コンターサークルで石勝樹海ラインの廃村へ

コンターサークルで石勝樹海ラインの廃村へ 北海道むかわ町大和炭鉱,長和,
__________________ ____________________________________新登川,福山

廃村 新登川(しんのぼりかわ)の学校跡に残っていた木製の標柱です。



2014/5/25 むかわ町(旧穂別町)大和炭鉱,長和,新登川,福山
[ 夕張市鹿島,鹿島千年 ]

# 10-1
堀淳一先生の本を読むと,複数のメンバーでフィールドワークされている場面がたびたび登場する。このサークルを「コンターサークル」と呼ぶことを知ったのはいつのことなのだろう。「コンター」とは等高線のことで,地図を見ること,地図ゆかりの旅をすることを示す言葉のようだ。
平成26年5月下旬,北海道2泊3日の旅では,コンターサークルの本拠地 北海道 春のフィールドワークに参加することになった。4月に届いたサークルの旅のスケジュールには「5月25日(日) 旧穂別町豊進・長和・炭坑跡その他遺跡をさぐる」と記されている。旧穂別町長和・新登川は,平成12年に盟友 廃屋の猫さんから写しをいただいた堀先生のエッセイ「長和 廃村」に取り上げられており,私が参加するにはこれほどよい機会はない。

# 10-2
5月25日(日),起床は朝6時頃,天気は晴時々曇。サークルの集合はJR新夕張駅9時56分。まずウインデーさんの提案で,予定にはなかった夕張市鹿島(Kashima)に立ち寄ることになった。鹿島はこの3月に夕張シューパロダムが竣工して,炭鉱町の跡に水が入ってきたばかり。ウインデーさんからは「廃村めぐりをしているなら,この時期の鹿島には行かなきゃいかんでしょう」と声がかかった。言われてみると,確かにその通りだ。
ニタッポロ荘出発は朝7時頃。メンバーはウインデーさんと小学4年生の息子さん(爽介くん),keiko(妻)と私。清水沢,南部を過ぎ,トンネルを抜けるとシューパロ川は湖になっており,白銀橋は水没して見えなくなっていた。

湖畔の展望所で見かけた鹿島東小学校の閉校記念碑

# 10-3
夕張東高校跡を使ったという湖の展望所には,鹿島ゆかりの碑が並んでいて,このうち鹿島東小学校の閉校記念碑は初めて見るものだ。「昭和53年3月建立」と刻まれたこの石碑,これまでどこかに保存されていたのだろうか。
鹿島小学校跡に立ち寄ると,小学校と中学校の碑は展望所に移転して,「ふる里大夕張の碑」だけが残されていた。小学校跡からR.452の旧道に入って,千年町の入口に立つ鹿島キリ助(キリンのオブジェ)にご挨拶。満水になったらこの辺りまで水が来るようだ。千年町のメインストリートをゆっくりクルマで走ると,「来たばかり」という感じの湖水に行く手を阻まれ,鹿島東小学校跡には行くことができなかった。

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湖水が入ってきたばかりの千年町のメインストリート                  地下通路が残る明石町駅跡(人物はkeiko)    .

# 10-4
R.452の旧道に戻っていちばん南側にあった明石町に向かうと,旧道にも湖水が来ていて,明石町中心部にはたどり着けなかった。しかし,少し高い場所にある三菱大夕張鉄道跡のサイクリング道は残っていて,明石町駅跡にはたどり着くことができた。ホームから線路をくぐる地下通路も埋もれながらも残っており,「往時を偲ぶ場所として保存できないかな」と思った。ただ,満水時には駅跡にも水が来るようだ。
1時間ほど鹿島を探索した後は,南部の南大夕張駅跡に保存されている往時の客車を見に行った。鉄道の全線廃止は昭和62年。その後,保存会の方々に守られ,近代化産業遺産として目を引く存在となっている。

# 10-5
新夕張駅にローカル気動車で堀淳一先生が到着されて,フィールドワークのメンバーが揃ったのは午前10時。メンバーは堀先生,マシオさん,Sさん,Nさんと私達4名で計8名だから,なかなかの大人数だ。
クルマ2台で,まずR.274(石勝樹海ライン)沿い,旧穂別町でいちばん夕張寄りにある大和炭鉱(Daiwa-tankou)を目指した。五万地形図(紅葉山,S.36)には心当たりの場所に2か所集落があって,「せきたん」とは記されているが,集落名や文マークは記されていない。R.274には,豊進橋,大和橋などの名前が出てくる。大和とは,炭鉱会社の名前(大和鉱業稲里炭鉱)で,学校名もこれに由来している。

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大和小学校跡の石碑は,皆では行けない場所に立っていた            言われてみると「学校跡なのかな」という感じがする平地 .

# 10-6
稲里小学校大和分校(のち大和小学校)は,へき地等級3級,児童数79名(S.34),昭和34年開校,昭和43年閉校。ウインデーさんが「ここです」とクルマを停めたのは,道端の小さな駐車スペースで,これという目印は何もない。しかも,国道と学校跡の間には川が流れていて,渡る橋は架かっていない。そのため,現地まで行けたのはウインデーさんと私の二人だけ。残る6名は,川向こうから探索の様子を見守ることになった。
川を渡り,草をかき分け見つけた石碑のそばには,木製の標柱が残っていた。石碑には「開町70年町制施行20年記念 昭和57年」と刻まれており,木製の標柱はそれより古そうだった。石碑と標柱のおかげで「ここに学校があった」ことはわかったが,日の目を見る機会はごく稀なことなのだろう。

# 10-7
次に目指した長和(Osawa)は,R.274よりも北側の穂別川上流の谷に広がる農山村で,穂別ダム建設(昭和60年竣工)に伴い廃村となった。
長和小学校は,へき地等級3級,児童数59名(S.34),明治40年開校,昭和51年閉校。学校跡はむかわ穂別IC入口の敷地になっており,門柱と体育館跡,そばには開基70周年記念碑,神社が残っている。前回訪ねた平成24年GWは小雨だった,今回は心地よい晴天,神社の参道を上って祠にご挨拶した。
堀先生が「長和 廃村」で長和を訪ねられたのは平成7年7月のことで,神社については「鳥居だけが残っていて,社殿は消え,そのあとは森だった」と記されている。このことを堀先生に尋ねると「あの時は草でいっぱいだった」とのこと。やはり,春と夏では大きく雰囲気が変わるもののようだ。

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長和・開基70周年記念碑(奥の右側はむかわ穂別IC)              長和の神社(奥穂別八幡宮)には祠が残っていた .

# 10-8
3番目に目指した新登川(Shinnoborikawa)は,長和よりもさらに奥,穂別川最上流部行止まりの場所にある炭鉱関係の廃村で,地内にはJR石勝線(昭和56年開業)が走り,東オサワ信号場がある。石勝線が工事中の頃は,新登川駅が開設される予定だったが,人口が希薄になり信号所の開設に留まったとのこと。信号場のすぐそばには1軒の農家があったが,近年転居され,家跡はガレキになっていた。
新登川小学校は,へき地等級4級,児童数29名(S.34),昭和21年開校,昭和45年閉校。五万地形図には「新登川」の集落名とともに文マーク,「せきたん」が記されている。新登川炭鉱は昭和21年開鉱,昭和29年閉山。小学校跡のそばでも,炭鉱の施設らしきコンクリの建造物が見られた。

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東オサワ信号場から農家跡を見下ろす(人物はウインデーさん親子)         新登川小学校跡の石碑は,皆で行ける場所にあった     .

# 10-9
新登川小学校跡の石碑は,大和小学校跡と同じ形のものだったが,皆で行ける場所にあったので,建物の基礎を椅子としてここで昼食休みをとった。石碑の後方には,大和小学校跡と同じ形の木製の標柱の一部が残っていた。「長和 廃村」には,屋根が山型になった別の標柱の写真が載っていて,石碑・標柱の多さには驚かされる。学校の少し手前にあった商店跡の家屋もガレキになっていたが,犬小屋が姿を留めていた。
最後に目指した福山(Fukuyama)は,R.274沿い,占冠寄りにある。「炭坑跡その他遺跡をさぐる」の範疇に入るかどうか微妙だ,この機会に行けるのはありがたいことだ。福山の古名称は居路夫(Ororoppu),R.274には,福山橋,オロロップ橋などの名前が出てきた。

# 10-10
福山に到着したのは午後2時10分。GS,商店,ラーメン店はすべて閉ざされているが,自動販売機は稼働していて,広い駐車場には数台のクルマが「ちょっと一服」と停まっていた。五万地形図(日高,S.37)には鵡川沿いに文マーク,「福山」という集落名が記されているが,R.274は記されていない。
かつてはクロム鉱山(八幡鉱山)や林業で栄えた福山だが,過疎の進行により,R.274が開通した平成16年頃には5戸の高度過疎集落になっていた。
福山小学校は,へき地等級5級,児童数88名(S.34),大正10年開校,昭和56年閉校。駐車場の先には広場があって,ウインデーさんによると「ここが学校跡じゃないかな」とのこと。私はピンと来ないので,keikoと二人で数戸の家々が建つ人の気配が薄い集落のほうへと歩いていった。

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福山・小学校跡と勘違いした駐車場前の広場(人物は堀先生)         Fさんに教えていただき,keikoと二人で訪ねた福山小学校跡 .

# 10-11
農作業をされる方(年配の男性,Fさん,穂別市街在住)と出会えたので,ご挨拶をして様子を伺ったところ,「学校は広場の奥にあったが,校舎は取り壊された」,「今,福山に住むのは1戸だけ」など,お話をうかがうことができた。「学舎の風景」Web(管理者piroさん)には石積みの門柱,校舎,体育館など,多くのものが残る学校跡の画像が載っている(平成20年5月)。しかし6年経って,学校跡はマツの並木が残るだけになっていた。
ウインデーさんは「あのラーメン屋には入ったことあるんだけど,福山を廃村という眼でみることになるとは」と,感慨深げだった。マシオさんのクルマには先に出発していただき,「フィールドワークの〆に」と,ウインデーさんと二人で集落外れの福山神社まで歩いてご挨拶に行った。

〆にウインデーさんと二人でご挨拶に訪ねた福山神社

# 10-12
新夕張駅に戻り着いたのは午後3時45分頃。新夕張からは,ローカル気動車を乗り継いで追分経由で岩見沢に行きたかったが,先の予定を優先して,マシオさんのクルマに便乗して千歳へと向かった。サークルとしての旅のハイライトは,学校跡の石碑を皆で観察できた新登川だったようだった。
この夜は,旭川在住のネット仲間 A.D.1600さん(田中さん)と松尾ジンギスカンで飲み会をして,旭川市街のホテル泊。翌26日(月)は廃村からは離れ,keikoと二人で旭山動物園に出かけた。浦和への帰路で乗ったのは,午後5時12分札幌駅発のブルートレイン「北斗星」。当初,デュエット(個室)が発売即完売でしかたなく取った4人席下段だったが,上段に乗客はなくかえってよかった。翌朝,食堂車でとった洋風朝食セットは,とても美味だった。

(追記1) この記事をまとめるにあたって読んだ堀先生の著書「地図で歩く古代から現代まで」(JTB刊)のあとがき,参照文献の記述には「私は原則として下しらべをしない−−事前にあまり知りすぎると歩いた時の感興が既知知識のため歪められたり減殺されるからです」という一文があった。これを読んで「地形図の情報をもとに現地を歩くことは,自分の旅の基本でもあるなあ」と,再確認した。

(追記2) 高度過疎集落 豊進(Houshin)と大和炭鉱跡・大和小学校跡は約2q離れていることから,平成28年12月,廃村 大和炭鉱集落跡とすることになった。



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