残り1県! 本土最南端の廃村めぐり

残り1県! 本土最南端の廃村めぐり 鹿児島県姶良市高牧,______________
_______________曽於市黒仁田,湧水町国見,日添,肝付町二股川

本土最南端 佐多岬ロードパークを走行中に見かけたサルです。



2013/3/30〜31 姶良市(旧姶良町)高牧,曽於市(旧末吉町)黒仁田,_______________
___________________________湧水町(旧栗野町)国見,日添,肝付町(旧高山町)二股川

# 24-1
平成25年年始,「廃村全県踏破」の残りは鹿児島と宮崎の2県。「どちらを先に回ろうか」は,すぐに新幹線が通じている鹿児島県に決まりました。
当初,縄文杉を見に行くことを兼ねて,屋久島の林業集落の廃村 小杉谷を目指そうかと思い,計画を進めましたが,そのうちに鹿児島本土の廃村(新島を含めると6か所)の多くの実態がはっきりしないことが気になり始めて,これらを目指すことになりました。
往路の新幹線(東京−新大阪−鹿児島中央)は,新大阪途中下車を含めておよそ32,000円。帰路の飛行機(鹿児島空港−羽田)は,ソラシドエアのバーゲン28(1か月半前に手配)で10,670円。時間的にも金額的にも飛行機を選ぶほうが有利に違いないのですが,片道は新幹線にこだわりました。

# 24-2
旅の計画は鹿児島県内2泊3日。鹿児島在住の友人 むっちーさんに連絡を取ったところ,1日付き合っていただけることになったので,1日目はむっちーさんのクルマに便乗して鹿児島空港に近い姶良市高牧,湧水町国見,日添をまわり,2日目はレンタカーで単独で大隅半島の曽於市黒仁田,肝付町二股川をまわった後,本土最南端の佐多岬に足を運び,3日目は桜島北東の小さな高度過疎の島 新島(鹿児島市)でゆっくり過ごすという計画が決まりました。
旅の出発は平成25年3月29日(金)。鹿児島への旅は平成6年8月のツーリング以来,実に19年ぶり。年休取得は年度末・年度はじめを挟んで2日間。Keiko(妻)と一緒に南浦和の家を午前11時頃に出発し,東京駅から「のぞみ」に乗って,新大阪で途中下車して,堺の実家に立ち寄って1泊です。

# 24-3
翌3月30日(土,鹿児島1日目)の起床は未明4時半頃。妻と分かれて乗った「さくら」の新大阪発は朝6時25分。2席×2でゆとりがある指定席は,広島から熊本までほぼ満席でした。熊本から全駅停車だったこともあって,鹿児島中央着は午前10時42分(所要は約4時間20分)。少しずつ目的地に近づく感じは鉄道ならではです。今回,九州新幹線(博多−鹿児島中央)を一気に乗車して,私は開通している新幹線全線に乗ったことになったようです。
鹿児島中央駅からは在来線に乗って,3つ目の重富駅で下車して,平成21年11月の熊本以来3年強ぶりのむっちーさんと合流。高牧(Takamaki)へは,重富からそのまま山を登る道と,旧吉田町から山をまわり込む道があるのですが,むっちーさんの判断で,吉田経由の道を選ぶことになりました。

# 24-4
旧吉田町の中心部を経て,高牧の手前の小集落 福ヶ野に着いたのは午後12時15分。花が少し残ったサクラがある,穏やかな集落です。高牧に関する情報はネット上には見当たらず,古い地形図の文マークと住宅地図を組み合わせてアタリを付けた分校跡の位置には,建物はおろか道も記されていません。
「まず,何か情報を集めよう」と,民家を訪ねて,おばさんに高牧分校について尋ねると,「林道から少し入って下っていったところにあって,風呂の跡がある」との返事をいただきました。重富へと続く舗装道からダートの林道へ入って,しばらく走ると右手に家跡のガレキがあって,そこからピンクテープのマーキングに沿って下っていくと,谷沿いに平地が見つかりましたが,見当たったものは丸いコンクリの貯水槽の跡だけでした。

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# 24-5
少しだけ林道を進むと,右手にピンクマーキングがある枝道があって,下っていくと突き当たりの真下に建物の敷地らしきものが見つかりました。「もしや」と思い,草をかき分けて探索すると,建物の基礎や風呂らしい水回りの跡が見つかりました。場所からいっても,分校跡に違いなさそうです。
重富小学校高牧分校は,へき地等級1級,児童数24名(S.34),戦後開拓に伴いできた分校(昭和28年開校)で,昭和41年閉校。分校跡の周囲は林となっていて,家々があったことは想像できません。古い地形図を見る分では,家々は点在していたようです。
幸先のよいスタートを飾り,旧吉田町役場近くでおにぎりを食べていると,むっちーさんのクルマがパジェロミニということが気になり始めました。

# 24-6
黒仁田(Kuronita)は,「最寄りの集落から4qほど荒れたダートを走った山中にある」という情報を,平成20年に「末吉水産曽於市本店」blogの管理者の方からちょうだいしていて,「レンタカーで行くのはどうか」と心配していた廃村でした。しかし,高牧から黒仁田は,結構な距離があります。むっちーさんに相談すると,「国見,日添よりも,行ったことがない黒仁田が面白そうですね」とのことで,急きょ予定の入替えを行うことになりました。
姶良ICから曽於弥五郎ICまで高速に乗って,旧末吉町を横断し,黒仁田の手前の小集落 新田山に到着したのは午後3時頃。およそ80kmを1時間20分で走りました。中山から先の花房川の渓谷に近い道はほぼダートで,それもかなり荒れていて,レンタカーで来なかったのは大正解でした。

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# 24-7
高岡小学校黒仁田分校は,へき地等級2級,児童数12名(S.34),営林署(福島営林署)関係の分校(昭和21年開校)で,昭和43年閉校。旧志布志町四浦につながるという林道の三差路で少し迷いましたが,三差路から正しい方向に進むと,ほどなく右手に「高岡小学校,黒仁田分校(安山)跡」という標柱が見つかりました。古い地形図には黒仁田の地名,文マークは記されておらず,「末吉水産曽於市本店」blogの情報は貴重でした。
blogでは「花壇の跡しか痕跡はない」とあった分校跡には,往時の門柱が残されていました。門柱横の「高岡小学校遠行記念」の標柱には「高岡小学校より8.1km,花房公民館より約3.3q,平成21年1月建立」と記されていました。小学生が山中の廃校を遠足で訪ねるというのは,面白い話です。


# 24-8
旧末吉町は宮崎県との結びつきが強い地域で,福島営林署の福島は今の宮崎県串間市のことです。今もプレハブの串間森林事務所の休憩所がありましたが,久しく使われていない感じでした。分校跡近辺では,水がめや酒ビンなど,いくつかの往時の暮らしを偲ぶものが見当たりました。
むっちーさんの家,私のこの日の宿,旧隼人町「妙見温泉 きらく温泉」は,ともに鹿児島空港の近くです。「帰りは観光地を通るルートを行きましょう」と,むっちーさんが選んでくれた道は,宮崎県都城の市街地を通るものでした。宮崎県も19年ぶり。その気になれば翌日,串間市新谷など,宮崎県の廃村をめぐって全県踏破を達成させることも可能でしたが,「残るは1県!」の余韻を楽しまなければもったいないので,今回は眼中になしです。


# 24-9
都城から鹿児島空港の間では,R.223で霧島温泉郷を抜け,坂本龍馬とお竜の新婚旅行ゆかりの塩浸(しおびたり)温泉に立ち寄りました。ここで買った「関平(せきひら)鉱泉」という旧牧園町のローカルミネラルウォーターは,よく運動したせいか妙に美味しかったです。
妙見温泉 きらく温泉にチェックインすると,ご主人がさつまあげをプレゼントしてくれました。日当山温泉を経由して,空港近くで私はレンタカーに乗り換えて,クルマ2台で鳥料理の店に出かけて鳥さしを食べて,空港近くのコンビニでむっちーさんと別れたのは夜8時頃。ビールでの乾杯は8月の宮崎・西都市の宿までお預けとなりましたが,この日はむっちーさんのおかげで実りのある探索ができ,感謝するところです。

# 24-10
きらく温泉は,湯量たっぷりの内風呂に加えて大きな露天風呂もあって,温泉に入って缶ビール2本も飲めば大満足で眠りにつくことができました。
翌3月31日(日,鹿児島2日目)の起床は未明5時頃。旅程は,宿北側の旧栗野町(国見,日添)に行った後,本土最南端の廃村 二股川,本土最南端 佐多岬をまわって,宿泊地,垂水市「海潟温泉 海潟荘」までで,見積距離は380km。普段クルマの運転には縁がない私としてはかなりの強行軍です。
温泉に入って,宿を出発したのは朝6時頃。妙見温泉と空港の間,通り道そばにあるJR肥薩線嘉例川駅の木造駅舎は,鉄道の開通(明治36年)以来,使われ続けているもので,建設から110年目。立ち寄ってみると,偶然吉松行きの始発列車が到着し,出発していくのを見送ることができました。


# 24-11
空港近くのコンビニで朝食を調達して,国見(Kunimi)には,旧薩摩町永野から川筋をさかのぼる道を選んで向かいました。この3kmほどの道はふだん使われていない道らしく,舗装はしているものの茂みがあったり石が転がっていたりで,国見集落中心のT字路に着くまで,ハラハラしました。
住宅地図に記された国見の戸数は2戸。うち1戸はT字路の上方すぐにあり,1戸はT字路から永野寄りに少し離れています。クルマを停めてT字路を行止まり方向に歩いてみると,舗装道はひび割れがあるほど荒れていて,2戸の廃屋が見つかりました。うち1戸は公共の建物のような雰囲気があったので,後で調べてみると,往時の公民館でした。T字路上方の家には明かりは点いているけどクルマはなく,お年寄りが暮らされている様子です。

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# 24-12
幸田小学校国見分校は,へき地等級1級,児童数28名(S.34),明治30年開校,昭和44年閉校。国見は鹿児島唯一の農山村の廃校廃村で,大隅国にありながら,地勢は薩摩国です。昔は国境警備の役割があったのかもしれません。
T字路のやや永野寄りに「いかにも分校入口」という感じのスロープがあり,草をかき分けて進むとまずまずの広さの平地があって,隅には土塀が見つかりました。分校についてお話をうかがいたくて,明かりが点いている家を訪ねたのですが,扉をたたいても返事はありませんでした。続いて,T字路から永野寄りに少し離れた家も訪ねたのですが,こちらは無人となって久しい雰囲気で,道沿いに残った車庫は傷んでいました。

# 24-13
思ったよりも見応えがあった国見では,朝食休みを含めて1時間半滞在しましたが,その間,通過するクルマ一台ありませんでした。
旧栗野町の西端の国見に対して,次の目標 日添(Hizoe)は旧栗野町の東端。移動中,栗野市街に立ち寄ると,栗野駅の裏に「丸池湧水(まるいけゆうすい)」という湧き水を発見。何でも,湧水量は1日に2万トンもあり,旧栗野町全体の水道水として使われているとのこと。
栗野市街からは,栗野岳温泉という案内板をたどって山を上り,温泉の先の日添の分校(栗野岳分校)跡を目指しました。分校跡着は午前9時半頃。なぜか首輪のついたイヌがいて吠えられましたが,しっぽを振っていたのでのんびり応対すると,やがて手をのっけてくるなどフレンドリーになりました。

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# 24-14
栗野小学校栗野岳分校は,へき地等級2級,児童数70名(S.34),昭和22年開校,平成元年閉校。戦後開拓関係では大きな学校ですが,日添地区に電気が導入されたのは昭和38年といいます。今も日添には2戸の酪農の方々が住まれていますが,集落という雰囲気ではありません。
閉校後,分校跡は「栗野岳ログキャンプ村」として整備され,校舎があったと思われる場所にはログハウスが建てられていました。そして,ログハウスの横には分校のプールが残されており,その先には鉄棒,門柱,さらに分校跡の碑を見つけることができました。
首輪のついたイヌは,適度な距離を保ちながら分校探索に付き合ってくれましたが,門柱のところで反対方向に走っていって見えなくなりました。

# 24-15
日添からR.223を目指して旧牧園町を走っていると,道の駅のような「関平鉱泉」の販売所があったので,会社の土産に24本入りの箱を宅配扱いで購入。
R.223で塩浸温泉,妙見温泉を通過して,渋滞に巻き込まれながら隼人市街を過ぎて,旧国分市敷根でR.10からR.220に入ると,南国らしいのんびりした空気が漂ってきました。宿泊地 海潟で町の様子をうかがっていると,海潟はカンパチの養殖がさかんな漁港がある町と判明。折よく「桜勘」という漁協直営の食事処が見つかったので,昼食はカンパチの漬け丼となりました。小皿で付いてくるカンパチのあら煮はとても美味でした。
駅がない垂水市街,鹿屋市街を過ぎて,細かい道をつないで旧高山町に入り,旧内之浦町岸良へ続く県道を進むと,すんなり二股川に到着しました。

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# 24-16
二股川小学校は,へき地等級1級,児童数42名(S.34),昭和26年開校,昭和39年閉校。二股川キャンプ場の入口にクルマを停めて,住宅地図を見ながら探索すると,「鹿屋営林署鹿屋製品事業所 終山記念碑」という石碑(平成7年建立)と,神社(大山神)が見つかりました。
碑の裏面には「昭和21年以来,大隅半島の戦後復興と地域産業の発展に貢献した生産事業所は,鹿屋製品事業所を最後に有終の美を迎えたが,直営生産の歴史と成果,幾重にも頑張り合った汗と友情を忘れまい」と記されており,二股川が大隅半島の主要な林業集落であることがうかがえました。
二股川では,本土最南端の廃校廃村にたどり着いて,また,鹿児島県本土部すべての廃校廃村(5か所)にたどり着けた達成感を得ることができました。

# 24-17
二股川からトンネルを抜けて着いた岸良は,外海(太平洋)沿いの小さな町で,三差路には「佐多岬まで75km」という看板が見られました。時間は午後2時46分。寄り道をしなければ,明るいうちに到着できそうです。岸良はクルマを停めてひと息つくには良さそうな町なのですが,ここはグッと我慢です。
岸良から旧田代町経由旧佐多町へ向かうR.488と県道は,交通量極小の上に高規格。このため,旧佐多町馬籠では小さな商店に入ってジュースを買える余裕が出てきました。外海沿いの狭い道で大泊に出て,佐多岬ロードパークを野生のサルの群れに遭遇しながら走って,クルマを停めてから15分ほど歩いて,ほとんど人の気配がない佐多岬の展望所に着いたのは夕方5時10分。以前の旅で鹿屋止めになった無念さを,19年ぶりに晴らすことができました。

# 24-18
佐多岬からの帰路では,佐多市街のAコープで佐多岬ラベルの芋焼酎(さつま大海)を買って,海沿いのR.269で夕闇のぼんやりした開聞岳を遠望。後は錦江湾沿いの道をどんどん北上すると,80kmを1時間55分で走り切り,夜7時30分には海潟に着いていました。この日の走行距離は378kmでした。
海潟荘は日曜日は素泊まりのみとのこと。「晩ご飯は近場がいいな」と思っていると,折よく宿の隣はローカルスーパー。「惣菜はありませんか」と尋ねたところ,鶏の軟骨の唐揚げを作ってくれて,「1パックならあるよ」というごはんを買うと,サニーレタスをサービスしてくれました。
宿のお客はおそらく私ひとり。部屋で鶏軟骨唐揚げをたっぷり食べてから入った温泉はとても大きく,疲れをいやして鋭気を養うには十分でした。

(追記1) 私が訪ねた頃(平成24年12月〜平成25年5月)の佐多岬は,レストハウス跡の廃墟と展望台の解体工事が行われており,展望所と記した場所(おそらく歌碑広場)への道は通行止だったようです。工事の実作業が行われていない日曜の夕方に行けてよかったです。また,長い間有料だった佐多岬ロードパークは,平成24年10月末に無料化されたばかりだったそうです。19年前のツーリングでは台風で阻まれた佐多岬行き,今回は運にも恵まれました。

(追記2) 平成26年1月下旬,ネット仲間の方からいただいた情報で,国見分校跡は私が想定したよりも北側にあって,往時の門柱と分校跡の碑が建っているとがわかりました。また,鹿児島県阿久根市には,本之牟礼という農山村の廃村があることがわかりました。



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