研究員・調査官とともに会津路をたどる

研究員・調査官とともに会津路をたどる 福島県昭和村並松山,見沢,__
____________________________________会津美里町松坂

廃村 見沢(みさわ)では,土蔵と畑が見られた



2014/8/25 昭和村並松山,見沢,会津美里町(旧会津高田町)松坂
[ 会津若松市大巣子,二幣地 ]

# 14-1
平成26年8月,新潟県中越・福島県会津への2泊3日の旅,3日目(25日(月))は国立環境研究所の研究員 深澤さんにサンプリング(本調査)の様子を現地でうかがい,会津の未訪廃村,会津美里町松坂(Matsuzaka),昭和村見沢(Misawa),並松山(Namimatsuyama)に足を運ぶ計画を立てた。当初,午前中をサンプリングへの同行,午後を単独での廃村探索をイメージしていたので,前日,会津若松でクルマを借りた。
しかし,前夜の飲み会で話をしているうちに,「皆で行きましょう」となり,急きょ予定を組み直すことになった。メンバーは深澤さん,国土交通省の調査官 岩浅さん,日本生態系協会の研究員 岡田さんと私の4名である。

# 14-2
8月25日(月,旅3日目),起床は朝5時半頃。温泉に入って朝食をとり,宿を出発し会津若松市街でレンタカーを返却。深澤さんのクルマに乗り換え,会津美里へとR.401を走っていると,弱い雨が降ってきた。できれば雨は避けたいので,まずいちばん遠い昭和村並松山を目指すことになった。
冬季は通行止になる博士峠を越えた昭和村を訪ねるのは今回が初めて。「昭和の大合併でできたんでしょうか」という深澤さんの問いに「おそらくそのはずです」と私は答えたが,後日気になって調べると,昭和2年に成立した村だった。最寄りの集落 大芦からおよそ4q,R.401から宇中沢という沢沿いのダートを1kmほど入った山中の並松山に到着したのは午前10時10分。幸いなことに到着直前に雨はあがった。

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   並松山には,新しい作業小屋と畑があった                 作業小屋のそばには,古い家屋の名残りが見られた

# 14-3
大芦小学校玉川冬季分校は,へき地等級3級,児童数9名(S.34),昭和22年開校,昭和49年閉校。玉川はこの地域を流れる只見川水系の川の名前,並松山は集落の南側にそびえる山の名前だ。「木地師の跡を訪ねて」(昭和村教育委員会刊,H.14)によると,「宇中沢沿いにはかつて玉川木地という木地師の集落があり,明治期に無人となり,昭和27年に並松山開拓地として大芦の人々により開墾された」とのこと。
五万地形図(針生,S.43)に記された家屋は4点。うち1点の場所に通じる道がわかったので,クルマを停めて歩くと,比較的新しい作業小屋と小さな畑が見つかった。しかし,地域の方には出会わず,冬季分校の所在地等に手掛かりがない。開校年と入植年の差もあり,その実態が気になるところだ。

# 14-4
深澤さんは生物・生態系の研究員,岡田さんは環境政策の研究員,「ここはワサビの畑ですね」,「こんなところにミョウガが出ています」と植生に目がいっている。岩浅さんは,今後増加する無人化集落の管理について,行政として何ができるかについて興味を持たれているとのこと。
服装は,深澤さんがフィールドワークらしく雨合羽に長靴着用,岩浅さん,岡田さんが雨合羽着用。これに対して私は紙袋を提げながらの折り畳み傘。藪こぎよりも普段着で地域の方と気軽に話したいと思うところから,そんな服装が定着してきたのかもしれない。並松山の探索は1時間10分ほど。雨が降らない恩恵は,私がいちばん大きかったようだ。

大塩の簡易郵便局兼JAのお店で,昼食を購入

# 14-5
並松山の探索は1時間10分ほど。午後に訪ねるサンプリング調査地は会津若松市大巣子,二幣地の2か所。先の行程を考えて,昼食は大塩の簡易郵便局兼業のJAのお店で「パンでも買おう」となった。しかし,小さなお店にはパンが2つしかなかった。とりあえず「分けて食べよう」と岡田さんと私でまんじゅうとパンを買うと,岩麻さん,深澤さんは,チーズと魚肉ソーセージを追加してくれた。
車中と道の駅で手早に昼食をとり,たどり着いたR.401からの見沢への分岐点には,「博士山 知と努力の村起こし」という見澤故郷会の名前が入った看板が見当たった。1kmほど進んだところで道が二股に分かれていたので,クルマを停めて右側の道を進むと,まとまった数の家々が見えてきた。

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見澤故郷会の名前が入った看板が見つかった                     見沢には,意外な数の家屋が建っていた

# 14-6
喰丸小学校見沢冬季分校は,へき地等級4級,児童数15名(S.34),昭和23年開校,昭和39年閉校。二万五千図(大芦,S.42)に記された家屋は16点。家々は点が集まった場所に建っており,作業小屋,別荘として使われている感じがした。往時からのものと思われる蔵の近くには,畑が作られていた。予想よりも使われている感が強かった見沢集落跡だが,40分ほどの探索の間,地域の方に出会うことはなかった。
再び博士峠を越えて,目指した松坂は,新宮川ダムの建設(平成16年竣工)により移転した集落であり,「ダム湖畔に離村記念碑でも見つかれば」と思っていた。トンネルの手前で枝道に入り,湖に突き出た稜線の先にクルマを走らせると,そこは見晴らしが利く駐車スペースになっていた。

松坂・ダム湖畔に往時をしのぶものは見当たらなかった

# 14-7
尾岐小学校松坂分校は,へき地等級1級,児童数75名(S.34),明治21年開校,昭和59年閉校。二万五千図(東尾岐,S.51)の文マークは,稜線の先の真下に記されているが,そこはすっかり湖水に沈んでいた。駐車スペースには「新宮川ダムの概要」という案内板が立つだけで,往時をしのぶものは見当たらなかった。「こんな感じの廃村もあるんですよ」と皆に話しながら,予定通り10か所のポイントをめぐり終えた安堵感を味わった。
松坂(駐車スペース)の滞在は15分ほど。会津若松市街のコンビニで買い物をした後,東山温泉を通り過ぎて,まず大巣子を訪ねた。探索は「かつては棚田があった」という集落の西側,分校の少し先を中心に行った。夏でもあまり草木が生えない耕作放棄地の植生は珍しいとのこと。

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二幣地・スギ林となっている耕作放棄地を観察する

# 14-8
最後の二幣地の探索は「かつては田んぼがあった」という集落の南側に的を絞った。深澤さんは「耕作放棄地は川の流れの両側に広がっている」と説明してくれたが,そこには密にスギが生えており,入れそうな雰囲気ではなかった。どうやら生物・生態系のフィールドワーク(サンプリング)は,しっかりした目的がなければ同行できないもののようだった。
二幣地から郡山市街までは1時間ちょっと。郡山駅まで深澤さんに送っていただき,会が散会となったのは夕方6時15分。「廃村は,生き物からのアプローチと人の暮らしからのアプローチの接点として,とても興味深いテーマ」という声を,皆さんからちょうだいした。

(追記) 深澤さんの研究に係わったことが縁で,平成26年9月26日(金),茨城県つくば市の国立環境研究所 生物・社会分野交流セミナーで,「廃村と過疎の風景2014 −都会からは見ることができない日本−」というタイトルの講演が実現した。



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