全県踏破の旅,結末は賑やかに

全県踏破の旅,結末は賑やかに 宮崎県西都市寒川,吹山,片内

廃村 寒川(さぶかわ)で見かけた,時の流れを感じさせる廃屋です。



2013/8/17〜18 西都市寒川,吹山,片内

# 27-1
平成25年8月,九州への旅,2日目(8/16(金))に「廃村全県踏破」を無事達成し,3日目(8/17(土))は皆で賑やかに過ごすべく計画を立てました。
宿泊は西都市片内(Katauchi),皆はバラバラに集まるということで,集合は有名で,かつ集いやすそうな廃村 西都市寒川(Sabukawa)に決まりました。寒川と片内の間には吹山(Fukiyama)というほとんど知られていない林業専業集落跡があるので,寒川に続いて吹山を訪ねる予定となりました。
2日目,椎葉村の長崎唖谷林道をクルマで走っている時,宮崎日日新聞の西都支局の記者の方(草野さん)から携帯に連絡があって,「廃村全県踏破」について取材をしたいとのこと。2週間前に文化部に送ったメールが実りました。草野さんの希望もあって,取材は寒川で行われることになりました。

# 27-2
8月17日(土,旅3日目)は,朝6時半起床。天気は快晴。「佐土原 亀の井ホテル」,ほろ酔いの就寝前にコインランドリーと乾燥機を使ったこともあって,荷づくりに手間取ってしまいました。そのうちに宮崎出身東京在住のめいこさん(6月の東京以来)が到着し,まずは3人,佐土原に集まりました。
おきのくにさん(6月の山口以来)のクルマで宿を出発したのは朝9時少し前。めいこさんは宮崎から東京に転居して1年強。「宮崎には戻ってきた,やってきただと,どちらですか」と尋ねると,「どちらかといえば,やってきたですね」とのお返事。寒川へ向かう急な坂道の手前に一番乗りすると,大分県在住のかもしかさん(2日ぶり),初顔合わせの草野さん,鹿児島県在住のむっちーさん(3月の鹿児島以来)が,それぞれのクルマで到着しました。



# 27-3
狭くて荒れた上りの道をクルマ3台(かもしかさんはむっちーさんのクルマに便乗)で進み,寒川に到着したのは午前10時50分。山の中に忽然と現れた集落跡は,一見して規模が大きく,「廃村に来た」という気分になります。階段を上がってすぐの左手にある新しく見える家屋は,公民館の跡とのこと。数回来ているというむっちーさんによると,トタン屋根や雨どいなどが撤去されているのは,金属を売りさばく外部の者のせいではないかとのこと。
見覚えがある家屋が多くあるのは,ムック本「廃村をゆく」(イカロス出版刊,平成23年5月発行)のおかげです。この本の寒川の記事は,おきのくにさんがメイン,めいこさんが写真,私が映画の解説等で協力してできたものです。

# 27-4
寒川は平成19年制作の映画「寒川」の舞台となりました。中山間地の過疎化の進行,森林の荒廃の危惧など,メッセージ色が強い映画ですが,予告編冒頭に「最後まで残った6世帯13人が集団移転し,平成元年寒川は廃村になった」というテロップが出てくるなど,農山村の廃村の姿が表に登場します。
映画と書籍「ここに学校跡があった」によると,昭和10年頃の寒川には50戸超,250名が住み,お茶や炭などが商品として作られ,宮崎市街などから来る仕入れの人達が泊まれる旅籠のような宿があったといいます。寒川には,西米良などの山の集落と市街地との中継地という役割があったようです。古い地形図(妻,S.44)を見ると,寒川と手前の集落(水喰)の距離はおよそ8km。三財川上流の山の中腹にポツンとある寒川は,目立つ存在です。

# 27-5
映画でも出てくる最後まで寒川に残った老夫婦が,集団移転の際「家に戻っても住むことができないように」という行政の指導により,永年使い続けた流しを泣きながらハンマーで叩いて壊したという話には,村人が村を捨て去るときの想いが凝縮されています。
また,映画には平成18年に寒川出身者,学校の教員,映画関係者などによって行われた「山の同窓会」の様子が記録されており,神社と神楽の舞(民俗芸能),学校と校歌,運動会などが村人たち共通の心の拠り所となっていたことが伝わってきます。坂を上った先には平地があって,手入れがなされたお宮さんが建っていました。村の方には出会いませんでしたが,何かの時には来られていそうです。

# 27-6
平地にはスギが植えられていましたが,向かいには高さ5mはある石垣が組まれていて,学校跡は石垣の上にあります。お宮さんを越えた道は,長い階段を経て学校へと続いているのですが,私とむっちーさんは石垣の間にある小さな道を歩いて上ろうとすると,その道も階段へと続いていました。
寒川小学校は,明治9年開校,へき地等級2級,児童数39名(S.34),昭和53年閉校,最終年度は児童数5名。寒川では昭和11年に集落の家屋が全焼するという災害があり,学校も焼失しました。今も残る木造校舎は,昭和13年に再建されたものなのかもしれません。
学校跡で取材を受けた後,6名で集合写真を撮ろうと思ったのですが,三脚を忘れていたため,写真は草野さんに撮っていただくことになりました。


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# 27-7
寒川の探索は取材を含めて1時間半ほど。駐車場まで戻って,草野さんを見送ってから,5名で昼食休みです。わいわい話しているうちに,めいこさんから「HEYANEKOさん,何か声が大きいですよ」と指摘を受けました。どうやら,待望の寒川探索が実現し,テンションが上がっているようです。
次の目標 吹山は,メンバー全員行ったことがありません。林道は狭そうですが,土曜日なので,トラックとすれ違う心配は薄そうです。
書籍「ここに学校跡があった」には,集落があった谷の上,林道沿いに立つ分校跡の記念碑の写真が載っています。古い二万五千図(三納,S.43)には吹山集落と林道が記されており,碑の場所はある程度見当がつくので,これを目指してクルマを走らせることになりました。


# 27-8
ダートの林道を走っているうちに,おきのくにさんのクルマに3人乗る必要はないと気づき,私はむっちーさんのクルマへと移動です。林道にはいくつか枝道があって,進行はおそるおそるでしたが,手前の集落(長谷)から12kmほどで,切通しで残った塚の上にポツンと立つ記念碑が見つかりました。
三納小学校吹山分校は,昭和22年開校,へき地等級4級,児童数19名(S.34),昭和42年閉校,最終年度は児童数9名。吹山は西都営林署の事業所があるのみの林業専業集落で,交通手段は川沿いに設けられたトロッコだったとのこと。碑の裏面には「この尾根を下る約300mに分校跡地あり 昭和43年廃校 三納小学校創立90周年を記念して之を建てる 1992年」と刻まれており,谷を見下ろすと,小さな川の流れを見ることができました。

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# 27-9
記念碑の2km手前には三差路があって,もう一方の道は集落跡へと続いていそうですが,今回は少しだけ歩いて様子を確かめるに留まりました。山登りを趣味とするかもしかさんは「西都市には山仲間が住んでいることもあるので,いつか吹山集落には行ってみたい」と言われていました。
吹山からは西都市中心部(妻)は通らず,穂北でR.219に入り,杉安で一ツ瀬川を渡って片内へと向かいました。片内の民宿「かたすみ」到着は午後3時半頃。宿の正面には芝生が敷かれた広がりがあって,校庭のようですが,この広がりにはかつて九州電力の社宅が建っていたとのことです。
夕方に待ち合わせ予定の和歌山県在住の村影弥太郎さん(1月の和歌山以来)に携帯で連絡を取ろうとしたところ,宿には電波は通じていませんでした。

# 27-10
宿で一服しているうちに私宛のメール便が届きました。先週末(8/10(土))にオンエアされた,広島ホームテレビ「ホビーの匠」廃村の匠(前編)のDVDです。番組のロケ地は,おきのくにさんのお膝元の島根県益田市。皆で集う機会は,鑑賞するにはよいタイミングです。
一服した後は,宿の裏山にある片内小学校跡の探索です。古い二万五千図(瓢丹淵,S.43)を見ると,宿と文マークの直線距離は200mほど。ただし,100m以上の高低差があります。そして,新しい二万五千図(瓢丹淵,H.14)には,文マーク跡に続く道は記されていません。
メンバーのうち,おきのくにさんは「片内小学校跡は訪ねたことがあるが,その時は新しい地形図にある尾根から下る道を使った」とのことです。

# 27-11
「何とかなるでしょう」と楽観的に出かけたものの,まず車道からの取付きがわかりません。小さなお宮が見えたので,「続きの道があるだろう」と予測しましたが,これは外れでした。少し上方に道らしきものが見えたので,這いあがっていくと,今度はシカ除けの網に行く手を阻まれました。
木が倒れている場所から何とか網をくぐり抜け,先を進んだところ,今度はV字に折り返す場所がわかりません。そのうちに道の左側に,昭和30年代まであった旭化成の私設発電所に関係するという水路施設の跡が見つかりました。一ツ瀬川にある九州最大級のダム(一ツ瀬ダム)の着工は昭和35年,竣工は昭和38年。「廃村千選」では,片内は発電所関係の廃村(高度過疎集落)としていますが,特徴のある歴史がありそうです。

# 27-12
V字の折返しはなかなか見つからず,「あきらめたほうがよいのでは」という雰囲気になっていた頃,施設よりも先の道を単独で探索していたおきのくにさんから「見つかった!」という声が上がりました。
折返しの先の傾斜がある道には,コンクリの階段が残っていて,昔の通学路だったことはよくわかります。そのうちに校庭を固めていたコンクリの壁が見えて,階段を上り詰めた場所には,門柱と学校跡の記念碑が静かに立っていました。門柱の間に立つ記念碑の正面には「片内小学校跡地」,側面には「創立100周年記念 昭和53年11月5日建立」と記されていました。

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# 27-13
片内小学校は,明治35年,三納小学校の分校として猿ノ囲(Sarunokakoi,尾根上手の集落で廃村)に開校,昭和24年現在地に移転し,昭和28年本校に昇格。へき地等級1級,児童数53名(S.34),昭和41年閉校,最終年度は児童数22名。学校跡は植林されていましたが,平地を探索すると,流しやトイレの跡などを見つけることができました。宿のすぐそばの学校跡探索は,思いのほかたいへんでしたが,その分印象深いものにもなりました。
宿に戻って,「ホビーの匠」DVDを見るなどしながら過ごしていると,夕方6時20分頃,村影さんのクルマが到着し,6名が揃いました。村影さんが,この類の集いに参加されるのは初めてのこと。「暗くならないうちに」と宿の前で撮った集合写真には,イヌのモモちゃんにも加わってもらいました。

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# 27-14
村影さんは陸路で1週間前に宮崎へ到着し,県内各所の廃村を探索,この日が宮崎最後の夜とのこと。おきのくにさんは日曜日に入った仕事に備え,この夜は高速道を走られるとのこと。また,おきのくにさんと村影さんは,前日(8/16(金))夕方,えびの市鉄山で偶然すれ違われたそうです。
いろいろな縁の重なりから実現した「かたすみ」の会。6名で乾杯し,食事とお酒は泊まりではないおきのくにさんとめいこさんを見送ってから開始。食事が終わった頃には,宿のご主人(佐藤さん)も宴に参加。片内に現在住まれるのは,「かたすみ」と一ツ瀬発電所の奥にある家の2戸。「かたすみ」の開業は平成22年。現在国有林になっている片内小学校には小学5年生(最終年度)まで通われたとのこと。まったりとした会は12時過ぎまで続きました。

# 27-15
翌18日(日,旅4日目)は,朝6時起床。天気はこの日も快晴。雨の心配がいらない旅です。シャワーを浴びた後,ほどよく時間があったので,単独で再び片内小学校跡を目指しました。前日は往復1時間半かかった道のりですが,道筋がわかれば心配はありません。所要時間は学校跡の探索を含めて往復35分,前日は逆光だった門柱正面からの写真を撮ることができました。
平成20年6月,石川県小松市丸山から始まった「廃村全県踏破への道」の旅。結末は平成25年8月,宮崎県西都市片内となりました。片内小学校跡の門柱前の階段に座って学校跡を見上げながら,未訪県がゼロになったことの喜びをかみしめました。

(追記1) 「47都道府県廃村踏破」の記事は,8月20日(火)に宮崎日日新聞に掲載されました。

(追記2) 冊子「全県踏破への道T」(平成25年12月発行)ができた後の調べによって生じた追加,差替えを,ここでまとめます(平成28年6月現在)。変更によって冊子「廃村千選」の情報との差が生じるのですが,何卒ご了承いただければと存じます。

【追加】
 ・北海道(道北)小平町花岡
 ・青森県六ケ所村鷹架
 ・青森県六ケ所村弥栄平
 ・青森県六ケ所村上弥栄
 ・秋田県鹿角市大清水
 ・滋賀県高島市(旧今津町)北生見
 ・広島県福山市(旧新市町)藤尾堂前
 ・福岡県那珂川町五ケ山
 ・佐賀県吉野ヶ里町(旧東背振村)大川内
 ・鹿児島県阿久根市本之牟礼

【差替え】
 ・北海道(道東)遠軽町(旧丸瀬布町)上丸瀬布
 ・岩手県葛巻町毛頭沢
 ・岩手県岩泉町水堀
 ・岩手県岩泉町滝ノ上
 ・秋田県大仙市(旧南外村)夏見沢
 ・島根県益田市岩倉
 ・高知県宿毛市出井
 ・福岡県嘉麻市(旧嘉穂町)栗野
 ・長崎県五島市(旧岐宿町)半泊
 ・宮崎県えびの市(旧飯野町)吉牟田

【名称変更】
 ・北海道小平町滝下 → 滝下東和
 ・秋田県大仙市(旧南外村)逆川 → 細川



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