北海道の教訓が実った秋田単独探索

北海道の教訓が実った秋田単独探索 秋田県上小阿仁村萩形,折渡,屋布

廃村 折渡(おりわたり)では,緑に埋もれて「折渡部落跡」と記された木柱が立っていた



2015/6/1 上小阿仁村萩形,折渡,屋布

# 23-1
平成27年6月1日(月),北海道・秋田の廃村めぐり4日目(最終日),起床は朝5時頃。早朝の青森駅前アウガ地下,卸売市場にある食堂はまだ開いていなかった。しかたがないので,コンビニでパンを調達して港のボードウォークで朝食をとり,青森始発のローカル電車に乗り込んだは朝5時50分。ぼんやりと弘前,大館の乗り継ぎをこなし,JR鷹ノ巣駅に到着したのは朝7時58分。愛想のよいレンタカー店の方が迎えてくれた。
この日はクルマを借りた単独探索。「縮拓の技術」の取材を兼ねた「わるい廃村」上小阿仁村萩形(Haginari)は,秋田の廃村の中では群を抜いて山深い。これに,たどり着くのが難しそうな折渡(Oriwatari)と,比較的行きやすい「よい廃村」屋布(Yashiki)を加え,3か所をめぐる計画を立てた。

# 23-2
上小阿仁村は,秋田県では数少ない「平成の大合併」に参加しなかった自治体で,人口は約2,400名(H.27)。クルマはなじみのワゴンR。駅から少し離れた鷹巣市街のレンタカー店を出発し,交通量の少ない高規格国道(R.105,R.285)を走ると,村役場所在地 小沢田「道の駅 上小阿仁」には午前8時45分に到着した。南沢で県道に入り,小阿仁川の渓谷に沿った細い道とたどると,平成12年秋以来15年ぶりに 手前の集落 八木沢にたどり着いた。
八木沢から萩形までは約10km。集落跡の手前1kmには村営 萩形キャンプ場があり,ここまでは舗装道が続くと予想していた。しかし,萩形ダム堤体から3kmで道はダートとなり,さらに2km走ると土砂崩れ現場に出くわした。しかたがないので,その先2kmはクルマを停めて熊鈴をつけて歩くことになった。

萩形集落跡は,ダム堤体の先7kmのところにある


# 23-3
萩形集落は,文政5(1822)年,阿仁町萱草・根子から11戸が移転して開かれた。戦前までは,マタギを生業とする狩猟文化が盛んであった。往時は営林署の事務所が設置され,昭和38年まで森林軌道が通じていた。徒歩交通の時代は,山を越えた五城目町との交渉が深かった。
昭和36年の最盛期には38戸の暮らしがあったが,同じ年,県営萩形ダム建設が着工された。このとき,住民は一丸になって集団移転の要望を続けたが,行政に取り上げてもらえず,昭和39年,17戸が集団移転した(10戸水没,7戸関連)。萩形ダムは昭和41年に竣工したが,戸数の半減が集落に与えた影響は大きく,65年から68年の間に9戸が個人移転した。そして昭和45年,県による集落再編成事業の適用を受けて12戸が集団移転し,集落は消滅した。

# 23-4
歩いてたどり着いた広々とした萩形キャンプ場に人の姿は皆無だった。五万地形図(阿仁合,S.44)を見ると,往時はここに森林軌道の土場があったらしい。歩き続けると左手にスギ林が広がり始め,右手に墓地跡に建てたという昭和52年建立の供養塔が見当たった。地域の方が建てたと思われる山小屋風の小屋を横目に見ながらさらに先へと進むと,大きな「離村記念碑」にたどり着いた。
離村記念碑には「昭和44年5月12日建立,秋田県知事 小畑勇二郎」と刻まれており,碑の右隣にはブロック造りの神社の祠があった。2kmほど歩いたこともあって,八木沢から萩形までは1時間10分かかったが,たどり着いたときの達成感はひとしお強かった。

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萩形・緑に埋もれた離村記念碑とブロック造りの祠が見つかった        「萩形分校跡」の石柱は,離村記念碑の少し手前に立っていた


# 23-5
沖田面小学校萩形分校は,へき地等級5級,児童数31名(S.34),明治33年開校,昭和44年閉校。電気の導入は昭和39年だった。「萩形分校跡」の石柱は(平成元年建立)は,「萩形部落跡」の石柱,離村記念碑の少し手前にあって,裏面には「村制百周年記念 上小阿仁村」と刻まれていた。このような石碑や石柱の存在は,探索者にとってはとてもありがたい。石碑,石柱の画像を撮るにあたっては,碑を隠すシダ類などの雑草を倒せるだけ倒した。
萩形の集落跡,耕地跡のほとんどはスギ林となっていたが,開けた平地があって,筆者は一瞬「耕地があるのか」と思った。そこにはおそらく家屋跡があって,季節の青い花が咲いていた。気候が快適なこともあって,ひととき桃源郷にたどり着いたようだった。

萩形集落跡に耕地はなかったが,季節の青い花が咲いた平地があった


# 23-6
萩形からは,一度「道の駅 上小阿仁」に戻って短い昼食休みをとり,折渡を目指した。「秋田・消えた村の記録」の折渡の冒頭には,「折渡行きは二度試みたが,ともに途中から引き返している。いくら進んでも集落跡らしいところはないので,道を間違えたと想い,つい戻ってしまう」と綴られている。そして,三度目の挑戦で,四輪駆動の軽トラで何とかたどり着けたのこと。このことから私は「萩形よりも折渡のほうが到達難度は高い」と考えた。
二万五千図(沖田面,S.48)と照らし合わせたが,「地理院地図」Web地形図の林道(国見沢林道)から折渡集落跡へ向かう道は記されていない。手前の集落 上仏社から折渡までは5km。頼りない林道には「通行止」の看板があったが,林業作業の方に話を伺うと「問題なく通ることができる」とのこと。

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折渡・分岐の左側のけもの道が集落跡へと続いている             けもの道の左手には,人工林になった耕地跡が見られる

# 23-7
前日,北海道上ノ国町大安在の探索で,「難度の高い廃村探索では,現在地の特定が大切」と,強く思った。折渡の探索でも,大安在と同じくカーナビ画面上のポイントの向きで「このけもの道は折渡に続いているに違いない」とアタリをつけた。熊鈴をつけて,林道の分岐点(折渡入口)から約500m歩くと,およそ10分で折渡集落跡の標柱(木柱,石柱)を見つかった。木柱(裏面)には「昭和58年 上小阿仁村教育委員会」と記されていた。
仏社小学校(のち小沢田小学校)折渡分校は,へき地等級4級,児童数17名(S.34),大正4年開校,昭和49年閉校。閉村は閉校と同じく昭和49年,電気は開通しなかったという。木柱,石柱の裏手を探索したが,往時の痕跡は何も見当たらなかった。また,「折渡分校跡」の石柱は見当たらなかった。

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木柱とやや離れて「折渡部落跡」石柱もあった            折渡集落跡は,すっかり自然に還っていた        .

# 23-8
折渡入口に置いたクルマに戻ったのは午後2時頃。折渡の探索に大安在のようなロスがあったら,屋布には行けなかったことだろう。折渡入口からは上仏社に戻らず,林道を進んで五反沢川方面に向かった。手前の集落 上五反沢から屋布は5km,「山ふじ温泉」から先の道はフラットなダートになる。
この2月,「撤退の農村計画」の林直樹さんと2人で「秋田・消えた村の記録」の佐藤晃之輔さんを訪ねた時,佐藤さんに「秋田県内のよい廃村とわるい廃村の代表例」を尋ねたところ,佐藤さんは「よい例は屋布,わるい例は萩形」と答えられた。萩形を「わるい廃村」とする理由は,三段階の移転で集落の方々の絆が途切れ,移転先が四散したこと,屋布を「よい廃村」とする理由は,村内への集団移転により,集落の絆が保たれていることによる。

# 23-9
ダートを数台のクルマとすれ違いながら進むと,道の左手に見覚えがある離村記念碑が見えて屋布に到着した。屋布を訪ねるのは平成11年秋以来16年ぶり2度目。晴天の中の離村記念碑は,年を重ねてやや黒っぽくなっていた。
小沢田小学校屋布分校は,へき地等級2級,児童数33名(S.34),明治42年開校,昭和50年閉校。屋布は製炭が盛んだった農山村で,電気の導入は昭和39年,最盛期は24戸(S.37頃)。昭和50年国土庁(現総務省)主導の集落再編成事業を受け,16戸が村内 沖田面近くの団地に集団移転した。二万五千図(沖田面,S.48)を見ながら,住宅跡,学校跡がある棚田状の平地を歩いたところ,往時を偲ぶものとして,タイル張りの流しが見つかった。

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「集落移転記念碑」と並んで立つ「屋布部落跡」の石柱                屋布集落跡では,タイル張りの流しが見つかった  .


# 23-10
屋布集落跡,二万五千図に文マーク,鳥居マークが記された棚田状の平地には,それほど草は生えておらず,快適に探索することができた。建物の基礎ひとつ残っていないのは,集落の方々の「自然に還そう」という気持ちの表れなのかもしれない。集落跡の雑草は,屋布のほうが萩形よりも薄かったが,集落の方々が手入れしているからかどうかははっきりしない。探索者の目で見た限りでは,萩形と屋布の集落跡に大きな違いは感じられなかった。
この秋,「秋田・消えた村の記録」の125か所の廃村のうち,ダム関連を除く最盛期戸数5戸以上の廃村62か所を,林さんと12日間ですべて回る計画がある。1か所の平均滞在時間を30分とすると,跡地の状況で確認するのは,道の様子,住居跡,耕地跡,神社,学校跡の5点ぐらいが妥当そうだ。

屋布集落跡にも耕地はなかったが,棚田状の茂みが薄い平地があった

# 23-11
屋布の探索を終えて,三たび「道の駅 上小阿仁」で一服したのは午後3時50分。上小阿仁村のポイント3か所は,およそ7時間でめぐったことになる。この日のレンタカーの走行距離は142km。鷹ノ巣駅からは特急「つがる」で秋田に出て,最終の秋田新幹線「こまち」で大宮へと帰った。鷹ノ巣駅前から店はなくなっており,車内販売がない「つがる」でのビールは,駅前ビジネスホテルのフロントで買ってまかなった。大宮駅着は午後10時38分だった。
この3泊4日の旅で,北海道14か所(うち初訪13か所),秋田県3か所(うち初訪2か所)の廃校廃村に足を運んた。「廃村千選」の累計訪問数は464か所となった。平成27年の新規訪問数はあと15か所ほど増える見込となったので,500か所超え達成の目標は,平成29年春から平成28年夏頃へと前倒しした。

(追記1) 平成27年7月下旬,始まりが北編(新潟県五泉市上杉川,門原,仙見谷,2012年8月)からであることと,終わりが南編になりそうなことから,旅行記「500か所超えへの道」,北編をIとして「廃村(9)」に,南編をIIとして「廃村(10)」に変更した。

(追記2) 平成29年4月下旬,「廃村(9)」は「廃村(11)」に,「廃村(10)」は「廃村(12)」に名称変更した。



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