廃村全県踏破,達成はひとり静かに

廃村全県踏破,達成はひとり静かに 宮崎県諸塚村猿渡,美郷町長崎

普通林道川内線で見かけた「猿渡→ 0.5km」の看板です。



2013/8/16 諸塚村猿渡,美郷町(旧西郷村)長崎
[ 諸塚村仲滝 ]

# 26-1
平成25年3月,鹿児島県に足を運んで,「廃村全県踏破」は宮崎県を残すのみ。「いつ,どこで,どのように達成するか」は,大きな課題です。
「いつ」は,8月のお盆休み頃とすぐに決まりました。「どこで」と「どのように」は,西都市片内(Katauchi)に「かたすみ」という農家民宿があるということで,「かたすみに1泊して,仲間が集う形で迎えたい」と決まり,4月には心当たりにメールを出しました。
宮崎は「廃村千選」で26か所もポイントがあるので,4泊5日の旅の行程のうち,3日間を廃村探索に充てて,1日ずつ内容に特徴をもたせるべく計画を練りました。結果,1日目は情報がない諸塚村猿渡(Saruwatari),旧西郷村長崎(Nagasaki)をひとりレンタカーで回り,達成とする予定となりました。

# 26-2
九州への旅の出発は平成25年8月15日(木)。宮崎への旅は平成6年8月のツーリング以来,19年ぶり。年休取得は最終日(19日(月))の1日間。南浦和の家を朝6時頃に出発し,羽田からスターフライヤーで北九州空港まで飛んで,朽網駅から「青春18きっぷ」で日豊線のローカル電車に乗車です。
「青春18きっぷ」を使うのは,実に32年ぶり。ローカル電車は風情があってよいけれど,本数の関係で中津−杵築間は特急乗車となりました。
大分駅で豊肥線に乗り換えて,中判田駅で大分在住のかもしかさんと9か月ぶりに再会。ドライブがてら旧宇目町の宗太郎分校を訪ねました。宗太郎駅から日豊線に戻って,日向市駅で下車してGS経営のレンタカー店へ直行。イオンSCの中華屋で夕食をとって,この日の宿に到着したのは夜9時頃でした。


# 26-3
翌16日(金,旅2日目)は,朝6時起床。天気は快晴。心配された暑さは,東京・埼玉よりは心地よいぐらいです。廃村めぐりは山の中になるので,ホテル近くの米ノ山展望所に立ち寄ったり,シュークリームを買って耳川河口の幸脇漁港で食べたりしながら,ゆっくりとスタートしました。
クルマは赤いシボレー・クルーズ(1300cc)。スズキとGMの共同開発車(スズキ製)で,24時間レンタルで4,141円。ちなみに,スターフライヤー(羽田−北九州)は16,270円(STAR28),「青春18きっぷ」は11,500円(5回分)で,九州の旅で使ったのは2回分(4,600円相当)。日向市のリゾートホテル「ホテルジェイズ日向ブルーパーク」は4,000円。その気で備えたら,九州は行きやすくなったものです。

# 26-4
幸脇漁業集落からは,耳川に沿った県道とR.327をひたすら走り,諸塚村中心部に着いたのは朝9時半頃。道は高規格で,走りは快適です。一服した後に走ったR.503は,離合(すれ違い)が難しい区間もありましたが,狭い道にもそれなりに慣れてきたようです。そのうちに「林道川内線」を示す看板が見当たりました。川内(Kawauchi)は広域の地区名で,猿渡はその中心にあります。
R.503よりも走りやすい林道を進み,「猿渡→ 0.5km」の看板を過ぎると,やがて視界が開け,猿渡に到着したのは午前10時15分。棚田が広がり,家々には生活感がある風景に,廃村という言葉は似合わないのですが,その穏やかな雰囲気は,廃村全県踏破の達成には似合っている感じがしました。

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# 26-5
七ツ山小学校川内分校は,へき地等級2級,児童数10名(S.34),明治28年開校,昭和48年閉校。古い地形図(諸塚山,S.42)には文マークは載っていませんが,川内地区の公民館が建つ分校跡は,すぐにわかりました。分校跡の脇には神社があって,奥には傷んだ教員住宅が残っていました。
さて,猿渡の読み方ですが,「さるわたし」と記された書物があったため,「廃村と過疎の風景」第5集ではこれを使いました。また,ゼンリン住宅地図には「そうたり」というルビがあったりしましたが,集落の橋の欄干を見ると「さるわたり」とあったので,素直な読み方を使いたいと思います。
橋を渡った先の家の方(吉高さん)にご挨拶して,お話をうかがったところ,猿渡に住まれる家は3戸,公民館は分校の校舎を改装したものとのことです。

# 26-6
橋の少し上手には,川に沿ってキャンプができる施設があって,先には小さな滝があります。日差しは強いけれども,日影に入るとちょうど快適です。川沿いは釣りや納涼にはもってこいですが,市街地からの距離がある(日向市からだと約60km)からか,観光の方の姿は見当たりませんでした。
猿渡から1km少し上手には,仲滝(Nakadaki)という小集落があって,ここは無住ということが住宅地図で確認できています。仲滝を訪ねてみると,規模は小さいけれども棚田があって,猿渡に共通する活気が感じられました。往時の戸数は3戸で,家々は今も残っていますが,地域の方に出会いませんでした。また,路傍には「菊地重為甲斐重房滞在之碑」という,熊本から仲滝へ落ち延びたという室町時代の武将ゆかりの碑が建っていました。


# 26-7
諸塚村中心部に戻って,昼食がとれるお店を確かめるため村役場に足を運ぶと,移動のパン屋のクルマが役場前に停まっていました。役場では「どんこ亭」というお店を紹介していただいたのですが,流れがよいので移動パン屋を利用しました。
「どんこ亭」がある場所にも足を運ぶと,診療所やエコミュージアム,しいたけの館といった公共施設が集まっていました。エコミュージアムに入ると,賑やかに子供達の声が響いていました。観光案内によると諸塚村は明治の頃から「林業を本意とする村」で,地形図を見ても林道の多さが目を惹きます。また,川内地区は村内で最も少ない世帯数(13戸)だが,高齢化率は低く,若い後継者が最も多くいる地区とのことです。


# 26-8
昼食の後は耳川を渡って向こう側の旧西郷村山瀬地区へ移動し,長崎を目指しました。途中立ち寄った山瀬小学校跡(平成15年休校,平成20年閉校)はRC二階建ての大きな校舎があり,その真下にはこの日は休業の商店がありました。商店にあった「うまさ輝く 寶星焼酎」という看板が印象に残り,「この地域の焼酎かな」と思って調べると,鹿児島市に蔵がある甲類焼酎でした。ただ,この地域でよく飲まれているお酒には違いないようです。
途中,島戸という小集落に立ち寄ると,「いきいき集落」というノボリが立っていました。「何のことやら」と思って調べてみると,宮崎県が中山間地域において,住民主体の元気な集落づくりを推進するための試みで,「限界集落」という呼び方に対抗して命名されたのこと。


# 26-9
島戸から野々尾,持田へ向かう道は山の中腹を通っており,耳川の谷を挟んで向こう側には山に貼り着くような諸塚村の集落(おそらく松の平)が見えます。向こうから見ると,山瀬地区の集落も同じような感じなのでしょう。
持田から緩やかな上り坂を進み,「いきいき集落」のノボリが立つ長崎に到着したのは午後1時50分頃。見晴らしがよい山の中腹に数戸の家々が建っていますが,猿渡ほど生活感はありません。また,古い地形図(神門,S.42)には文マークは載っていません。「とにかく分校跡を探そう」と歩いていると,探し始めて5分ほどで集落の奥のほうにそれらしい小さな建物を見つけることができました。

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# 26-10
山瀬小学校長崎分校は,へき地等級2級,児童数9名(S.34),昭和22年開校,昭和62年休校,平成15年閉校。門柱はなくなっていましたが,教室は一つだけの小さな校舎は「西郷村史」(平成5年発行)に載った写真のままでした。
分校跡でひとり静けさを楽しんでから,戻り道にお会いした地域の方によると,長崎の戸数は3戸とのこと。
宮崎県には「ここに学校があった」という戦後に閉校となった193校の姿を綴った書籍(宮崎県教職員互助会発行,平成10年)があって,川内分校は掲載されていますが,長崎分校や山瀬小学校は載っていません。平成の大合併があって,少子化が進んだ現在,閉校となった学校は増えていそうです。

# 26-11
長崎から椎葉村松尾地区栗の尾は1km足らずですが,古い地形図(神門,S.42)には長崎から先の車道はなく,林道長崎唖谷線の開通は昭和61年とのこと。松尾小学校は,RC造三階建て校舎の現役校。大イチョウも見に行きたかったのですが,R.327沿いの商店に入ったところで時間切れと判断しました。
諸塚村中心部のアイショップでカップの寶星焼酎を買って,日向市のレンタカー店に戻ったのは夕方5時20分。レンタカーの走行距離は196kmでした。
日向市駅からは日豊線のローカル列車で佐土原駅へと向かい,「佐土原 亀の井ホテル」で島根県在住のおきのくにさんと合流。おきのくにさんは4回目の挑戦でえびの市の鉄山分校跡にたどり着けたとのことで,私の全県踏破達成とあわせて,ホテル併設の居酒屋「長参」でお祝いの乾杯をしました。



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