅までは,R.53などで80kmほど。時間に余裕があるので,鳥取砂丘にも足を運びました。新婚旅行では立ち寄らなかったそうで,その後母は来たことがあるそうですが,父は今回が初めてとのこと。しかし,天気は今ひとつ,展望レストランからコーヒーを飲みながら観察するに留まりました。

# 18-9
鳥取市街を出て,R.53で「道の駅 かわはら」まで走ると,杉森・板井原はすぐそばです。JR因美線鷹狩駅前でR.482,県道智頭用瀬線,さらに枝道に入り,まずは一般車の行止まりに位置する杉森(Sugimori)を目指しました。幸い,天気は持ち直し,晴れ間がのぞくようになりました。
枝道は狭いながらも舗装道,クルマはSクラスのマツダ・デミオ(1300cc)なので,心配はありません。ゆっくり上がって行くと,左手に古びた土蔵が見えてきました。興徳小学校(のち用瀬小学校)杉森分校は,へき地等級2級,児童数 14名(S.34),明治12年開校,昭和50年休校,昭和54年閉校。学校跡は土蔵のそば,クルマ止めは土蔵より少し先で,そこには「杉森の郷」と記された離村記念碑が建っていました。

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# 18-10
「杉森の郷」の碑には,「昭和50年4月離村17戸 平成13年12月吉日」と刻まれており,往時の規模,離村時期が一目でわかります。離村記念碑はひとつあるだけで「村跡に来た」という実感が湧くので,ありがたい存在です。母には,廃村というと「薄暗くて気持ちが悪い」というイメージがあったようですが,「ありのままにあるもの」ということが実感できたのではないかと思います。碑の前では,父母,私と分けて記念写真を撮りました。
杉森を後にして目指した板井原(Itaibara)は下板井原とも呼ばれ,県道智頭用瀬線の途中にあり,その先(赤波川上流部)の智頭町上板井原は「板井原集落」と呼ばれる伝統的建造物群保存地区です。下流部の板井原が廃村となり,上板井原は観光地となっているというのも,不思議なところです。

# 18-11
赤波川渓谷おう穴群(おう穴とは,岩に天然にできた丸みを帯びたくぼみ)の休憩所で一服し,刈られたばかりの水田を過ぎると「板井原の里」の碑にたどり着きました。碑には「昭和50年4月離村21戸 平成17年10月吉日」と刻まれていました。
興徳小学校(のち用瀬小学校)板井原分校は,へき地等級2級,児童数 11名(S.34),明治15年開校,昭和49年休校,昭和54年閉校。分校跡は碑がある平地で,今は駐車場になっています。平地の隅にはサクラが植えられており,住んでいる方がいても不自然ではないほど整った家もありましたが,歩道を上がると古びた土蔵,蔦が絡まった廃屋があり,「確かに廃村」という風景が広がっていました。

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# 18-12
板井原を後にして訪ねた上板井原は,ただの過疎が進んだ集落でしたが,過疎を逆手にとった寺谷誠一郎智頭町長が「日本の山村集落の原風景が保たれた集落」として観光地化が進められました。集落の表通り「六尺道」には,昭和30年代の風情があり,クルマが入ったことはないとのこと。
智頭小学校板井原分校は,へき地等級2級,児童数 8名(S.34),昭和55年休校,平成3年閉校。県道から枝道に入り,クルマを停めたところが分校跡で,小さな分校跡の碑が立っていました。後で調べたところ,観光客が多い土日は500m手前の県道と枝道の分岐点にある駐車場から先は,六尺道へつながる歩道を歩いて行かなければいけないとのことで,長い距離を歩くのを好まない母と一緒に行くには,月曜に訪ねるのはとてもよい選択でした。

# 18-13
分校跡からは橋を渡り,六尺道を歩き,民家の軒先をお借りして持参したおにぎりで昼食です。この民家に住まれるおばさんの話によると,現在上板井原には6戸ほどの常住する家があり,観光の方が来るようになって集落は賑やかになったとのこと。後で調べたところ,町長が観光地化に着手したのは平成9年からで,鳥取県が上板井原を「伝統的建造物群保存地区」に指定したのは平成16年ということがわかりました。
集落の中ほどにある喫茶「野土香」は,築100年の古民家を利用したカフェで,お店は兵庫県尼崎からIターンされたという私よりも若い女性が切り盛りしていました。とても静かな空間で,家族3人だけで飲むコーヒーは格別の味でした。母は店のトイレの綺麗さに感心したようでした。

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# 18-14
観光地といっても「ありのままの姿」の上板井原からは,県道のトンネルを抜けて智頭町中心部でR.53に戻り,まっすぐ津山駅に戻りました。3日間でレンタカーは380km走りました。帰路は津山線の快速列車に乗り,岡山で新幹線に乗り換え,父母とは新大阪で分かれ,浦和へと戻り着きました。
父母と一緒の旅は,平成18年11月,keiko(妻)と4人で出かけた静岡県熱海・初島以来5年ぶり,父母と一緒の廃村めぐりは初めてです。のぞみの車内で乾杯しながら,「今度は新幹線がつながった鹿児島でも行きましょうか」と,私は次の旅の候補地に,全県踏破未訪県の名前を挙げていました。
金婚式祝いと趣味の廃村めぐりを兼ねた2泊3日の旅,多くの実りを得て両立,完結し,廃村全県踏破の残りは九州の4県だけになりました。



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