荒天で旅は中断 上越路

荒天で旅は中断 上越路 新潟県糸魚川市雨池,角間,東谷内

廃村 角間(かくま)には,萱葺き屋根の廃屋が残っていた



2013/10/15 糸魚川市(旧青海町)雨池,(糸魚川市)角間,(旧能生町)東谷内

# 5-1
平成25年10月,飛騨・富山・上越方面ツーリング(3泊4日)は,台風26号接近のため,行程を一時中断するという異例の展開となった。乗り始めて24年目の250ccのバイク BAJAでのツーリングでも初めてのことだ。4日目(10月15日(火))の起床は未明5時。まだ雨は降っていない。台風の影響を考慮しつつも,午前中は上越の廃村を3か所めぐり,長野県飯山市在住の知人宅にバイクを置かせていただき,鉄道で飯山から浦和へ帰る予定を立てた。
まず最初に,新潟県に入ってすぐ,旧青海町の戦後開拓集落 雨池(Amaike)を目指した。富山県朝日町境の宿「地中海」出発は午前5時50分頃。R.8で県境を越えて,洞門が続く親不知を過ぎて,外波という小集落に入り,雨池にはそこから林道を5kmほど上がった場所にある。

R.8で県境を越えて,洞門が続く親不知を走り過ぎる

# 5-2
五万地形図(泊,S.45)には,雨池で行止まりの林道が記されている。Web版二万五千図(親不知,H.20)で見比べると,道筋は同じだが,雨池から山を結んで上路や橋立へと抜ける道が記されている。曇り空の下,整備された林道を走り,雨池に到着したのは朝6時55分。集落跡は,雨池(池の名前)を中心とした「グリーンパーク親不知」という森林公園になっていたが,もちろん人の気配は皆無だ。
歌外波小学校雨池冬季分校は,へき地等級2級,児童数10名(S.34),昭和27年開校,昭和36年閉校。五万地形図に文マークはないが,池の周りに田んぼがあって,数戸の家屋が記されている。公園とその周囲を探索すると,朽ちて倒れた家屋跡やブロックの家屋基礎が見つかった。

雨池・朽ちて倒れた家屋跡が見つかった

# 5-3
雨池に続いては,糸魚川市の農山村 角間(Kakuma)を目指した。途中,青海市街のコンビニで焼きたてのパンを購入,糸魚川市街の海辺で食し,R.8からはJRの駅がある梶屋敷で分かれた。早川沿いの笹倉温泉で行止まりの県道沿いは古い店があったりで,意外に生活感が強かった。
角間入口の目印の音坂交差点は梶屋敷から9kmだが,郵便局や小学校が普通にあった。音坂から角間までは3km。早川を渡るまでは田園風景が続いた。川を渡り角間へ向かう小道に入った途端,雰囲気が一転,あたりは山の空気に包まれた。早川を渡ってから1.5km。視界が開けてトタンをかぶった屋根の古い家屋が眼に入り,角間に到着したのは午前9時頃。「集落に着いた」感じはしたが,人の気配はなく,クルマも見当たらなかった。

角間・風格がある熊野神社の祠

# 5-4
西山小学校角間冬季分校は,へき地等級1級,児童数32名(S.34),大正4年開校,昭和43年閉校。五万地形図(糸魚川,S.44)には文マークは記されていない。バイクを停めて,枝道を歩いてたどり着いた神社(熊野神社)は,風格があるもので,神社の先,坂道を下った場所には萱葺き屋根の家屋が残されていた。
集落の奥,上角間には新しい作業小屋があって,地域の方が二人いたのでご挨拶。うちKさん(おそらく60代の男性)は上角間出身の方で,定年までは東京で勤められていて,今年作業小屋を建てられたとのこと。今も家は東京の練馬にあって,「角間には高速を使って通っている」と伺った。

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      上角間に建つ真新しい作業小屋                      神社の真正面に分校跡の目印の水槽が見つかった

# 5-5
Kさんとの話の中で「冬季分校はどこにあったのですか」と尋ねたところ,「下手のほうに神社があったじゃろ。あの向かいの平地が分校跡じゃ」と教えていただいた。再び神社を訪ねたところ,目印の水槽が神社の真正面に見つかり,分校跡を特定することができた。「地域の方との出会いはとても大切だなあ」としみじみ思うひとときだった。
角間に続いては,糸魚川の東隣,旧能生町の農山村 東谷内(Higashitaniuchi)を目指した。角間がある早川の谷から東谷内がある能生川の谷までは,R.8(海沿い)に戻らずに入山吹原林道を走った。能生川の谷の県道に着いて少し進むと,東谷内への三差路を示す大きな看板が見当たった。

# 5-6
手前の集落(川詰)から東谷内までは3km。なだらかな坂をゆっくり上がっていくと三差路があって,左側の道を選んで走ると,ほどなく大きなトタンをかぶった屋根の古い家屋が眼に入り,東谷内に到着したのは午前11時頃。集落には田畑があり,橋を渡るとすぐにクルマが見られたので,ここでバイクを停めて,探索を開始した。
川内小学校東谷内冬季分校は,へき地等級2級,児童数14名(S.34),明治16年開校,昭和53年閉校。五万地形図(高田西部,S.44)には文マークも鳥居マークも記されていない。幸い,畑で作業をされる地域の方(H子さん、おそらく70代の女性)と出会うことができた。

# 5-7
ご挨拶をしてお話をすると,H子さんは東谷内出身の方で,近くの集落から通いで来られているとのこと。そばには大きな家屋が,かつて住まれていた家なのだろうと想像した。冬季分校のことを尋ねたところ,「分校は集落入口の三差路で右側の道に行って,坂を上がっていったところにあった」と教えていただいた。
大きなトタンをかぶった屋根の古い家屋まで戻って様子を見た後,右側の道をたどったが,分校跡を特定できる目印はなく,閉ざされた家屋はあるものの地域の方には出会わなかった。集落のはずれに家屋跡の敷地にバイクを停めて歩いてみると,草むらの中にタイル張りの浴槽が見つかった。

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東谷内・大きなトタンをかぶった屋根の古い家屋が建っている            家屋跡の敷地に狭いタイル張りの浴槽が見つかった   .

# 5-8
分校跡の特定はできなかったが,タイル張りの浴槽を集落のなごりと考えて,東谷内(つまり3泊4日分)の探索を終えることにした。
昼食休みは中能生小学校近くの地域のラーメン店でとり,能生市街からは長野県飯山市を目指して淡々と走ると,旧新井市郊外あたりから雨が降り始めた。R.292で雨の富倉峠を越えて長野県に入り,飯山市街に到着したのは午後2時25分。怪しい天気の中,178km走り切ったが,ここまでが精一杯だった。
佐藤長治さんとお会いするのは「集落の記憶」沓津(Kuttsu)の取材以来,1年半ぶり。1時間ほどお話しした後,北陸新幹線の駅の建設が進むJR飯山駅から飯山線,長野新幹線,京浜東北線と乗り継いで,荒天の南浦和に帰り着いたのは夜8時頃だった。



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