朽ち果てた家屋と取り壊された家屋

番外 朽ち果てた家屋と取り壊された家屋 東京都奥多摩町峰,倉沢

かろうじて残っていた頃(平成19年12月)の「タイムマシンの廃屋」です。



2010/12/30 奥多摩町峰,倉沢

# 外-1
平成22年11月下旬,長い付合いのネット仲間,北海道在住の成瀬健太さんから,勤め先の事情でしばらく東京勤務になるとの連絡を受けました。「内地の廃村へ行ってみたい」という声に応えて,「久しぶりに行ってみようか」と思い付いたのが,奥多摩の峰(Mine)と倉沢(Kurasawa)です。
峰は「電車で行ける都内の廃村」として有名な廃村で,私も平成12年1月以来,計6回足を運んでいます。しかし,平成20年春頃,最後まで建っていた「タイムマシンの廃屋」が崩壊し,家屋はすべて朽ち果てたと耳にしています。倉沢は「雛壇状に社宅が並ぶ石灰鉱山集落跡」としてよく知られた廃村で,私も平成16年9月以来,計3回足を運んでいます。しかし,平成17年11月頃,10数戸残っていた家屋はすべて取り壊されたと耳にしています。

# 外-2
12月30日(木),天気は曇時々晴。JR立川駅で成瀬さんと待ち合わせたのは朝8時15分。年末も押し詰まったこの時期,電車の中は閑散としています。鳩ノ巣駅到着は9時32分,まずは急な傾斜の棚沢集落を歩きます。成瀬さんいわく「北海道には,こんな急傾斜の集落はないですよ」とのこと。
棚沢の分校跡,水道記念碑,民家の荷物運搬用モノレールを見て,川乗山・本仁田山の道標を確認し,しばし山道歩きです。
時折見られる木製電柱の切り株の説明などをしながら山道を上ると,歩き始めて30分ほどで大根の山の神がある峠に到着しました。驚いたことに,山の神の手前で止まっていた林道が,峠を越えて峰の方向に延びており,昔ながらの山道はなくなっていました。




# 外-3
林道の少し上方には,見慣れた峰部落の道標が転がっていました。林道を歩く気になれなかったので,おぼろげな道筋をたどりながら歩いていくと,視界が開けて福島文長(明治期,古里村の村長だった実力者)の屋敷跡の上手に到着しました。どうやら,かつて青梅の伊藤広光さんに教わった裏道を歩いたようです。峰集落跡到着は10時半頃。大根の山の神付近で使った予定外の時間を含めても,1時間弱で行くことができました。
いくつかの水がめが転がる広々とした文長屋敷跡を歩き,集められた墓石,古井戸などを見て回りましたが,その様子は以前訪ねたときのままでした。
文長屋敷跡は,集落跡の最上部。下りの道を進むと,朽ちた木材の上に黄色いビニール製の「おどうぐぶくろ」という往時の小物が落ちていました。

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# 外-4
日天神社にたどり着くと,いつになく森に明るさを感じました。近くには「平成21年度 森林再生間伐事業」の看板が立っており,明るさはスギが間伐されたからのようです。「扉が開くようですよ」という成瀬さんの声を得て神社の建屋の中を覗くと,奉名の札と掃除道具,ノートが見当たりました。
囲炉裏があった家屋は,母屋も離れもすっかり朽ち果てましたが,離れのがれきを覗く込むと,小さな樽のような風呂桶が形を留めていました。
ついに崩壊したタイムマシンの廃屋の姿を見ると,時が停まったような廃村の風景も,少しずつ変化することが実感できます。廃屋のがれきを覗くと,戦前の教科書や新聞を見ることができました。成瀬さんはそれらをしっかりと観察して,見終わると元に戻していました。

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# 外-5
1時間少しの峰の探索では,往時住まれていたという方とも出会いました。この方は,最後(昭和47年)まで峰(所謂無線技士の館)に住まれていた福島儀左衛門さんのご子息で,「小学校低学年の頃は棚沢の分校に通って,高学年からは駅まで下りて古里の本校まで通ったよ」とのお話を伺いました。
帰路の駅に向かう山道は,峠の200mほど手前で林道とつながっていました。クルマ社会とは無縁だった峰ですが,近々林道が通じるのかもしれません。
峠(大根の山の神)から先の下りの山道は,やや早足で鳩ノ巣駅に戻り,2駅電車に乗って奥多摩駅に到着したのは昼12時半頃。駅前のバス待合わせ室横のベンチで,日差しを浴びながらおにぎりを食べてから,東日原行き西東京バスに乗って倉沢を目指しました。

# 外-6
倉沢バス停到着は午後1時15分。バス停からは倉沢の大ヒノキの看板を目印に山道を上りますが,連続しての山歩きは歯ごたえがあります。
大ヒノキは素通りして,15分ほどで倉沢集落跡に到着すると,見慣れた坂和連さんが住まれていた家屋も取り壊されていました。
雛壇状石灰鉱山集落跡の様子を見にコンクリートの階段を上がると,家屋は綺麗に取り壊されて,破材が敷地に積まれていました。特徴がある共同浴場跡や食堂跡はすぐにわかり,「ここが共同浴場跡で…」と紹介しながら,「成瀬さんが単独で訪ねていたら,わかっただろうか」と思いました。そんな中,食堂跡にならぶカマドは,ここに食堂があったことを伝えるかのように,しっかりと残っていました。

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# 外-7
短期間(昭和13年頃から昭和40年頃まで)しか存在しなかった倉沢鉱山集落跡ですが,共同浴場や食堂,診療所跡などの敷地がはっきりわかるからか,その存在感は残っていました。集落最上部に屋根がある建屋が見つかり,「何だろう」と思って見に行くと,それは屋根付きの水槽でした。
水槽からは階段を下って,二階建ての家屋の敷地を横切り,神社のほうにも行ってみると,赤い寂しげな鳥居,境内の倒れた木製の祠は,以前訪ねたときのままでした。そんな中,鳥居の脇の小さなコンクリートの祠と苔むした仏さまには,どこかほのぼのとした空気を感じました。
倉沢の探索は1時間弱でしたが,その現況は十分に味わうことができました。帰り道では,大ヒノキにもご挨拶をすることができました。

# 外-8
直線距離だと5km少しの峰と倉沢ですが,ともに最寄りの駅,バス停から山道を歩かないと行けないということで,同時に訪ねたのは今回が初めてです。
家屋がすべて朽ち果てた峰,家屋がすべて取り壊された倉沢に足を運び,家屋があった頃の様子を知る私は「建屋が失われても,村跡は残る」と,新たな視点での様子を見ることができました。成瀬さんからは,「建屋があった頃に行ってみたかったですね」という声があがりました。
バスが奥多摩駅に戻ったのは午後3時18分。年末の慌ただしい頃ということで,「お疲れさま」のビールは駅近くの酒屋で調達し,青梅線の電車の中(奥多摩−青梅間)で飲みました。立川駅まで戻って,成瀬さんと別れた午後4時50分には,周囲はすっかり暗くなっていました。

(注) 「おどうぐぶくろ」,倉沢の共同浴場跡の画像は,成瀬さんにお借りしました。なお,成瀬さんは,翌年3月末,北海道に戻られました。



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