中越・廃村に出かけて農家民宿に泊まろう(1)

中越・廃村に出かけて農家民宿に泊まろう(1) 新潟県十日町市稲子平,大池,
____________________軽沢,慶地


高度過疎集落 大池(おおいけ)に残る学校跡校舎(現 私設美術館)です。



2006/10/13〜14 十日町市稲子平,大池,軽沢,慶地

# 13-1
平成18年最後の廃校廃村への旅(ツーリング)は,単独,2泊3日で新潟県を目指すことになりました。「学校跡を有する廃村」リストにおいて,新潟県の数(82か所,当時)は,北海道に次ぐ大きな数ですが,その様子はネット上ではほとんど記されていません。
地図で見る新潟県は,260kmにも及ぶ長くて単調な海岸線が印象的ですが,廃校廃村は中越の中山間部に集中しており,平成の大合併後の十日町市(旧十日町市,旧川西町,旧中里村,旧松代町,旧松之山町)には14か所もの廃村があります。この数は全国の自治体別の数ではトップクラスであり,埼玉県からの距離も比較的近いことから,十日町市近辺をターゲットとしました。

# 13-2
ところで,みなさんは「農家民宿」ってご存知でしょうか。農家民宿とは「農山漁村滞在型余暇活動のための基盤整備の促進に関する法律」で規定されたもので,「農林漁業者が,宿泊者に農山漁村滞在型余暇活動に必要な役務を提供する民宿」をいうようです。
私が農家民宿を知ったのは,2年ほど前のテレビ東京の旅の番組でした。過疎の地を旅して地域の方と話をするのを趣味とする私はすぐに興味を持ったのですが,「どこにあってどのようなものなのか」はわかりませんでした。ネットで検索したところ,十日町市池谷に「かくら」,津南町百ノ木に「もりあおがえる」という農家民宿が見つかったので,ここに泊まって農家民宿を体験することになりました。

# 13-3
旧十日町市の廃村は,信濃川左岸の丘陵地帯(魚沼丘陵)に4つ(稲子平,大池,軽沢,慶地)あります。「かくら」のある池谷の戸数は7戸(H.18)。かつてあった分校の規模の大きさ(児童数45名(S.34))を考えると,高度過疎集落に数えてもおかしくはありません。
大池の学校跡は,「ミティラー美術館」というインド民俗絵画を主とする私設美術館として活用されています。美術館の情報を調べていると,新潟県中越地震(平成16年10月23日)によって大きな被害を受け,存続が危ぶまれていたが,この7月22日に再開したとのこと。
ネットでは「大地の芸術祭」という地域を挙げた祭典の話がよく出てきました。会期は7月23日〜9月10日なので終わったばかりです。

# 13-4
新潟・中越ツーリング初日(10月13日(金)),南浦和出発は朝7時20分。天気は快晴。年休の取得は1日。関越道を六日町ICまで走れば,十日町市にはお昼前に着きますが,行程にこだわって渋川伊香保ICで下りて,国道(R.17)の三国峠を目指しました。
帰路は長野県飯山市から高山村,群馬県草津町を経由して,渋川伊香保ICに戻る予定です。この環状のルートで巡る予定の「廃校廃村」は全部で15か所(新潟県11か所,長野県3か所,群馬県1か所)。これほど数が多いと期待感も大きくなります。
三国峠の古いトンネルを越えて,湯沢町苗場についたのは午前10時45分。さわやかな高原の空気に,旅の始まりが実感できました。

# 13-5
南魚沼市六日町市街でラーメンを食べて一服し,国道(R.253)の八箇峠を越えて十日町市に入り,最初に目指した廃村は稲子平(Inagodaira)です。稲子平集落跡はR.253の孕石バス停から2kmほど入った浅い山の中にあり,里から気軽に通うことができそうです。
途中の道では「稲子平住民以外の山菜取り禁止」という新しい看板があり,その近くでは田んぼで農作業をされる方の姿が見えました。
標高470mの稲子平到着は午後1時15分。手入れされた家屋が3戸ほどあり,農作物を天日干しする年配の男性とおばあさんが居たので,ご挨拶をして冬季分校の場所を尋ねたところ,「川沿いにあったが今は雑草で埋もれとる」とのお返事をいただきました。


# 13-6
八箇小学校稲子平冬季分校はへき地等級1級,児童数20名(S.34),昭和48年閉校。年配の男性(阿部さん)とお話をすると,昭和49年の豪雪を契機に里へ下り,通いの耕作となったが,気候のよいときには今も稲子平の家に泊まることがあるとのこと。
のどかな雰囲気の稲子平を後にして,次に目指したのは,ミティラー美術館がある大池です(稲子平−大池間は7km)。途中の小集落 菅沼には,立正佼成会創設者 庭野日敬生誕地道場があり,大きな駐車場にびっくり。標高390mの大池は戸数3戸(H.18)の高度過疎集落で,美術館(学校跡)は大池という池のほとりにあります。広いグランドの奥には,補修された二階建て木造校舎が2棟建っていました。


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# 13-7
大池小学校はへき地等級2級,児童数94名(S.34)は新潟県の廃校廃村の学校の中でも最大級,閉校年は昭和57年。ミティラー美術館の開館翌57年5月。「ミティラー美術館」Webの「宇宙の森から文化を発信」という記事には,なぜ東京・浅草生まれの長谷川時夫館長が大池に移り住んだのか,なぜ大池にインド美術絵画なのか,私設美術館ならではのユニークな活動など,詳しく書かれています。
静かな美術館で絵画と古い校舎跡を見学し,大池の周りを探索すると,「森の自然をそのまま後世に残したい」という長谷川さんの意志が伝わってくるようでした。また,池から少し離れた大池集落にはわずかに人気があり,赤い火の見やぐらが青空にそびえていました。

# 13-8
静かで見所が多い大池を1時間弱で探索し,3つ目の廃村 軽沢(Karusawa)を目指して出発したのは午後3時10分(大池−軽沢間は6km)。軽沢は今の地図には地名も記されておらず,ミティラー美術館の館員の方に尋ねても「軽沢って聞いたことがない」とのこと。
「どんな場所なんだろう」と興味深々で狭い県道をバイクで走ると,四差路に「林道大平−軽沢線終点」という標柱を見つけました。周囲にはかまぼこ型で角がある屋根の木造二階建て作業小屋があり,そばにはアウトドアのセットが置かれていましたが,人気はまったくありません。刈入れされた田んぼもあったので,「どうやら軽沢集落跡に着いたらしい」という確信が持てました。

# 13-9
大池小学校軽沢分校はへき地等級2級,児童数21名(S.34),昭和48年閉校。軽沢(標高460m)と美女木(標高430m)の2集落が校区だった様子です。人気はなく,看板や碑,お地蔵さんも見当たらない軽沢で学校跡を見つけるには,古い地形図が役に立ちました。
県道から枝道に入ってしばらく歩くと,「これは学校跡に違いない」という草が刈られた広がりが見つかりました。脇にくず物が捨てられた門があったと思われる入口,正面奥の校舎に向かうコンクリートの階段など,わずかに往時を偲ばせるものが,学校跡の雰囲気を引き締めていました。また,広がり(校庭跡)の真ん中の焚き火の跡には「グランド内で物を燃やさないで下さい」という看板が立てられていました。

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# 13-10
続いて少し先,県道から地道に入った美女木も探索しました。美女木も廃村で,感じられた人気は籾殻を焼く煙ぐらいでしたが,いくつかの作業小屋があり,地道沿いには石碑があり,タイル貼りの風呂の浴槽が残っており、集落跡の匂いが強く感じられました。
陽が西に傾いてきたので急ぎ気味に宿がある池谷に向かうと,途中の過疎集落 三ツ山に絵に描いたような二階建て木造校舎がありました。
新座小学校三ツ山分校はへき地等級2級,児童数77名(S.34),平成3年より休校。十日町では,この分校跡の建物のように焼き板を横に張った壁の建物をよく見かけましたが,それは焼き板の防腐作用,建物の変形を防止する力が,雪国の気候によく合うからのようです。

# 13-11
宿がある過疎集落 池谷に到着したのは,暗くなる直前の夕方5時(軽沢−池谷間は11km)。「まずは分校跡」と集落の外れにバイクを走らせると,焼き板壁ではない二階建ての校舎が見つかり,その入口には「池谷分校 JENセンター やまのまなびや」という看板がありました。
飛渡第一小学校池谷分校はへき地等級1級,児童数45名(S.34),昭和59年より休校(平成16年閉校)。「かくら」に置いてあった「池谷・入山“宝探し”マップ」によると,JENは地域おこしのNPO法人で,「やまのまなびや」は震災直後の緊急支援,雪かきや農作業などのボランティアの拠点として活用されているとのこと。夕闇の分校跡には人気はなく,非日常的な一日の終わりによく似合っていました。


# 13-12
長く感じたこの日の走行距離は285km。この日の宿,農家民宿「かくら」はこの春開業したばかり。宿で迎えてくれたのは私と同世代の姉妹(近藤さん)で,賑やかになるのかなと思ったら,夜は十日町市街の家に戻られるとのこと。囲炉裏がある広くて整備された二階建て・戸建ての宿には私ひとりで貸し切りで,民宿というよりも貸別荘のような雰囲気です。仲間と来たときは,囲炉裏を囲むと楽しそうです。
お茶を飲みながら近藤さんに池谷の話を伺うと,この家に住まれていた池谷に生まれ育ったおじいさんは,高齢になって息子夫妻が暮らす東京に越されるとき,「空き家になるのは忍びない」と,親交がある近藤さんのお父さんに引き継いで行ったとのこと。

# 13-13
新潟県中越地震のことも伺うと,池谷でも田んぼが壊れるなどの被害はあったが,復興支援のボランティアが来るようになってから,集落の雰囲気が明るくなったとのこと。「うつむいて歩いてたおじいちゃんが,今は胸をはっている」という近藤さんの言葉は印象的でした。
復興支援でなじんだ都会の方の中には,雪かきや農作業のボランティアなどで繰り返し来られる方も多く,3年おきで三度目,震災後初めてという今年の「大地の芸術祭」は,前よりも賑わったとのこと。震災が地域の活性化のきっかけになったというのは,興味深い話です。
芸術祭のサブタイトル「越後妻有アートトリエンナーレ2006」で,私は妻有(つまり)がこの地域の広域名称であることを知りました。

# 13-14
近藤さんが帰られてから,紹介を受けた市街(下条)の和食のお店までは8km。クルマ(バイク)がなければ行くことはできず,「地方の暮らしはクルマ社会」ということも実感しました。夜の池谷では,明かりが灯った家は数軒しかなく,「廃れた村」という印象を受けます。
宿に戻って風呂に入ると,一日中バイクで走った疲れもあって,芋焼酎のお湯割りを少し飲んだだけで,午後10時前には就寝していました。
翌14日(土)の起床は朝6時。山村の宿に泊まると早寝早起きになりますが,山の朝の清々しさは気持ちのよいものです。「朝食の前にひとっ走り」と,昨日訪ねることができなかった4つ目の廃村(高度過疎集落)慶地(Keiji)を目指しました(池谷−慶地は5km)。

# 13-15
標高290m,戸数3戸(H.18)の慶地に到着したは朝7時。赤い屋根が印象的な神社の近くにバイクを停めて集落を歩くと,神社から枝道を下った先の家の前におばあさん(小宮山さん)の姿があったので,ご挨拶をして冬季分校の場所を尋ねたところ,「神社の敷地の中にあって,閉校後も公民館として使っていたが,先の地震で傷んでしまったのでこの夏に取り壊した」とのお返事をいただきました。
東下組小学校慶地冬季分校はへき地等級2級,児童数26名(S.34),昭和56年閉校。集落を一周した後,改めて神社を訪ねてみると,鳥居の左手にはガレキの山が残されていました。少し前まで建物が残っていたと思うと,残念なところです。

# 13-16
「かくら」に戻ったのは8時少し過ぎ。日当たりのよい庭の隅でパンとミルクの朝食をとっていると,ほどなく近藤さん(お姉さん)がクルマに乗ってやってきました。部屋に入ってコーヒーを飲みながら旅の話をしていると,昨日話題になった「胸を張るようになった」というおじいさんが軽トラに乗ってやってきました。大きな声のおじいさんで,私は静かに近藤さんとおじいさんの話を横から聞いていました。
近藤さんから「今日はこれから芋掘りするんだけど,一緒にどうですか」とのお誘いを受けたのですが,この後も別の廃村をめぐる予定が詰まっています。「成り行きを楽しめる旅もいいなあ」と思いつつ,先に出かける近藤さんとおじいさんに向かって手を振りました。

(追記) 十日町市内の冬季分校の閉校年は,十日町市教育委員会の方に教えていただきました。



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