米どころ魚沼の田んぼがある廃村をめぐる

米どころ魚沼の田んぼがある廃村をめぐる 新潟県長岡市田代,寺野,______
____________________________________________魚沼市芹谷地,大平,手ノ又

廃村 芹谷地(せりやち)の分校跡付近は,田んぼになっていた



2014/8/23 長岡市(旧栃尾市)田代,(旧山古志村)寺野,__________
________________________________魚沼市(旧入広瀬村)芹谷地,(旧守門村)大平,(旧広神村)手ノ又

# 12-1
平成26年8月の廃村探索は,国立環境研究所の研究員 深澤圭太さんが,研究テーマである「地域の野生動植物や景観の管理および保全」のサンプリング(本調査)を行う予定にあわせて,新潟県中越・福島県会津へ,2泊3日で向かうことになった。
1日目(8月23日(土))はレンタカーを用いての長岡近辺の廃村めぐり,2日目(24日(日))は電動アシスト自転車を借りての奥会津の廃村めぐり,3日目(25日(月))は深澤さんのグループに合流しての会津若松近辺の廃村めぐりと,テーマがはっきり分かれている。旅で初めて訪問する廃校廃村の数は10か所の予定とした。

# 12-2
8月23日(土,旅1日目),起床は未明4時15分。全国的に天候不順が続いていたが,天気は幸いにも晴。大宮駅朝6時34分発のときに乗ると,ハイシーズンの車内(指定席)はまずまず込んでいた。長岡着は7時48分。クルマはSクラスのマーチを借りた。
最初の目的地,旧栃尾市田代(Tashiro)には,長岡市街から八方台に向かい,山を越えて半蔵金(Hanzougane)を経由するルートで出かけた。半蔵金の商店で買い物をすると,やや新しいRC三階建て小学校校舎の隣には,年期が入った木造二階建て中学校校舎が残っていた。半蔵金から田代は,県道でおよそ3km。たどり着いた田代でまず目にしたのは「上村商店」というお店の跡だった。

田代でまず目にした,「上村商店」というお店の跡

# 12-3
田代には10戸ほどの家々が建っていて,農事組合の施設もある。また,4〜5名の地域の方が農作業をしており,集落の外れには大きなバスが停まっていた。「廃村千選に入れてよいのかな」と思ったが,年配の女性(T子さん)にご挨拶をして,地域の様子を尋ねたところ,現在田代に住まれるのは2戸3名とのこと。「冬も住まれているのですか」と尋ねると,T子さんからは「あたりまえじゃ」という感じのお返事だった。
また,分校の校舎が残っていて,少し前まで栃尾市山の家として使われ,その後は町の先生が別荘のような形でして使っているとのこと。枝道に入り,農作業の手伝いで来ているという大学の学生達(つまりバスの乗客達)と挨拶をしながら坂を上ると,左手に二階建て木造校舎が見えてきた。

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八幡社の階段から見た田代分校跡の校舎                      校庭の隅から見た田代分校跡の校舎

# 12-4
半蔵金小学校田代分校は,へき地等級2級,児童数31名(S.34),明治11年開校,昭和53年閉校。校区は田代のみ。右手には村の鎮守様(八幡社)があったので階段を上がってお参りすると,階段からはよい塩梅で校舎を見ることができた。階段の右脇には,ひっそりとプールが残っていた。
「廃村千選に入れてよいのかな」と思えた田代ですが,大きな校舎に対して2戸しか住まれていないという地域の実情を考えると,「入れてしかりだった」と思えて,ホッとひと息。校舎は一階には板が張られているなど,あまり使われていないように思った。この辺りは全国屈指の豪雪地,冬の一階は雪に埋もれるのであろう。校舎右側には水飲み場があって,蛇口をひねると水が出てきた。

# 12-5
2番目の目的地,旧山古志村寺野(Terano)は,村北部の種芋原(Tanesuhara)から南に2kmほど行った小さな農山村だ。二万五千図(半蔵金,S.42)の寺野の地名のそばには鳥居マークがあり,これを目指してクルマを走らせたところ,「この先行止まり」という看板が出てきて,道は柵に遮られた。
ちょうどニシキゴイの養鯉場と家が建っていて,私より少し年配の男性(橘さん)が居たので,ご挨拶をして「寺野の神社を探しにきたのですが…」と尋ねたところ,「寺野はここで,神社は脇の道を上がったところにある」との旨,お返事をいただいた。橘さんによると,「中越地震の被害は甚大で,集落の大半は地すべりで崩れた」,「いま残っている1軒の家屋は,地盤が固かったから残ったが,引っ越して養鯉場は閉ざされた」とのこと。

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寺野に残る1軒の家屋と養鯉場跡の建物                      墓地の中に建っていた寺野部落絵図碑


# 12-6
橘さんと別れて,神社のほうへ少し歩くと墓地があって,奥のほうに「寺野部落絵図碑」という目を引く石碑が建っていた。いつ頃のものかはわからなかったが,29戸も家々と分校が刻まれていた。この碑の建立は中越地震(平成16年10月23日)の2年前,平成14年8月とあった。
種芋原小学校寺野冬季分校は,へき地等級3級,児童数28名(S.34),大正8年開校,昭和41年閉校。絵図碑では神社と分校は隣り合わせになっていた。碑から神社までの道は,今ある道ではなく,三本大杉の文字のところを通っていったようだ。住宅地図(H.12)を見ると,寺野の住居は1戸で養鯉場1軒だった。改めて年度ごとの住宅地図と付け合わせることで,寺野の無住化時期は高度成長期頃と判断した。

種芋原のそば屋で,アルパカを見ながら昼食休み

# 12-7
寺野をめぐり終えて,昼食は種芋原のアルパカ牧場併設のそば店「為蔵」に入った。アルパカは南米アンデスが原産,震災復興の流れで山古志にやってきた。農家の座敷で食べる手打ちそばは,家畜の匂いが相まって,昔ながらの雰囲気が醸し出されていた。
3番目の目的地,旧入広瀬村芹谷地(Seriyachi)は,村中心部の穴沢から東に5kmほど行った明治期にできた歴史が浅い農山村だ。五万地形図(守門岳,S.44)の文マークには寺新田(Terashinden),二万五千図(穴沢,S.42)の文マークには屋形平(Yakadataira)という地名があるが,住宅地図(H.24)で使われている地名は芹谷地となっている(学校名は屋形平)。訪ねることで,「どれが地域で使われている名前か」という謎を解きたいところだ。

# 12-8
種芋原からクルマでおよそ35分,旧入広瀬村ではまずJR只見線入広瀬駅を訪ねた。一日4便のローカル線,地域の交通手段ではなく,観光交通という目で見たらとても贅沢だ。駅の待合室を兼ねた雪国観光会館には「村の玄関」という雰囲気があったが,人影は見当たらなかった。
2階に入口がある魚沼市入広瀬庁舎(旧村役場)を過ぎて,道中見られる田園風景は,さすが魚沼コシヒカリの産地,豊かそうな感じがした。迷って着いた横根から,芋鞘新田へと進み,「そろそろ着く頃では」と思ったところに,農作業をする方(Sさん)の姿が見当たった。急いでクルマを停めて,ご挨拶をして「冬季分校の跡地を探しているのですが」と尋ねると,少し手前の作業小屋が建っている場所が跡地との旨,教えていただけた。

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芹谷地・冬季分校の跡地には作業小屋が建っていた                屋敷跡には流しがあって,湧き水が引かれていた

# 12-9
横根小学校芋鞘分校屋形平冬季分校は,へき地等級2級,児童数14名(S.34),昭和23年開校,昭和41年閉校。Sさんは芹谷地の生まれで,今は入広瀬の中心部に住んで農作業に通っているとのこと。屋形平はもう少し山に入った場所で,寺新田は地名ではないとのことで,地名の謎を解くことができた。
Sさんからは「昔は積雪の頃は,冬ごもりをしていた」,「道路がよくなって,除雪がたいへんだから移転してほしいと村から話があった」,「今は除雪もしやすくなっているから,またここに住みたいもんだな」との旨,お話をうかがった。歩いて冬季分校跡を見に行く途中にはSさんの屋敷跡があって,流しがあって湧き水が引かれていたので,ペットボトルに詰め,喉を潤した。

# 12-10
4番目の目的地,旧守門村大平(Oodaira)は,村北部の台地状の高原(標高520m)にある戦後開拓集落で,最寄りの集落 二分(標高370m)から3kmほど先にある。芹谷地からも案外近く,横根,二分を経て約10km,寄り道しながらでも30分ほど,午後3時頃には大平に到着していた。青々とした田んぼが一面に広がっており,ポツリポツリと見える建物は,作業小屋というよりは作業所という呼称が似合う大きさだ。
作業所がかつての開拓農家の敷地に建てられていることが容易に想像できたが,どうゆうわけかそこには人の姿が見当たらない。「これは,人待ちをするしかない」と決め込み,待つこと30分,ありがたいことに,1台のクルマが大平に向かってやってきた。

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大平・台地の上には青々とした田んぼが広がっていた               作業小屋というよりは作業場という呼称が似合う  .

# 12-11
高倉小学校二分分校大平冬季分校は,へき地等級4級,児童数9名(S.34),昭和24年開校,昭和50年閉校。クルマに乗っていたのはご夫婦(TさんとR子さん)で,ご挨拶をしてR子さんに集落のことを尋ねたところ,「大平は満州からの引揚者の開拓集落で,入植したのは新潟県出身者だけだった」,「分校は古い道のそばにあったが,跡地は圃場整理で田んぼとなった」,「今も皆が守門に住んで,通いで耕作している」との旨,お話をうかがった。
分校跡と思われる田んぼのあぜ道を歩いていると,草刈りをするTさんとの距離が短くなったので,ご挨拶をすると,「昔から変わり映えなく農業をしているよ」と話されたので,私は「開拓の成果が受け継がれているのは,素晴らしいことです」と返事をした。

# 12-12
この日最後の目的地,旧広神村手ノ又(Tenomata)は,村東部の山間,三ツ又(Mitsumata)という集落から戦前に派生したという小さな農山村だが,道路地図には地名はなく,道もはっきり記されていない。
旧広神村に入り,藪神駅にちらっと立ち寄った後,たどり着いた最寄りの集落 中子沢(Chuushizawa)の公共の温泉宿は閉ざされていた。温泉宿跡の少し先,羽根川に架かる橋の手前から分岐する小道はほどなくダートに変わった。おそるおそるクルマを走らせると,分岐から3kmほどで「唐松山・猫岩・権現堂山登山口」の駐車場があって,クルマを停めずに先に進むと,複数の池が見られるようになり,やがて道は途切れた。

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手ノ又に続く怪しいダートをおそるおそる走る                       集落跡には池が見られるだけだった   .

# 12-13
羽川小学校中子沢分校手ノ又冬季分校は,へき地等級3級,児童数4名(S.34),開校年不明,昭和39年閉校。田んぼがあって,地域の方との出会いがあった大平とは全く違う妙な風景に,私は何となく「長居しないほうがよい」と思った。
後日「広神村史」を調べたところ,下巻巻末の年表に「昭和37年 手ノ又部落に電灯ともる」,「昭和42年 大字三ツ又のうち手ノ又部落全戸転出」という記述が見つかった。分校はおろか「本当にここに集落があったのか」もあやふやだった手ノ又だが,二万五千図(大湯,S.42)とWeb版の最新地形図を見合わせると,集落跡にたどり着いたことは確かなようだった。古い地形図に池はなく,離村後に田んぼが池に変わったのであろう。

旧山古志村虫亀で見たニシキゴイの養殖池に映る夕焼け

# 12-14
中子沢に戻り,小さな祠にご挨拶をした後,R.291 旧山古志村経由で長岡のレンタカー店に戻ったのは午後6時45分。中子沢−長岡間は,43kmを1時間10分で走った(この日の走行距離は167q)。途中,山古志 虫亀で見たニシキゴイの養殖池に映る夕焼けは,穏やで美しいものだった。
レンタカー店から長岡駅に向かって歩いていると夏祭りらしき赤い灯が目に入り,足を運ぶと地域の自治会の方々が生ビールを飲みながら集っていたので,一杯頼んでひとときその輪に加わった。この日の宿はJR小出駅前の「川善旅館」。長岡−小出間の上越線のローカル電車では,山古志でたくさんの看板を見た長岡の地酒「お福正宗」をカップ酒で飲んだ。途中の小千谷では,車窓から見る夜空に祭りの花火が上がった。

(追記) 探索で立ち寄ったJR只見線の入広瀬駅と藪神駅を並べて紹介する。山里の入広瀬駅には「村の玄関」という雰囲気があったが,町に近い藪神駅には「忘れ去られた」感が漂っていた。

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