サンゴ礁の島の廃村と 10番目の取材旅

サンゴ礁の島の廃村と 10番目の取材旅 沖縄県伊是名村具志川島

無人化した離島 具志川島(ぐしかわしま)に残る学校跡の門柱と掲示版です。



2012/7/1 伊是名村具志川島

# 22-1
「集落の記憶」の取材の旅(平成23年5月〜24年7月),終盤戦は遠いところが残る傾向となりました。9番目(平成24年GW)は5年ぶりに北海道へ出かけ,夕張市鹿島(Kashima)を訪ねました。清水沢で新聞店を営む高橋勇治さんから,往時の鹿島の写真をお借りできたのはとてもありがたかったです。
続いて5月下旬に計画した6年ぶりの八丈島行きは,天候に恵まれず三度見送って中止となりました。その後すぐ,千葉市在住で八丈小島の調べ物をなされている高橋克男さん・文子さん夫妻(文子さんは小島の鳥打出身)に出会えて,千葉で取材することができたのはとてもありがたいことでした。
最後に残った取材の旅(10番目)は,沖縄県北部の無人化した離島 具志川島(Gushikawashima)になりました。沖縄への旅は8年ぶりです。

# 22-2
具志川島がある伊是名(Izena)村の伊是名島は,私が10年前(平成14年)に沖縄三線を教えていただいた東京・金町の沖縄居酒屋「かりゆし」の大将(島保さん)の生まれ島。大将は小学校に上がる前に具志川島に行ったということで,「どんな様子なのか,興味がある」との声を受けていました。
具志川島行きは,平成23年秋頃から「かりゆし」で一杯飲むことを兼ねながら煮詰めていきました。平成24年1月中旬,妻(Keiko)と母(新谷信枝さん)と3人で出かけたときは,三線教室の仲間と出会って,夜遅くまで上機嫌での飲み会となりました。煮詰めの結果、伊是名島では島在住の大将の同級生の方(末吉弘明さん)に案内をしていただき,往時,具志川島に住まれていた方(前川喜光さん)を紹介していただくことになりました。



# 22-3
旅の行程は3泊4日。出発は平成24年6月30日(金)。南浦和の家出発は未明4時45分。羽田空港,那覇空港を経由して,モノレール美栄橋駅に到着したのは午前9時50分。すでに梅雨明けした那覇市の空は,雲ひとつない快晴です。
妻と一緒の沖縄への旅は今回が初めてということで,第一歩は国際通り周辺の探索です。暑さよりも,日差しのまぶしさに驚かされます。
むつみ橋通り,市場中央通りを抜けて,牧志公設市場で早めの昼食。市場を出てすぐのアーケード街の一角で「かわいい猫がいる」と妻から声があがったので,どんなやつかと思ったら,ふてぶてしくぐっすり眠った猫でした。


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# 22-4
伊是名島行きの船(フェリー)は1日2便。朝に羽田を出て乗れるのは,午後3時半の便のみ。那覇空港に戻って,不定期のシャトルバスで目指す運天港までは,1時間50分,約85kmもあります。大きなバスは空いていて,AMラジオから流れてくる沖縄言葉が,遠くに来た気持ちを呼び起こします。
運天港−伊是名島(仲田港)は55分,海上約30q。仲田港では,4月中旬の「かりゆし」以来の末吉さんが待っていてくれました。港に近い民宿「城間」に荷物を置いて,末吉さんのクルマで,諸見−内花−勢理客−伊是名−城跡−仲田−村役場の順で島を一周。車窓から見た伊是名島の印象は,サトウキビ畑が広がるなだらかな島。村役場近くの食堂で夕食をとり,宿へと歩く帰り道は夕方7時半過ぎでしたが,ほんのり明かりが残っていました。

# 22-5
翌7月1日(土,旅2日目)の起床は朝6時頃。仲田の共同売店に買い出しに出かけ,宿で朝食をとった後,末吉さんのクルマで具志川島への渡船がある内花漁港へ。漁港には,地域の若い方,やや年配の方が4名。末吉さんと地域の方が島の言葉でしゃべると,何を話しているか,さっぱりさかりません。
500mlのお茶を4本リュックに入れて,いよいよ向かう具志川島は,遠目では平たくて存在感がありません。内花−具志川島は直線距離では2.5km。しかし,サンゴ礁に囲まれているため,船で行くと約5kmあります。船を出してくれた名嘉さんは若い方で,サトウキビ農家をされているとのこと。深い場所では青い海の色が,サンゴ礁(浅い場所)ではエメラルドグリーンになり,午前8時50分頃,具志川島に到着。乗船時間は20分ほどでした。


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# 22-6
大きな船着場は,無人島になった直後(昭和46年頃),海洋博会場で使う白砂の採取のために作られたものとわかりました。砂の採取のため島の地形は変わったけれども,これを契機に縄文時代の遺跡(シーダチ遺跡)の発掘調査が進み,昭和53年には貝の腕輪をつけた男性の人骨が発見されました。それ以後,具志川島は「縄文遺跡がある無人島」として,研究者たちの関心を集める存在になっています。
島で過ごす時間は約4時間(午後1時まで)。船着場から島の中にある学校跡までは1km近くあります。「島は詳しい方が案内してくれる」という話だったのですが,名嘉さんは具志川島に上陸したのは初めてとのこと。島の中に入ると,マツ林に囲まれているため,海は全然見えません。


# 22-7
島は恐ろしいほどの日差しの強さで,少し歩いては日影で休むという感じです。道が怪しくなってきたため,学校跡探しは携帯で連絡を取りながら道なき道を進む名嘉さんにまかせて,私と妻は日影で待つことになりました。砂地には,背丈ほどの野生のタバコが生えていて,ピンクの花がきれいです。
迷わない程度の近場を単独で探索したのですが,集落跡を感じさせるものに出会うことはなく,たどった道はすべて行き止まりでした。
待つこと小一時間,汗まみれの名嘉さんが戻ってきて「学校跡はこちらです」と声をかけてくれました。お茶を飲んで一服してから,たどった道はとても頼りないものでした。背丈ほどの草藪の先,校舎跡の建物が視界に入ったとき,単独行とはまた違う感動を覚えました。

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# 22-8
一度内花へ戻るという名嘉さんを見送って,学校跡の探索は二人で行いました。具志川島小学校は,へき地等級5級格,児童数8名(S.41),昭和44年より伊是名小学校具志川島分校となり,昭和45年閉校。同年,島は無人島となりました。茅葺校舎で創設したのは昭和5年,瓦葺き校舎に改築されたのは昭和23年で,今残る鉄筋ブロック校舎2教室が建設されたのは昭和31年とのこと。校庭跡にも背丈ほどの野生のタバコがたくさん生えています。
左隣に掲示版がある門柱は,入ってきた方向とは逆方向(建物の東側)にありました。門の先は草がたくさん生えていて,すぐに先には進めなくなりました。明治13年には6戸24名,昭和35年には31名が住んだという具志川島の集落の痕跡は,学校跡以外何も見つかりませんでした。

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# 22-9
校庭のタバコは引くと簡単に抜けたので,10分ほどで門の雰囲気が再現するよう整えました。妻は日影から「よくやるなあ…」という眼で,見ていたような気がしますが,とても楽しいひとときでした。いや,妻も私が楽しんでいる様子を面白いと思ってくれたことでしょう。
40分ほどの学校跡の探索を終えて,帰り道は暑くてまぶしい日差しのもと,日影で休みながらゆっくり船着場へと戻りました。向こうに伊平屋(Iheya)島が見える白い砂浜は,見た目は綺麗だけれども,足を踏み入れると焼けるような熱さで,海にはたどり着けません。昼食もエメラルドグリーンの海を見ながらではなく,島の中の日影でとりました。無人島 具志川島での4時間は探索というよりも探検で,清々しいほど観光の要素はありませんでした。

# 22-10
内花漁港に戻ると末吉さんが待っていてくれて,クルマで仲田に住まれる前川喜光さんの家へと送っていただきました。前川さんは大正12年生まれ(89歳)の具志川島出身の方で,小学校は農閑期の4か月間しか開かれなかったこと,島に自生しているタバコはオジイがたしなんでいたものが野生化したことなど,いろいろなお話を聞かせていただきました。また,往時の写真は昭和25年に島を出たから,手元には残っていないとのことでした。
往時の島(集落,学校など)の写真は,末吉さんにも探していただいたのですが,見つからなかったとのことで,どうしようか,思案することになりました。夕方は,末吉さんお勧めの伊是名ビーチで,村のもう一つの無人島 屋那覇島を見てビールを飲むなど,リゾート風のひとときを過ごしました。

# 22-11
夜は,村役場そばのホテル「なか川館」のレストランで,末吉さんを交えて3名で食事会を行いました。土曜の夜のホテルはまずまず賑わっていて,お客さんは那覇など沖縄本島からの方が多いそうです。
翌2日(日,旅3日目)は朝7時頃起床。この日も快晴。往時の具志川島の写真を探す件は,帰り道に那覇市の沖縄県立図書館を訪ねる予定となりました。
午後のフェリーが出るまで,残された伊是名島での時間は,仲田の前川さんの家を再訪したり,諸見の尚円王御庭公園まで歩いたりして,のんびりと過ごしました。あと,宿の入口に座ってオバア(城間君子さん)と話しながらお茶を飲むひとときは,風が運ぶ自然な涼しさがとてもよかったです。

# 22-12
午後1時半のフェリーで伊是名島を離れ,運天港,イオン名護店を経由して,名護バスターミナルから路線バス(沖縄バス77番名護東線)に乗ってこの日の宿がある沖縄市コザを目指しました。バスが通るR.329沿いには辺野古(キャンプシュワブ),金武(キャンプハンセン)など,大規模な基地がある町があり,妻は町と基地が共存する車窓の風景に興味深げです。
名護バスターミナルから1時間40分かけてたどり着いたコザの民宿「嘉陽荘」は9年ぶり4回目。宿のオバア(嘉陽スミさん)は変わらず元気でしたが,胡屋十字路近く一番街,中央パークアベニューは驚くぐらい寂れていました。夜は老舗レストラン「チャーリー多幸寿」で,タコスを食べました。

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# 22-13
翌3日(月,旅最終日)は朝6時半頃起床。農連市場で土産を買って,オバアに見送られて宿を出て,バスで1時間強かけてコザから那覇バスターミナルへ。
沖縄県立図書館は,市街地の南東,与儀十字路のそばにあります。検索をかけたり,リファレンスサービスを使ったり,懸命に資料を探すと,具志川島縄文遺跡関係の冊子に,昭和51年の島の航空写真を見い出しました。無人島化した後の写真ではあるものの,当たりができてホッと一息です。
妻と一緒の「集落の記憶」の取材の旅は,長野県沓津(平成23年7月,2番目の取材),滋賀県茨川(平成23年10月,3番目の取材)に続いて三度目でしたが,さすがは沖縄県具志川島は無人島,とりわけ印象に残りました。絵画のような美しい風景には,強烈な日差しという毒がありました。



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