SLで 春に誘われ中越へ(2)

SLで 春に誘われ中越へ(2) 新潟県十日町市平見,田代,________________
______________________________柏崎市小田山新田,吉尾,蕨野,上越市峠

廃村 蕨野(わらびの)には,しっかりとした解村記念碑が建っていた



2013/5/25 十日町市(旧川西町)平見,田代,柏崎市小田山新田,吉尾,(旧柿崎町)蕨野,
上越市(旧柿崎町)峠____________________

[ 5/25 十日町市(旧川西町)星名新田,越ヶ沢, 5/26 群馬県嬬恋村小串 ]

# 3-1
平成25年5月 SL(230ccのオフロードバイク)で訪ねる新潟県中越の廃校廃村めぐり,2日目に訪ねる旧川西町には6か所の廃校廃村がある。今回は,平成18年10月に大倉,越ヶ沢,藤沢,霧谷を訪ねたとき「行きにくいことだろう」と思っていた田代,平見を目指した。
また,柏崎市には計10か所の廃校廃村がある。今回は「日本海に向かって走りたい」と思ったことから,海に近い小田山新田,吉尾と蕨野,上越市(旧柿崎町)に峠の4か所に的を絞った。2日目の宿は,津南町百ノ木の農家民宿「もりあおがえる」で,平成20年11月以来,4年半ぶり5回目。見積もり距離は200kmほどと計算した。

# 3-2
旅2日目 5月25日(土)の起床は朝5時頃。天気は晴。身繕いをして宿を出発し,まずは24時間営業のコンビニで,朝食などの買い物をした。五万地形図(松乃山温泉,S.43)を見ると,旧川西町の中心部と丘陵の境目には名前入りのお寺(長福寺)がある。長福寺から丘陵の尾根へと道が続いているので,尾根に出てから平見,田代に向かう予定を立てた。途中,分校がなかった星名新田と再訪の越ヶ沢にも立ち寄ることにした。
曹洞宗龍雲山長福寺は,応永15年(1408年)に開かれたという由緒がある。バイクを停めて広い境内のブナ林を散歩していると鐘が鳴ったが,なぜか軒先に吊るされた鐘は建物の中で突かれていた。

長福寺に立ち寄ってから平見を目指す

# 3-3
長福寺の上手にある灌漑用ダム(長福寺ダム)を見下ろす場所で,ヤマフジの写真を撮っていると,ヘルメットをはずしてかぶる作業が邪魔くさくなった。スピートは出せない山中の道,「まあいいか」と右ミラーにヘルメットをかけて,しばらくノーヘルで走ることになった。
丘陵の尾根道は走りやすく,時々農作業や山菜採りの方のクルマが通り過ぎる。最初の目標,平見(Hirami)の分岐には鎖が施されていたが,「お邪魔します」と断って先へと進むと,やがて見晴らしが良くなり,広々した棚田に到着した。ここで道は怪しくなったので,二万五千図(岡野町,H.19)で位置関係を把握して枝道の枝道に入ると,古い納屋と農作業をされるおばあさん(H子さん)の姿が見当たった。

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平見では,古い納屋と農作業をされるおばあさんに出会った                 タイル張りの浴槽に山水が溜められていた     .

# 3-4
千手小学校平見冬季分校は,へき地等級2級,児童数3名(S.34),昭和21年開校,昭和37年閉校。集落の離村は昭和47年。H子さんにご挨拶をしてお話をうかがうと,「平見は「平見八軒」と呼ばれる歴史のある隠れ里のような村で,私が嫁いで来た頃はクルマの道はなかった」とのこと。あわせて「冬季分校は納屋の手前,白いヤマフジが咲いているあたりにあった」,「高度成長期,町からの要請で解村になった」など,いろいろ教えていただいた。
Hさんが耕す小さな畑のそばには,山水を溜める用に古いタイル張りの浴槽が使われていた。そのうちに棚田で農作業をされていたご子息が来られて,「昔からの村の神社も見ていくとよい」と,山に少し入った神社の場所を教えていただいた。

# 3-5
山深くの平見で村の方とお話ができるとは思わず,意外な展開が嬉しかった。そして,ノーヘルだとご挨拶しやすくなることが,経験的にわかった。
次の目標 星名新田(Hoshina-shinden)は,R.252の北側,越ヶ沢トンネルの上を越えてすぐの場所にある。分岐には「地権者・耕作者以外の通行を制限します」という看板と鍵がついた鎖が施されていたが,「悪いことはしません」と断って,脇を通り抜けるという,バイクならでは技を使った。
棚田がある集落跡をどんづまりまで走ると,平地の真ん中に「星名新田趾」と刻まれた離村記念碑が建っていた(昭和53年建立)。碑には「安政6年(1859年)に開かれ,以後110余年を経て,5戸が里地に転居のやむなきに至り,昭和47年閉村となる」との旨,記されていた。

平地の真ん中に堂々と立つ「星名新田趾」の碑

# 3-6
山深くの小さな枝村に残る立派な碑は,存在感があった。星名新田では地域の方には出会わなかったが,そのことは緊張感を高めたようだった。
次の目標 田代(Tashiro)にも,丘陵の尾根道から向かった。田代への分岐にも「地内の山菜採り ご遠慮願います」という看板と立入禁止のコーンがあったが,「そこを何とか」と断って通過した。尾根道から下るダートが荒れ気味なことから,信濃川方面から上がる道がメインではないかと想像した。
集落跡の手前には棚田があって,手作業で田植えをする地域の方3名(男性)と遭遇。お話をうかがうと,会社仲間の一人が田代出身で,定年後趣味で米作りを始めたとのこと。折りたたみ椅子があって,愛犬がお供するその雰囲気は,確かに趣味という感じがした。

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田代で田植えの方と話していると,イヌがご挨拶に来てくれた              仏様,二十三夜塔が伴っている「田代趾」の碑    .

# 3-7
「少し先に行けば,記念碑がある」と教えていただいたおかげで,進む足取りは軽やかになった。上野小学校田代冬季分校は,へき地等級1級,児童数5名(S.34),昭和18年開校,昭和37年閉校。集落の離村は昭和42年。平地の一角には「田代趾」(平成4年建立)が建っており,碑には「万治〜寛永年間(1658〜1673年)に開かれ,以後300年,一時は10戸を数えたが,時代の流れに押されて,昭和42年閉村となる」との旨,記されていた。
平地には仏様,二十三夜塔があって,チューリップが植えられており,田代は思ったよりも賑やかな廃村だった。戻り道ではお墓が見当たったので,バイクを停めてご挨拶にいくと,往時からの六体並んだお地蔵さんが迎えてくれた。

# 3-8
尾根道に戻り,次の目標 越ヶ沢(Koshigasawa)への分岐で「通れるだろうか」と迷っていると,軽トラに乗ったおじいさんがやって来て,「大丈夫だよ」と言ってダートをすいすい進んでいった。越ヶ沢は平成18年10月に訪ねているが,R.252よりも北側のほうに足を運ぶのは,今回が初めてだ。
軽トラから距離を置くべくゆっくりダートを進むと,「いかにも集落跡」という場所に到着した。ちょうど先のおじいさんが軽トラから降りられていたので,ご挨拶をしてお話をうかがうと,「ここは越ヶ沢集落跡の一部で,自分を含め2人が通作している」とのこと。「昔はこれが上野から仙田へと続く道だったが,今は仙田への道は通れなくなった」とも言われていた。

越ヶ沢北部近辺の道は,こんな感じの細いダートが続く

# 3-9
中仙田小学校(のち仙田小学校)越ヶ沢冬季分校は,へき地等級1級,児童数19名(S.34),大正13年開校,昭和49年閉校。集落の離村は昭和60年。二万五千図(岡野町,S.44)には,北側の越ヶ沢と南側の越ヶ沢の真ん中あたりに文マークと鳥居マークが記されており,新しい二万五千図(岡野町,H.19)と見比べると,それぞれR.272のすぐそばにあって,鳥居マークはそのまま残っていた。
R.272に向かってダートの道を下りながら,神社へ続く道を探したが,心当たりは見つからなかった。R.252までたどり着き,特に文マーク付近をしっかり見たが,気配は感じられなかった。もしかすると,ちょうど道(R.272)になったのかもしれない。

# 3-10
平成18年10月に訪ねたときは,南側の越ヶ沢で「ここが分校跡」と伺った場所があり,分校は移転があったのかもしれない。また,越ヶ沢バス停は廃止されたみたいで,なくなっていた。ノーヘルでバイクを走らせた旧川西町の廃村探索,4か所をまわるのに3時間半かかった。
次の目標 小田山新田(Kodayama-shinden)は,越ヶ沢からおよそ25km。高規格で交通量が少ないR.252は,バイクを走らせるにはとても快適だ。柏崎市に入り,鯖石でR.252から枝道に入り,産廃処理場を横目に進むと,「柏崎ぶどう村ワイナリー」という樽で作った看板が見当たった。ちょうど小田山新田に入ったあたりだったので立ち寄ってみると,建物は閉ざされていて,「施設は平成19年に破たんした」との旨の紙が貼られていた。

# 3-11
小田山新田集落跡は「柏崎ぶどう村ワイナリー」の看板から500mほどの場所にあり,往時からの土蔵と大きな家屋が残されていた。家屋のそばにはクルマが停まっていて,農作業をされていた方(年配の男性)が居たので,ご挨拶をしてお話をうかがうと,「昭和39年からここで暮らしたが,市街に近いわりに雪が深いことから,12戸あった家々は個々に里へと下りた」とのこと。角川日本地名大辞典には,小田山新田の無住化は昭和53年と記されている。
上条小学校小田山新田冬季分校は,へき地等級1級,児童数19名(S.34),昭和6年開校。閉校年は不明だったが,今回「冬季分校は集落入口の左側にあって,昭和39年から5〜6年は開校していた」とうかがえたことから,昭和45年頃と推定することができた。

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小田山新田には往時からの土蔵と大きな家屋が残されていた                小田山新田で見かけた昔ながらの脱穀機      .

# 3-12
歩いて集落跡を探索したところ,分校跡の痕跡は見当たらなかったが,家跡に浴室や昔ながらの脱穀機を見つけることができた。ツーリングマップでは市街地の延長線にに見える小田山新田は,丘陵の奥深く,冬は雪に閉ざされる廃村だった。
小田山新田から日本海(鯨波)まではおよそ15km。時間はちょうどお昼時,R.8沿いに「地魚」というのれんがあがったお店があったので,昼食はここに入ってにぎり寿司を食した。少し進んだところにあるJR青海川駅は,海のすぐそばにあることで有名な無人駅。新しい駅舎は,中越地震の翌年(平成17年3月),被災した旧駅舎に替わって造られたものとのこと。

海のすぐそばにあるJR青海川駅を高台から見下ろす


# 3-13
次の目標 吉尾(Yoshio)は,青海川駅からおよそ8kmの山中にある。駅でヘルメットを外し,右ミラーにかけて再びノーヘルで川沿いの道を上った。
途中,谷根(Tanne)の上米山小学校跡(平成22年閉校)は,特養老人ホームとして活用されていた。ノーヘルだと,地域の方に「吉尾はこちらですか」と声をかけるときもスムーズだ。3戸の小集落 小杉(Kosugi)では,シャボン玉を吹く小さな女の子とお父さんが居て,思わず笑顔でご挨拶。
車道のどん詰まり,「米山登山口 吉尾コース入口」という看板がある吉尾にたどり着いたのは午後12時58分。「吉尾之碑」と刻まれた離村記念碑の傍らには,地域の方が造られた「おおいわも路辺の小石もそのままに 廃墟となりしふるさとの村」という小さな碑が寄り添っていた。

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 「吉尾之碑」と刻まれた離村記念碑           傍らには,地域の方が造られた小さな碑が寄り添っていた


# 3-14
「吉尾之碑」の建立は昭和57年10月で,集団離村と同じ時期。住宅地図(柏崎市,H.24)を見ると,集落跡には法興寺というお寺だけが残っていて,二万五千図(柿崎,H.14)には「吉尾」という地名は記されていない中,卍マークと鳥居マークが並んでいる。
どんな様子か見にいくと,法興寺は大きなお寺で,雪囲いを外したばかりの様子だった。お寺から神社を目指して歩道を進むと,やがて行止まりとなった。そばの畑で農作業をされる地域の方(年配の男性)に出会ったので,ご挨拶をしてお話をうかがうと,「神社はこの道沿いにあったが,ずいぶん前に移転した」とのこと。また,「分校跡は離村記念碑の反対側枝道のいちばん奥にあって,建物の入口跡が残っている」と伺うことができた。

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  吉尾・法興寺は雪囲いを外したばかりのようだった             分校跡には,建物の入口跡らしいコンクリの段が残っていた

# 3-15
上米山小学校吉尾分校は,へき地等級1級,児童数15名(S.34),昭和24年開校,昭和44年閉校。二万五千図(柿崎,S.44)には文マークは記されておらず,喜んだことはいうまでもない。たどり着いた分校跡には,とても地味ながら建物の入口を示すコンクリの段が残っていた。
吉尾では「調べ物ですか」と声をかけた方がいて,お話をすると,横浜から来られた方で,「定年後暮らせる場所探しをしている」とのことだった。
次の目標 蕨野(Warabino)は,二万五千図(柿崎,H.14)を見る分には吉尾から歩道で1km足らずの場所にある。ただ,廃村を結ぶ点線の道は通じているとは思えず,訪ねたところ案の定だった。このため,吉尾からの蕨野行きは,小杉まで戻って海沿いのJR笠島駅を経由して回り込むルートを選ぶことになった。

# 3-16
笠島駅で缶ジュースを飲んで一服した後,ヘルメットをかぶって上輪新田(Kamiwa-shinden)から蕨野に向かおうとしたが,道がよくわからない。しかたがないので,さらに迂回してR.8に入って米山トンネルをくぐり,メインの米山登山口がある大平(Oodaira)から蕨野へと向かうルートを選んだ。
大平−蕨野間の道は,二万五千図では実線だが,バイクがやっと通れるというぐらいの狭さと荒れ方で,大半はダートだった。吉尾から回り込んでおよそ20km,何とか蕨野に到着したのは午後3時だった。
三差路そばに建つ黒い離村記念碑(平成9年建立)には,14戸の家屋と神社が載った住居図とともに「蕨野部落跡地 昭和47年11月解村」と刻まれていた。

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 蕨野の解村記念碑には,住居図が記されていた        田畑がない蕨野には,廃村らしい風景が広がっていた       .

# 3-17
上輪小学校蕨野冬季分校は,へき地等級1級,児童数15名(S.34),昭和32年開校,昭和46年閉校。分校は,記念碑の住居図には刻まれていなかった。
歩いて集落跡を探索すると,一軒だけ人の気配がする古い家屋があり,クルマも停まっていたが,家の方には出会えなかった。二万五千図(柿崎,H.14)に鳥居マークがあって,離村記念碑に刻まれている神社(元神社)に足を運ぶと,何かの台座が見つかったが,そこが神社跡かどうかははっきりしなかった。なお,上輪新田,蕨野には「旧柿崎町の飛地が平成元年に柏崎市に編入された」という変わった歴史をもっている。
今回訪ねた中越の廃村では,田畑があるところが多く,季節がら出会いにも恵まれたが,蕨野には田畑はなく,廃村らしい風景が広がっていた。

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        蕨野・神社跡付近で見つかった何かの台座             解村記念碑前で,SLと一緒に記念写真を撮る

# 3-18
蕨野からは上輪新田に向かう道をノーヘルで下ると,途中に石材会社の砕石工場があった。上輪新田からこの道で蕨野に向うのは難しいことだろう。
この日最後の目標 峠(Touge)は,R.8を柿崎市街まで出て,小村峠を越えて,柏崎市鯖石の方向に戻る道の途中に所在する。峠集落跡は小村峠頂上部にあって,二万五千図(越後野田,S.43)では「峠」という集落名を挟んで,柿崎側はなだらかな実線の道があるが,柏崎側は急な点線の道しかない。二万五千図(越後野田,H.19)では集落名は消えていて,柿崎−小村峠−柏崎は二重線の道となっている。
柿崎市街から柿崎川ダムを越えて小村峠まではおよそ18km。冬季は閉鎖されるという県道は,走りやすかったけれど,かなりの距離を感じた。

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峠・タイル張りの浴槽が県道のすぐそばにあった             峠集落跡で見当たった整った往時の蔵          .

# 3-19
黒岩小学校峠冬季分校は,へき地等級3級,児童数11名(S.34),明治31年開校,昭和57年閉校。小村峠頂上部には県道と枝道の三差路があり,往時のタイル張りの浴槽がある家跡からは市境の看板が見えた。峠から見下ろした柏崎側の景色は,広々としていて爽快だった。
集落跡には田んぼがあり,整った往時の蔵も見当たったが,地域の方には出会わずじまいだった。探索しているうちにクルマが停まって,私と同じぐらいの年配の男性が降りてきたが,私と同じく旅の方らしく,ご挨拶をしても話が広がることはなかった。
峠から津南町百ノ木までは,およそ70kmが1時間半。この日の走行距離は195km。宿には,明るいうち(夕方6時10分頃)に到着することができた。

思いがけず訪ねた小串五区・職員クラブ跡の二階に上る階段

# 3-20
旅3日目 5月26日(日)の起床は朝5時頃。天気は晴。百ノ木から浦和への帰路は,群馬県嬬恋村の鉱山関係の廃村 小串(Ogushi)に立ち寄るため,秋山郷,秋山林道,奥志賀林道,志賀高原,R.292渋峠,万座温泉を経由する山岳ルートを選んだ。
小串行きの目的は,「廃村」第7集用の御地蔵堂と回旋塔の写真を撮ることだったが,小串に詳しい長野県在住のネット仲間 唐沢和吉さんと合流して,3人組で出かけることになったことから,思いがけず五区(最奥部)の職員クラブ跡まで探索することができた。これはありがたい誤算だった。
小串から万座ハイウェイ,R.145,渋川伊香保ICを経由して,浦和へ戻ったのは夜9時20分。この日の走行距離は300km(うち一般道は205km)となった。



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