小串鉱山・雲の上に佇む硫黄鉱山跡

小串鉱山・雲の上に佇む硫黄鉱山跡 群馬県嬬恋村小串


廃村 小串(おぐし)の小中学校跡に残る回旋塔です。



2006/7/22〜23 嬬恋村小串

# 10-1
群馬県 草津温泉近辺の4つの硫黄鉱山関係の「廃校廃村」のうち,小串(Ogushi)にはいくつかの極だった特徴があります。
ひとつはその標高の高さ(平均標高1600m)で,山の頂にほど近いことから,雲を見下ろすことも度々あるそうです。
2つ目は鉱山の規模の大きさで,山頂近くの山中に最盛期(昭和32年頃)には2000名強の方が暮らす鉱山街が形成されていました。硫黄鉱山関係の廃村としては,岩手県松尾鉱山に次ぐ規模で,関東1都6県の17か所(当時)の「廃校廃村」の中では,埼玉県小倉沢(秩父鉱山)に次ぐ規模です。
3つ目は地すべりが起こりやすい地盤の弱さで,昭和12年11月に小串鉱山街を襲った地すべりでは,245名の犠牲者を出しています。

# 10-2
小串を知ったきっかけは,「廃墟フリークOFF」のメンバー,ぴすけんさんからの情報です。ぴすけんさんは平成13年からのお仲間で,「記憶は遠い」Webで鉱山跡の様子などを公開されていますが,小串鉱山には繰り返し訪ねられているとのこと。
ぴすけんさんの話によると,「小串鉱山では7月下旬に地すべりの犠牲者を奉った御地蔵堂に関係者が集まる法要があり,あわせて道の整備をするので,小串に行くのであれば7月下旬がよい」とのこと。何でも,小串に向かう道は2kmほど手前の毛無峠からつづら折りのダートになっており,弱い地盤のためクルマはおろかバイクの通行も難しく,整備しても大雨が降ればすぐ荒れてしまうそうです。

# 10-3
平成18年2月のオフミートでは,昨年の法要の頃にも小串を訪ねたぴすけんさん,ウシロさん,ふたつぎさんから「今年は小串でキャンプしよう!」と声が上がりました。その声に,私と廃猫さん,「ムサシノ工務店」Webの武部さんが乗り,参加は6名となりました。
ウシロさん,廃猫さんとは,前回(6月上旬)の八丈小島フィールドワークに引き続きのご一緒です。
資料には,2月にぴすけんさんからいただいた昭和45年の小串鉱山・鉱山街の地図,私が用意した昭和40年と平成元年の5万分の1地形図,さらに直前に私が「嬬恋村史」を調べてコピーした昭和46年の閉校直前の小串小中学校の平面図があり,準備万端です。

# 10-4
小串キャンプの出発,7月22日(土)の天気は曇り。まだ梅雨明けしておらず,天気が心配なため,武部さんのクルマに便乗することになりました。
シュラフとマットを紙袋に入れて,リュックを2つ背負って南浦和を出発し,JR武蔵野線新座駅で武部さんと合流したのは午後1時40分頃。クルマ3台が現地で合流というスタイルは,普段個々で行動することが多い廃フリOFFのメンツらしいところです。
武部さんと話をしながらの道中は短く感じられます。草津から先の道では濃い霧が出ましたが,消えると青空が広がりました。道は万座温泉を過ぎると急に細くなり,毛無峠に着いたのは夕方6時頃。索道跡の鉄塔は「ようこそ」と出迎えるようにそびえていました。

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# 10-5
毛無峠は標高1823m。雪深いこの地に行くことができるのは,5月末から11月中旬頃までです。峠は県境になっており,「群馬県」の看板の横には「危険につき関係者以外立入禁止」の看板がありました。普段はクルマは峠近辺に停めて,その先は歩いて行かなければなりません。
ジロー坂と呼ばれるつづら折りのダートを下りて,小串御地蔵尊手前の駐車場に着いたのは6時半頃。前日夜出発のぴすけんさん,廃猫さんが出迎えてくれました。二人は法要のテントの設営を手伝って,関係の方に「お留守番」をまかされたとのこと。日暮れまでの短い時間に武部さんと出かけた小串御地蔵尊は大きな石碑とともに綺麗に整備されており,片隅の変電所跡の廃墟と好対照でした。


# 10-6
私は軍艦島以来5年8ヶ月ぶりのキャンプで,武部さんは初めてとのこと。駐車場の隅にテントを張り終わった頃,あたりは闇になりました。4人で乾杯をして弁当を食べていると,ふたつぎさん,ウシロさんのクルマが到着。闇の中のテントの設営はなかなかたいへんです。
6人そろって乾杯をしたのは夜9時頃。心配された天候は,時折雲はかかるものの風も雨もなく,絶好のキャンプ日和です。雲が切れたときは天の川がはっきり見えるすごい星空の下,下界は梅雨の最中と思うととても贅沢なひとときです。調子よく飲んでいると,気圧が低いせいか闇のせいか,どんどんお酒が回ります。着込んでいても寒いぐらいになったこともあり,11時頃には宴はお開きとなりました。


# 10-7
翌23日(日)の起床は早朝4時半頃。天気は曇り時々晴。テントを抜け出して下界(嬬恋村)方向を見ると,一面に雲が立ち込めていて,雲から顔を出している高い山が島のように見えます。皆はまだ起きてきそうな雰囲気ではありません。
「まず学校跡を見てこよう」と,ジロー坂の手前の沢で水を汲んだ後,歩いた集落跡(一区)は,草に埋もれて道をたどるのがやっとでした。
坂を下りきり,見つけた屋根だけ残った建物は労組事務所跡とのこと。事務所跡の対面の大きなズリ山を登ると,右手に見下す形で学校跡を見つけることができました。しかし,学校跡方向の崖には大きな斜度があり,事務所跡まで戻らざるを得ませんでした。

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# 10-8
地盤が弱いためかふかふかした道なき道を歩き,学校跡に到着したのは朝6時20分頃。瓦礫ばかりの校庭にひとつ往時のままの姿で残っているのが回旋塔です。近寄ってみると,とても大きく感じられます。うろこ雲をバックにした回旋塔は,どこか神々しく見えました。
7時頃にはキャンプ地に戻り,朝食は三々五々で食べましたが,パンよりもカップラーメンのほうが暖かくて美味しそうでした。
法要の開始は朝10時。駐車場には受付が設けられ,少しずつクルマも増えてきました。「近場を見てみましょう」と出かけたのが,朝,沢の水を汲むため歩いた道の途中で見つけた火薬庫跡です。目立たない場所にあり,ぴすけんさんもこれまで気が付かなかったとのこと。


# 10-9
火薬庫跡の建物は2棟。丘をくり貫いた狭い敷地に建てられており,車道から入る道はトンネルになっていました。予想外の施設が見つかると,フィールドワークの雰囲気も盛り上がります。ふたつぎさんはウシロさんのナレーション付きでビデオカメラを回しています。
法要は,今年が七十回忌。受付でいただいた資料によると,法要に続いて「閉山35周年記念の思いでの集い」が行われるとのこと。来賓は,地元群馬県嬬恋村よりも,結びつきが強かった長野県須坂市,高山村の方が多い様子です。法要のお寺の所在は高山村,集団移転地がある緑ヶ丘も高山村です。往時の鉱山で過ごされた方,二世,三世と呼ばれるご子息の方に混じって,私達も焼香の列に加わりました。

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# 10-10
10時半頃に法要会場を後にして,戻った駐車場のクルマの数は約60台。無住の地で行われる鉱山跡の集いとしては大規模です。
到着してから16時間,いよいよ始まったグループでのフィールドワーク本番では,私は気候の心地よさからTシャツで出かけました。鉱山跡,集落跡は,法要の賑わいとは無縁の静けさで,途中出会ったのは,親戚が小串の学校の教師をしていたという年配の方(男性)一人でした。
ぴすけんさんの先導で,駐車場(往時の索道の起点)からズリ山(往時の鉱山の施設)のほうへ向かいました。錆びついた大きな鉄管が残っている辺りからズリ山にかけては,地面むき出しの荒涼・茫洋とした小串鉱山特有の風景ですが,現在,緑化が進められているそうです。

# 10-11
ズリ山の左手の坂を下りて,たどり着いた選鉱所跡はとても大きなコンクリートの施設で,往時の鉱山の規模を偲ぶことができました。地図で見るとズリ山の縁を回り込んだら,学校跡に到達できそうです。道なき道を慎重にたどり,沢を渡り草に埋もれた坂道を上がると,第三校舎跡の辺りに到着することができました。木造平屋建ての校舎は,取り壊されたというよりも,雪の重みなどでつぶれた感じでした。
小串小学校はへき地等級4級,児童数223名(S.34),閉校は昭和46年9月。へき地5級でないのは,商店や診療所等,集落の規模が大きく,必要な施設がひと通り揃っていたからだと思われます。学校跡では,廃猫さんは,記録に留める用のボイスレコーダーを回していました。

# 10-12
最後に,朝に単独で歩いたときには見つけることができなかった山神社を皆で目指しました。神社の辺り(二区と四区の間)は学校跡にほど近く,商店・マーケットや幼稚園もある集落の中心部だと思われるのですが,今は沢を渡る橋も失われています。昨年の秋,ぴすけんさん,ふたつぎさんが探索時に見つけたという山神社には,草に埋もれながらもしっかりと鳥居,狛犬,そして祠が残されていました。
約2時間半の探索では,強い日射しと照り返しのおかげですごい日焼けとなりましたが,これはありがたい誤算でした。昼食を食べてひとときくつろいだ後テントを撤収し,3台のクルマが現地で解散したのは午後2時半頃,まだ「思いでの集い」は続いている様子でした。

(追記1) 小串は同年10月15日(日),新潟・中越ツーリングの帰り道に再訪しました。ジロー坂もバイクで往復できました。

(追記2) 平成25年5月26日(日),7年ぶり三度目の小串には,長野県在住の唐沢和吉さん達と3名で出かけ,五区の職員クラブ跡まで足を運びました。



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