片道2時間 山を歩いて訪ねた営林集落跡

片道2時間 山を歩いて訪ねた営林集落跡 大分県豊後大野市尾平鉱山,
__________________________________________佐伯市傾山,真弓,水ヶ谷,板戸

傾山(かたむきやま)林業集落跡に残る石積みの階段です。



2012/11/9〜11 豊後大野市(旧緒方町)尾平鉱山,佐伯市(旧宇目町)傾山,真弓,水ヶ谷,板戸

# 23-1
平成24年9月,冊子「廃村と過疎の風景(6)−集落の記憶」が完成し,取材の旅はひとまずピリオドです。偶然ですが,完成の頃(9月13日(木))には,AMラジオ文化放送「くにまるジャパン」おもしろ人間国宝への生出演がありました。生放送のスタジオは,緊張感がありました。
年始に「廃村全県踏破」で訪ねる予定としたのは,佐賀と大分の2県でした。佐賀県は4月上旬に訪ねることができ,大分県は秋に訪ねようと漠然と計画を立てていたところ,8月下旬,「HEYANEKOのホームページ」BBSでやり取りがある大分市在住のかもしかさんから,「大分の南部にお出かけの節は,ご連絡くだされば案内いたします」というありがたいお誘いがあり,一気に旅の計画が具体化しました。

# 23-2
かもしかさんはお父さんが教員で,昭和33年頃は真弓分校で学ばれました。当時の真弓は8戸で,綺麗な棚田があったそうです。さらに,傾山分校の表札を持たれていて,私は「教員関係の縁でしょうか」と思ったのですが,昭和60年頃に山歩きで訪ねた傾山林業集落跡で偶然見つけたものとのことです。
日程(11月9日〜11日)を決めたら,2か月前に安い飛行機の予約をするのは,遠方への旅の定番です。5か所のポイントのうち傾山は,「荒れた山道を片道2時間かけないとたどり着けない」とのこと。しかし,難度の高さは興味の大きさと比例するもので,傾山がこの旅のメインとなりました。
島根県のおきのくにさんが,「傾山は挑んだが行けなかった」ということで,お誘いをしたのですが,やり取りの結果,都合があわずとなりました。


# 23-3
旅の出発は平成24年11月9日(金)。南浦和の家を未明5時半頃に出発し,羽田空港から顧客満足度で定評があるスターフライヤーで北九州空港へ出て,JR日豊線苅田駅に到着したのは午前10時5分。人工島にある北九州空港は新しく(平成18年開業),足湯があったりして,ゆとりが感じられます。
苅田からは,中津,大分で列車を乗り継ぎ,豊肥線中判田駅でかもしかさんと合流したのは午後12時半頃。かもしかさんは,私より一回りほど年上の山歩き,地域史などを趣味とされる方で,この類のオフミートは今回が初めてとのこと。しかし,共通の話題があるとすぐに話がはずむのは趣味の世界の良いところで,真弓,傾山というとても狭い地域の話に接点があったことを嬉しく思いました。

# 23-4
昼食は旧緒方町の道の駅「原尻の滝」で,大分名物「とり天」の定食。かもしかさんによると,とり天があちこちの店で出されるようになったのは,平成になってからとのこと。原尻の滝は,田園風景の中にありながら幅広で高さがあり,日本の滝百選にも選ばれているこの滝は見応えがありました。
主要地方道緒方高千穂線沿いの山里は,先に進むごとに鄙びた感じになっていき,農地の多くは電気を通した柵(電柵)に囲まれています。手前の集落上畑で立ち寄った小学校跡(上畑小学校,昭和49年閉校)は,主に祖母山登山向けの簡易宿泊所「山びこ塾」として使われているとのこと。
山中の静かな道を進み,尾平鉱山(Obira-kouzan)の学校跡に到着したのは午後3時半頃。縞模様の化粧梁が施された宿泊施設が迎えてくれました。

# 23-5
尾平小学校は,へき地等級2級,児童数82名(S.34),明治20年開校,昭和44年閉校。集落名でもある尾平鉱山は,昭和29年の鉱山閉山後も林業を生業とする集落として存続し,現在も2戸の高度過疎集落です。うち1戸は,往時は雑貨屋だったという「もみじ屋旅館」です。学校跡の宿泊施設「祖母山麓尾平青少年旅行村」は平成7年開設。その後,平成17年よりNPO法人が管理する「ほしこがinn尾平」となっています。
尾平鉱山では,日暮れまで神社(健男社),鉱山の施設,集落跡をまわりました。尾平鉱山は江戸時代に開かれ,主要鉱物はスズ。鉱山跡では三菱マテリアルの廃水処理施設が稼動しており,その先の山肌には大きな選鉱場跡が見えましたが,立入禁止とのことで,遠目で眺めるだけとなりました。

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# 23-6
集落跡では,「緒方町営ワンマンバス車庫」という看板がある車庫跡,立派な石垣がある屋敷跡,飲み物やアイスクリームのショーケースが残った商店風の廃屋,石橋と池がある庭園などがあり,最盛期(昭和20年代)には3千名を擁した鉱山集落の名残りが感じられました。
この夜の「ほしこがinn尾平」の宿泊客は,私とかもしかさんの2名のみ。施設は広々としていて居心地は良かったのですが,地域の情報をうかがうには「もみじ屋旅館」のほうがよかったかもしれません。ただ,「ほしこがinn尾平」の営業はこの11月下旬で終わって,その後の営業はないかもしれないとのことで,そんな時期に学校跡の宿に泊まれたのは,ラッキーだったと考えるべきでしょう。

# 23-7
宿の方とかもしかさんとの間では,「鉱石採取を趣味とする方が坑口付近で落盤にあって死亡するという事故があって,以来立入禁止になった」,「あの時は警察が事情聴取に来てたいへんだった」など,話題になっています。危険な場所への現地探索は自己責任ですが,事故を起こしてはいけません。
翌10日(土,旅2日目)の起床は午前5時半頃。まだ暗い時間に尾平鉱山を出発し,奥嶽橋を渡り,細い林道をつなぎながら梅津越で旧宇目町入り。心配された天気は薄曇りです。長淵から御泊までの間の西山川沿いの道では,川を挟んで森林鉄道の軌道跡が見えます。小さな校舎が残る分校跡(木浦小学校西山分校,昭和59年休校,平成9年閉校)に立ち寄り,窓をのぞきこむと,黒板の脇に「傾山登山簡易宿泊所」という看板が見当たりました。

# 23-8
傾山(Katamukiyama)林業集落跡への入口 払鳥屋登山口に到着したのは朝8時20分頃。良い天気の土曜の朝ですが,登山口の駐車場に他のクルマは見当たりません。しっかりした看板は傾山に向かう山道を示すもので,目指す林業集落跡は「ベニガラ谷」という小さな看板が指す矢印の先にあります。
「ベニガラ谷」の看板の先には道はなく,木々が生える急な斜面を上っていくと,かろうじて踏み跡がわかるぐらいの荒れた山道がわかるようになりました。かもしかさんは,今回の探索にあたり,事前に山道の整備をしてくれたのですが,「なるほど」と思った荒れ方です。一つ目の谷で朝食をとり,尾根と谷の上り下りを繰り返してゆっくり先に進むと,出発から2時間ほどでベニガラ谷に近づき,視界の先に集落跡の石垣が見えてきました。

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# 23-9
木浦小学校傾山分校は,へき地等級4級,児童数9名(S.34),昭和25年開校,昭和40年閉校。林の中に残るという手形入りの傾山分校跡の碑は,集落跡のいちばん下側にしっかり構えていました。かもしかさんによると「碑がある場所は運動場で,校舎は石垣の上の段にあったのではないか」とのこと。
碑の先の重厚感がある石積みの階段を上ると,その先には長いコンクリート造の階段が,高くへと続いていました。石垣で固めた雛壇状の林業集落跡は,しっかり残っていたこととともに,その規模に驚きを感じました。数えると雛壇は10段ほどあり,その所々にかまどや風呂,酒ビンといった往時の暮らしの跡を垣間見れました。ベニガラ谷の近くでは,林鉄の線路が落ちていました。また,谷の向こうには林鉄の軌道跡をたどることができました。

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# 23-10
校舎があったという敷地のもう一段上には,古びた醤油のホーロー看板が落ちていました。「フンドーキン」という大分のローカル醤油のもので,調べると九州ではいちばんよく使われている醤油とのこと。集落には,お店(購買所)もあった様子です。
かもしかさんは落ちていた錆びたノコギリをもって,私はかもしかさんが持参された分校の表札をもって,分校の門の位置で記念写真を撮りました。
傾山林業集落跡の探索は,昼食を含めておよそ2時間。払鳥屋登山口からの距離は2kmほどですが,初めての訪問者が単独で行くには無理があり,危険です。難度の高さは,私がこれまで訪ねた廃村の中でも最上級レベルでした。

# 23-11
払鳥屋登山口からは,かもしかさんが学ばれた分校がある真弓(Mayumi)へと向かいました。旧宇目町は宮崎県延岡市に河口がある五ヶ瀬川の水系(北川の流域)にあり,複雑な地形の中に新しい道が多く走るので,持参した古い地形図はほとんど役に立ちません。
長淵まで戻り,下田原から県道を外れ,時間橋を渡るルートで真弓に到着したのは午後3時半頃。集落入口には,佐伯市コミュニティバスのバス停が見当たりましたが,かもしかさんが小学生の頃はバスはなく,クルマで走った下田原バス停から7kmの林道を歩いて通ったとのこと。バス停の少し先にクルマを停めて,ススキが生える棚田の跡を縫いながら小道を歩くと,石垣の上に傾いた分校跡の建物が見えてきました。

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# 23-12
小野市小学校真弓分校は,へき地等級3級,児童数27名(S.34),大正9年開校,昭和45年閉校。校舎の手前に並んで建っていたという教員宿舎は,その土台が残っていました。昭和33年に建った校舎は,この9月の台風で倒壊したばかりです。かもしかさんは,ご自身のBlog「宇目郷 温故知新録」の中で「校舎の建築現場を見ていた私にはあまりにも悲しい出来事でしたが,最後を看取れて良かった思っています」と記されています。
真弓の戸数は2戸(H.24)。住まれる方の家を訪ねてお話をうかがって,神社にお参りしました。かもしかさんは「棚田は今は見る影もない」とのことでしたが,刈入れされた田んぼも見られました。また,お参りの後バス停の掲示を見ると,バスはタクシー会社が運営する予約制のものでした。

# 23-13
真弓から藤河内,大切峠を経由して,この日の宿「梅路」がある木浦鉱山(集落名)に到着したのは夕方5時半頃。木浦鉱山は奈良の東大寺大仏建立にスズや鉛を送ったともいわれる歴史があり,最盛期は江戸時代前半(17世紀)。今ある木浦エメリー鉱山は,昭和42年から稼働しているそうです。
「梅路」は,宿の方とお客さんが食卓をともにする良い雰囲気の宿でしたが,疲れがたまっていたからか,飲み会はうたた寝をしながらとなりました。
翌11日(土,旅最終目)の起床は午前6時半頃。天気はあいにくの雨。「梅路」のご主人は,郵便配達の仕事をされていた頃,傾山林業集落にも歩いて集配に出かけられたとのこと。かもしかさんは「多くの資料を集められているこの宿にあるのがよいでしょう」と,傾山分校の表札を寄贈されました。

# 23-14
木浦鉱山からは,長淵,下田原,小野市を経由して,榎峠を越えてすぐの宇目地区公民館に立ち寄りました。公民館というには立派なこの施設は,佐伯鶴城高校宇目分校(平成14年閉校)を改装したものとのこと。地域資料の展示コーナーには,往時の林鉄傾山線や傾山分校の写真が飾られていました。
榎峠のそばには,佐伯市宇目振興局(旧宇目町役場),小学校,中学校と,公共機関が集まっています。小学校(宇目緑豊小学校,平成22年開校)は,小野市小学校,重岡小学校,木浦小学校(平成15年休校)の統合で新設されたもので,学校の統廃合が旧宇目町レベルで行われたことがわかります。
公民館からは,千束(重岡),蔵小野,黒土峠を経由して,水ヶ谷(Suigatani)を目指しました。幸いにも,雨は公民館を出た頃に上がりました。

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# 23-15
重岡小学校水ヶ谷分校は,へき地等級3級,児童数9名(S.34),大正8年開校,昭和54年閉校。往時のままに残っている校舎,教員宿舎は,個人が物置として使われているとのこと。水ヶ谷の戸数は4戸(H.24)ですが,人の姿は見当たらなかったので,神社にお参りするだけとなりました。
宮崎(日向)との県境(国境)にほど近い水ヶ谷には,岡藩(豊後竹田)が延岡藩に対して国境警備を行う番所があったそうです。
水ヶ谷からは,蔵小野近くまで戻り,小長谷の先の板戸(Itado)林業集落跡を目指しました。小長谷の先には養魚場があり,「エノハ」という看板を追いかけていきます。エノハ(ヤマメ)養魚場から1kmほど先,林道板戸線(ダート)に入って少し先に林業集落があったとのこと。

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# 23-16
小野市小学校板戸山分校は,へき地等級4級,児童数20名(S.34),昭和31年開校,昭和36年閉校。かもしかさんの案内のおかげで「この平地が校庭で,校舎はやや奥まったところに建っていた」ということがわかりましたが,傾山とは違って,学校跡,集落跡とも,痕跡と呼べるほどのものは残っていませんでした。また,傾山と同様,往時は森林軌道が通っていて,伐採された材木は北川を下った延岡まで運ばれていたとのこと。
雨上がりの山の中ということで,板戸のダートには沢ガニやカンタロウ(メタルカラーの大きなミミズ)が出てきています。何となく悪い予感がしたのですが,案の定で,かもしかさんは夕方,ヤマビルに足を咬まれたことに気がついたそうです。なぜか,私には被害はありませんでした。

# 23-17
板戸の探索が終わったのは午後12時半頃。その後は下田原の隣,ととろバス停そばのレストランで鹿肉ハヤシライスを食べて,千束で宇目の郷土史に詳しく,傾山分校の写真を撮られた軸丸勇さんの家を訪ねて,小野市のスーパーで家の土産にフンドーキンの「かつおしょうゆ」を買いました。
帰り道,小野市からだと最寄りの駅は豊肥線三重町ですが,ローカルな味わいがある隣りの豊後清川駅を選びました。近くの道の駅「きよかわ」でお茶休みをした後,大分行きの列車に乗ったのは夕方4時52分。2泊3日の旅の道中,ずっと同行いただいたかもしかさんには,改めて感謝いたします。
大分駅からは,空港連絡バスで国東半島の大分空港へ出て,ソラシドエアで羽田を経由して東京に戻ると,夜11時には南浦和の家に着いていました。

# 23-18
大分空港のレストランで,夜景を見ながらビールを飲んでいると,「飛行機での旅は,身近になってきたなあ」と思えてきました。
私が初めて飛行機に乗ったのは,平成4年10月,ハワイへの社内旅行のこと。国内線は,平成6年4月,亡き妻との山口・福岡・大分の旅で羽田−山口宇部便を使ったときでした。北海道には,青函連絡船や新潟−小樽などの長距離フェリー,函館−上野のモトトレインを使って行き来していました。
この旅の飛行機代(羽田−北九州,大分−羽田)は,新幹線(東京−新大阪)の往復とほぼ同じで,時間的にもほぼ同じです。飛行機で気軽に遠方へ行けるようになったことに感謝しつつ,ローカル線の旅情を味わい,地域の廃村を目指すなど,これからも良い旅を続けたいものです。



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