阪神工業地帯に埋もれた集落の歴史

番外 阪神工業地帯に埋もれた集落の歴史 大阪府大阪市西淀川区西島,
_____________________________________________布屋,外島,矢倉

廃村 西島(にしじま)にある,ジェーン台風由来の防潮堤です。



2010/11/20・23 大阪市西淀川区西島,布屋,外島,矢倉

# 外-1
「廃村千選」の各都道府県別のページをまとめていて,最後までトップの画像が決まらなかったのが大阪府です。大阪府(旧国名は摂津,河内,和泉)は,西日本で唯一「廃校廃村」が見当たらず,長い間,仮画像として河内長野市の滝畑ダムを使っていました。滝畑ダムは昭和56年竣工。滝畑小学校は大阪府唯一(最高級)のへき地2級校で,平成2年に閉校となりましたが,滝畑集落は今も存続しています。
私は大阪府堺市で生まれ育って,28歳まで大阪で暮らしていたにも係わらず,こと廃村に関しては大阪府の情報にとても疎く,廃校に係わらない廃村の所在も不明のままでした。候補地として,和泉山脈の麓,茨木市の安威川ダム建設予定地が浮かびましたが,具体的な集落が出てきません。

# 外-2
平成22年8月,徳島県阿南市の那賀川河口の廃村 辰巳に足を運んだとき,西淀川区の新淀川河口にも無住化した町があるのではないかと気付きました。もともと地図を見て地名を追いかけるのが好きだった私は,中学生の頃に母が持っていた昭和35年頃の大阪市区分地図を見て,西淀川区臨海部に矢倉町,布屋町,外島町といった,住居表示の実施により消えた町があることを知っていました(西淀川区の住居表示の実施は昭和47年)。
「西淀川区史」,「角川地名大辞典」,地形図,「地図インフォ」Webなどを調べたところ,現西島1丁目(旧西島町),西島2丁目(旧矢倉町・西島町の一部),中島2丁目(旧布屋町・外島町・中島町の一部)は,江戸時代後期の新田開発に係わる集落で,現在住まれる方はいないことがわかりました。

# 外-3
矢倉町,布屋町,外島町は,昭和25年のジェーン台風で大被害を受け,工業用の地下水汲上げによる地盤沈下も重なり,海没地となりました。「西淀川区史」には「高潮対策の防潮堤の外側となり,海水面から工場の煙突が突き出し,舟で海中をのぞいて先祖の墓参りをした」との旨が記されています。
また,あおぞら財団の「公害の歴史と環境再生の足跡を訪ねて」という資料には,「外島保養院記念碑」という興味深い記述がありました。明治42年,外島保養院というハンセン病の療養所が外島に設立されたが,昭和9年の室戸台風により壊滅し,その再建は岡山県の邑久光明園の設立(昭和13年)という形でなされたとのこと。大字外島が大字布屋新田から分立したのは明治41年。どうも外島はハンセン病の療養所設立のためにできた町のようです。

# 外-4
平成22年11月20日(土),恩師を含めた母校(近畿大学)の友人達の集い(堀田コンパ)が,母校所在地の東大阪市長瀬で行われることになりました。西淀川の廃村への旅は,この旅程と結び付けて出かけました。
20日の起床は朝6時頃,天気は晴。関西滞在は3泊4日です。南浦和から東京に出て,新幹線で大阪へ移動して,JR西九条駅で阪神なんば線に乗り換えて,福駅で下車したのは午前11時2分。R.43を渡った福町2丁目は,昭和の雰囲気が色濃く残る大阪の下町で,細い路地が縦横に張り巡らされています。
階段を上がって大野川緑陰道路に出て,突き当たったところが新淀川の右岸堤防。堤防の内側には舟溜まりがあって,古い廃船が係留されていました。

# 外-5
西島水門を渡ってすぐの分岐では,西島川と工場に挟まれた静かな道を選びました。高架道路をくぐってすぐの左手に,目標の西島住吉神社があり,ここでひと休みです。「平成20年大改修工事」と貼り紙があって,真新しくて白い鳥居と,古くて黒っぽい灯篭のコントラストが強烈です。
昭和10年の西島(Nishijima)町は177戸837名。大きな工場(中山鋼業)を背にした神社周辺に家は見当たらず,誰にも出会いませんでした。昭和57年の住宅地図では神社周辺の家々は,製鉄会社の社宅を含め十数戸。そして住宅地図の比較により,西島1丁目の無住化の時期は平成15年頃と推測しました。
西島の北端,出来島水門にたどり着くと,昭和44年に中島へ移転した旧川北小学校跡が確認できましたが,校舎は取り壊されて更地になっていました。

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# 外-6
城島小橋で神崎川を渡って,階段を下りてたどり着いた中島1丁目には住宅が立ち並び,西島から移転してきた新しい川北小学校の前も通りました。
中島公園を過ぎたところからが中島2丁目,ジェーン台風由来の防潮堤の外側になります。現在中島2丁目は,全域が中島工業団地となっています。神崎川に向かって公園と工業団地の間の道を歩くと,右手には「まいどおおきに」という作業服のおじさんの絵が描かれた大きな看板があり,その脇にはSLが飾られていました。安正金属(鉄・ステンレス資源再生センター)というこの会社,いかにも大阪らしい町工場です。
安正金属を後にして,神崎川の堤防と工業団地に挟まれた殺伐とした雰囲気の道を進むと,道沿いの工場の敷地内に赤い鳥居が見つかりました。

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# 外-7
「布屋町に係わる神社かも」と思い見てみると,奉られていたのはお稲荷さんでした。工場の方と出会ったので,挨拶をして神社の由来を伺うと,「ドージマの社長が商売繁盛を願って祀ったけど,会社はつぶれてしもたわ」とのこと。ドージマは鉄工関係の工場だったそうで,工場跡の建物は輸出用中古車の置場になっていました。この方は,中島工業団地の敷地を造成する際,海没地になっていた土地を埋め立てる工事にも携われたとのこと。
昭和初期の地形図(大阪西北部,S.4)には,ドージマよりもやや安正金属寄りに,布屋という地名と神社が記されているのですが,昭和10年の布屋(Nunoya)町の戸数は不明とあります。結局この探索で,布屋に係わるものを見つけることはできませんでした。

# 外-8
ドージマからは鉄工関係の工場が多い工業団地を横切り,外島保養院跡の石碑を目指しました。平成9年,邑久光明園関係の方々が「らい予防法」廃止を記念して建てたという石碑は,中島新橋と中島川西バス停の間,中島川堤防のほとりに,四方に金網を張られた形で立っていました。
昭和10年の外島(Sotojima)町は4戸13名。昭和初期の地形図には,碑よりやや中島新橋寄りに保養院が記されていて,周囲は田んぼとなっていました。往時,外島が周囲と隔離された場所だったことが想像できます。
中島川西バス停から大阪市営バスに乗り,阪神出来島駅に戻ったのは午後2時10分。歩行距離6.5q,この日の夜は大学のゲストハウスに泊まりました。

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# 外-9
11月23日(火祝),晴天の関西滞在の最終日,堺・新金岡の実家からバイクを走らせて,新淀川右岸の河口にある矢倉緑地に着きました。
昭和10年の矢倉(Yagura)町は18戸73名。しかし,昭和初期の地形図には,矢倉という地名は記されておらず,集落がどの辺りにあったのかはわかりません。祭日の矢倉緑地は,釣りの方など人の姿があり,20日に出かけた西島住吉神社,外島保養院跡の碑の静けさと対照的でした。その後,西島住吉神社を再訪し,工場群の間の道を走っていると,ジェーン台風由来の黒いコンクリートの防潮堤が見つかりました。
阪神工業地帯の真ん中で見つけた大阪府の廃村,訪ねてみると「遠くに来た」という気分になり,それは山間の廃村に通じるものでした。



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