雪の京の廃村と 6番目の取材旅

雪の京の廃村と 6番目の取材旅 京都府京都市左京区大原大見

廃村 大原大見(おおはらおおみ)に残る39年間休校中(H.24)の分校です。



2012/01/27 京都市左京区大原大見

# 19-1
「集落の記憶」の取材の旅は,1番目(平成23年5月:愛媛県中之川,徳島県空野),2番目(7月:岐阜県鶴見,福井県中島,富山県北原,長野県沓津),3番目(10月:滋賀県茨川),4番目(11月:秋田県合津),5番目(11月:静岡県有本,滋賀県茨川)と続き,年末までに,成瀬健太さん取材の北海道東和開拓,藤村緑さんとの遠隔のやり取りでまとめた山口県向畑,現地取材は後日となった北海道鹿島を含め,全18か所中12か所の目鼻が整いました。
年が明け,平成24年最初(トータル6番目)の取材の旅先に選んだのは,長野県伊那市芝平(Shibira)です。「せっかく西に行くのなら…」と,欲張りになるのはいつものことで,検討の結果,目指すことになった廃村は,京都市内・北山の山中に廃村 大原大見(Oohara-Oomi)です。

# 19-2
「廃村全県踏破」と同時に進めている「足かけ9年(平成17年〜25年)で全県の廃校廃村に足を運ぶ」という目標,地図を作ってみたら,本州で残るのは京都府だけになっていました。京都府の廃校廃村には,平成14年夏の旧丹後町小脇以来10年近く足を運んでいません。
大阪からならば日帰りでも行ける距離で,地形図を見ても険しくないことから,以前から大原大見には「積雪期に訪問したい」と思っていました。
平成24年1月27日(金)の天気は大阪市街・京都市街などは晴,日本海側は雪。朝7時半に堺の実家を出発し,淀屋橋,出町柳を経由して,叡山電車の終着駅 鞍馬に到着したのは朝9時50分。市原あたりから小雪がちらつきましたが,鞍馬駅では日差しが出ていました。



# 19-3
鞍馬からまず目指したのは,大見の手前の集落 百井(Momoi)です。鞍馬−百井は約8km,バスの便がある鞍馬−百井別れは約5km。R.477 百井別れ−百井(約3km)は歩くことも考えたのですが,乗り継ぎは悪いことからバスは諦めて,タクシーを呼んで出かけました。
運転手さんは賑やかな方で,「百井の気候は,京都市内とは全然違って面白いよ」と話してくれましたが,百井別れから先の路面は真っ白になっていて,下り坂ではとても慎重な運転になりました。およそ20分走って百井に到着。タクシー代は1700円でしたが,とても安く感じられました。「地図info」Webによると,大原百井町の戸数・人口(H.23)は23戸39名。まずは村の鎮守様(思古淵神社)を訪ねて,道中の無事を祈ります。

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# 19-4
元民宿の建物と公衆電話がある三差路を過ぎ,大見方向に少し進むと分校が見当たりました。大原小学校百井分校は,へき地等級2級,児童数18名(S.34),明治38年開校,平成3年休校。小さな校庭には相撲の土俵があり,校舎は合宿場などに使われることがある様子でした。
百井−大見は約8km。分校から先,集落が途切れた後の道も除雪されており,緩やかな下りの坂を歩いていると,郵便の軽四輪が追い越していきました。やがて三差路があって,左側が大見・尾越方面への道です。右側の道をたどると,すぐそばに養鶏場,少し先には修道院があるそうです。どうも除雪はこの三差路までで,その先のゆるやかな上り坂の道は少し雪が積もったクルマの轍はあるだけで,人の気配は途絶えました。

# 19-5
大見を訪ねるにあたって,ネットを検索すると,「大見のかつての暮らし聞き取り調査結果」という「京都市建設局」Webの記事が見つかりました。記事には「かつての大見は,炭焼き,耕作,肥料の自給など,地域で生産,消費,廃棄が完結する生活が営まれていたこと」,「その生活のために集落全員が協働で取り組んでいたこと」は注目すべきことであり,「“自然との共生”をキーワードとした“手づくりの公園”を提案したい」とあります。
「持続可能な生活」,「人々の協働」は,環境問題の書籍を読むと必ず出てくることです。大見に続く穏やかな雪道では,「過去の集落の現状(廃村)をめぐる旅は,未来を考える上においても何かしらの役に立つものなのかも」と,場所柄か学問的なことが頭に浮かんだりしました。

# 19-6
幾何学模様のスギ林を抜けると,行く手の視界が少し拓けて,右手にお墓が,続いて分校がありました。大原小学校尾見分校は,へき地等級4級,児童数27名(S.34),明治34年開校,昭和48年3月休校。一段高い所に校舎,校庭の真ん中に百葉箱,片隅に樹が生えたジャングルジムが見当たりました。
「尾見」という名称は,2kmほど先の尾越(Ogose)と大見から一文字ずつ取ったものです。「地図info」Webによると大原大見町の戸数・人口(H.23)は1戸2名。大原尾越町(H.23)はゼロ。尾越には今回足を運びませんでしたが,「カントリーレイク」という釣り場があるそうです。
なお,大原三千院で有名な大原は,昭和24年まで愛宕郡大原村という自治体で,13か所の集落の名前はすべて大原○○町として踏襲されています。


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# 19-7
分校に到着したのは昼12時20分頃。百葉箱の近くで,立ったままパンを取り出して食休みです。校舎の窓はすべてトタン板で塞がれており,中の様子はわかりませんでしたが,場所柄を考えるとこのぐらいのガードは必要なのでしょう。
40年間(H.24)という休校期間は,私が知る限りでは日本最長です。ジャングルジムに生えた2本の雑木は,休校期間の長さをよく表しています。
ここまでの道の積雪は5〜10cm,普通の靴でも問題ない程度でしたが,校庭には50cmぐらいの雪が積もっており,校庭や校舎の周囲の探索では長靴とカンジキが役に立ちました。校舎の脇には,教員住宅のような平屋の家屋が残されていました。


# 19-8
大見(標高約620m)は盆地になっており,その広がりは百井(標高約640m)よりも大きいかもしれません。分校のそばの大きな家の玄関には明かりが点いていて,誰か居るのかと思いましたが,クルマは停まっていません。どうも,暗くなると自動で灯るもののようです。
村の鎮守様への道と尾越への道の分岐には地蔵堂があって,「鯖街道 (左)京都 (右)若狭 小浜」という道標が立っていました。小浜と京都を結ぶ鯖街道には複数のルートがありますが,花背峠−大見−尾越−久多は,山歩きには良いルートとのことです。
尾越への道も少し歩いてみましたが,すぐに「全面通行止 なだれ・倒木の恐れあり 関係者以外通行ご遠慮下さい」という看板に出くわしました。


# 19-9
地蔵堂から村の鎮守様(思古淵神社)までは思いのほか遠く,集落を離れて橋を渡り,「諦めようか」と思った頃,何とか見つけることができました。
思古淵(しこぶち)神は,「川イカダに悪さをする河童から村人を守る神様」とのことで,琵琶湖に注ぐ安曇川流域,滋賀県旧安曇川町,旧朽木村,大津市葛川,京都市左京区にかけて9か所の思古淵神社があるそうです。
神社の鳥居は朽ちてなくなっていましたが,境内の雪には足跡があり,2つの灯篭の間には縄が張られ,川を挟んだ祠には提灯が飾られていました。
夏は住まれる方がいるかもしれない大見ですが,1時間40分ほどの滞在の間,誰に出会うこともなく,通るクルマも皆無でした。

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# 19-10
大見から百井へ戻っているうちに,やや窮屈な長靴がつらくなってきました。百井の三差路の公衆電話からタクシーを呼んでみましたが,来てくれそうではありません。しかたがないので,バスの便が多い大原小出石(約5km先)へ向かいましたが,雪がなく急な傾斜のR.477の路面は,きつかったです。
バスの便の関係から,小出石の先2kmの民宿がある古知谷まで歩いたので,この日の歩行距離(百井−大見−百井−古知谷)は24kmとなりました。バスは地下鉄の終点 国際会館駅行きでしたが,静けさを求めて,もうひとつの叡山電車の終着駅 八瀬比叡山口の駅前で途中下車しました。
雪の廃村探索は,平成13年2月に訪ねた岐阜県黒津以来,かれこれ12年目。雪が深い浅いはさまざまですが,よく継続しているものです。

# 19-11
八瀬比叡山口駅発は夕方5時14分。出町柳,淀屋橋を経由して,まっすぐ堺の実家に戻ったのは夜7時半頃。旅の計画の途上では,古知谷の民宿で泊まることも考えたのですが,このぐらいの距離だと実家のほうがくつろげます。今回の旅は年休取得1日半,3泊4日のうち2泊は実家で泊まりました。
翌1月28日(土)は,朝8時半頃堺を出発し,名古屋から中央線経由で茅野駅へ行き,翌29日(日)夕方に伊那市駅に着くまでの間,芝平に係わる方,係わる場所の取材を行いました。伊那市荊口の「御宿分校館」の宿泊は4回目。未明の最低気温はマイナス12℃ぐらいまで下がったようでした。
京都の廃校廃村を踏破して,「足かけ9年(丸8年)で全県の廃校廃村に足を運ぶ」という目標の残りは,道央,九州5県と沖縄の計7県になりました。

(追記) 尾見分校の休校は,平成30年3月まで続きました(休校45年目で閉校)。



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