秋の田んぼに実りあり(2)

秋の田んぼに実りあり(2) 秋田県藤里町大野岱,奥小比内,太良,____
________________________________名不知,北秋田市桐内沢,露熊,鍵ノ滝,
__________________________上小阿仁村大錠,折渡,大館市合津

廃村 合津(かっつ)の冬季分校跡の建物は,崩壊間近になっていた



# 25-0 中間報告(2)
秋田県の廃村 66集落(オプション4集落を含む)の現地調査,第2陣は,10月9日(金)から12日(月祝)まで,県北西部(南秋田,山本,北秋田の一部)の22集落を調査した。第3陣は,10月31日(土)から11月3日(火祝)まで,県北東部(北秋田の大部,鹿角)の22か所の廃村に足を運び,うち20集落(オフション2集落を含む)を調査した。その結果,県全体で66の集落(オフション4集落を含む)すべてを調査できた。
第2陣では,大多数(21/22)に家屋が建っており,多数(18/22)に田畑の耕作があった。神社や祠を見つけたのは半数未満(9/22)だった。第3陣では,過半数(15/20)に家屋が建っていたが,田畑の耕作があったのは半数未満(9/20)だった。また,神社や祠を見つけたのも半数未満(9/20)だった。

# 25-1 大野岱(Oonodai,2015年10月10日(土)訪問)
大野岱は種梅川上流と粕毛川上流の谷の間の台地上にある。種梅川上流域の柾山沢から藤琴(藤里町役場所在地)に向かう途中に立ち寄ったが,戦後開拓集落のため,調査は行わなかった。『消えた開拓村』には,「昭和21年から24年にかけて27戸が入植し,昭和51年移転」との旨が記されている。
米田小学校大野岱分校は,へき地等級2級,児童数27名(S.34),昭和26年開校,昭和47年閉校。近くには赤い屋根の作業小屋があったが,五万地形図(能代,1966)の文マークの場所は『消えた分校』の記述通りの人工林になっており,往時の面影は感じられなかった。少し藤琴寄りの台地には牧草地が広がっていた。

大野岱・分校跡付近の人工林と林道


# 25-2 奥小比内(Okuobinai,2015年10月10日(土)訪問)
奥小比内は小比内川上流沿いにある。往路には森林鉄道跡の頼りない旧道(未舗装),復路には林道米代線(カーナビには載っていない新しい林道)を使った。旧道の入口には,「農業総合整備モデル事業 中小比内 奥小比内」(藤里町)の看板があった。そばには田中の大銀杏(田中神社境内の大銀杏)がある。「新しい林道はどこに着くのか」と思ったが,田中の大銀杏のやや上手にたどり着いた。
藤琴小学校(のち坊中小学校)奥小比内分校は,へき地等級3級,児童数33名(S.34),明治37年開校,昭和48年閉校。二万五千図(真名子,1973)の文マークの場所は,笹が生い茂った平地になっていた。分校跡の手前,人工林の中には,小さな作業小屋が建っており,ポンプ小屋も見当たった。

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奥小比内・笹が生い茂る平地となった分校跡                 太良・鉱山跡に残るレンガ造りの高い煙突


# 25-3 太良(Daira,2015年10月10日(土)訪問)
太良は藤琴川上流沿いの山間にあり,渓谷は太良峡という景勝地として知られる。早飛沢の調査の後に立ち寄ったが,鉱山集落のため調査は行わなかった。太良鉱山は江戸期からの歴史を持ち,主要鉱物は銅,鉛,亜鉛。明治期は古河財閥の手で運営されたが,昭和33年の水害を契機に閉山となった。
金沢小学校太良分校は,へき地等級4級,児童数88名(S.34),明治14年開校,昭和36年閉校。五万地形図(田代岳,S.39)には文マークは記されておらず,分校跡の探索は鼻から諦めた。地形図の鉱山の場所は林業会社の私有地になっており,建屋が見られた。山神社は管理がなされた形で残っていた。鉱山のシンボルといえるレンガ造りの高い煙突も,遠目ながらしっかり観察できた。

# 25-4 名不知(Nashiradu,2015年10月10日(土)訪問)
名不知は大沢川上流沿いにあり,家屋は南北に細長く点在している。私は平成14年2月に『消えた村』の佐藤さんの案内で出かけたことがあり,今回は13年ぶり2度目の訪問となる。集落跡入口には「農業総合整備モデル事業 名不知 一の又 二の又 大川目」という集落名が入った看板があった。この事業は昭和48年から農水省によって行われたもので,記された4集落はすべて廃村である。 藤琴小学校(のち大沢小学校)名不知分校は,へき地等級2級,児童数29名(S.34),昭和27年開校,昭和47年閉校。二万五千図(藤琴,S.48)の文マークをもとに,笹が生い茂った平地を探索した。笹籔の中に回旋塔を見出した時は,成瀬さんと顔を見合わせて「すごい発見だ!」と喜んだ。

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  名不知・笹籔の中に見つかった回旋塔                   桐内沢・川を水色,道を赤色で記した離村記念碑


# 25-5 桐内沢(Kirinaizawa,2015年11月1日(日)訪問)
桐内沢は桐内沢川上流沿いにあり,本流の小又川には森吉山ダムが建設されている(平成24年竣工)。ダム関連の廃村なので,調査ではオプションとしている。平成21年8月に訪ねたときは,何もなくなった集落跡に建つ真新しい離村記念碑(平成18年10月建立)が印象的だった。今回,6年ぶりに再訪すると,離村記念碑は相応の年期が入っていた。川を水色,道を赤色で記し,家屋の配置等を刻んだ記念碑は,とてもわかりやすい。
森吉小学校桐内沢分校は,へき地等級2級,児童数42名(S.34),明治14年開校,昭和55年閉校。分校跡地には『消えた分校』に載った写真と同じ高い木が2本そびえていた。集落跡中心部の三差路を左に折れると橋と神社跡がある。集落跡を流れる桐内沢川は,護岸や堰によって整えられていた。

# 25-6 露熊(Tsuyukuma,2015年11月1日(日)訪問)
露熊は露熊川上流沿いにあり,渓谷は景勝地として知られる。私は平成11年10月以来16年ぶりの再訪。集落跡1q弱手前の「露熊七面山」を訪ねたところ,二階建ての家屋はなくなっていて,同じ角度から見るまで同じ場所とは思えなかった。「南無妙法蓮華経」だから日蓮宗関係の施設である。離村記念碑(平成3年建立)は集落跡に変わらずに建っており,私はなつかしさを感じた。
離村記念碑の横には,神社に関係する頑丈な造りの建屋があった。碑の少し先には鳥居と祠が見られた。荒瀬小学校露熊冬季分校は,へき地等級1級,児童数12名(S.34),昭和2年開校,昭和43年閉校。「分校の記録」には,露熊分校は「集落の上流のほうにあった」と記されている。

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露熊・家屋がなくなった「露熊七面山」(寺の施設)                 鍵ノ滝・「鍵ノ滝橋」の看板とスキー場へ続く道


# 25-7 鍵ノ滝(Kaginotaki,2015年11月1日(日)訪問)
鍵ノ滝は荒瀬川最上流沿いにあり,主要道を3q進むと阿仁スキー場がある。櫃畑と同じく,私と林さんはこの2月以来9か月ぶりの再訪。櫃畑との違いは,若干明るくて,家屋が建っていることである。鍵ノ滝にも離村記念碑は見当たらない。荒瀬川本流に架かる橋の看板は,離村記念碑の代わりの役目を果たしているともいえるが,集落跡中心部は橋から約600m先にある。 『消えた村』掲載の二階建ての家屋は,積雪期よりもしっかりしたものに見えた。阿仁合小学校鍵ノ滝分校は,へき地等級4級,児童数10名(S.34),昭和26年開校,昭和44年閉校。五万地形図(阿仁合,S.42)の文マークは家屋の少し先に記されている。しかし,現状で痕跡探しは無意味と思われる。

# 25-8 大錠(Oojou,2015年11月2日(月)訪問)
大錠は小阿仁川上流域の丘陵地にある。最盛期戸数が3戸のため,調査ではオプションとしている。私は佐藤晃之輔さんの案内で,平成12年10月に足を運んだことがある。集落跡に着き,クルマを降りるとすぐに,萩形と同じ形の「大錠部落跡」の石柱が見当たった。裏面には「村政百周年記念 上小阿仁村教育委員会」と刻まれていた。その裏の家屋跡には作業をする元住民の方の姿があった。集落跡では,3戸すべての敷地がわかった。
集落跡の田んぼはそば畑に転用されており,赤茶色の枯れた草に覆われていた。沖田面小学校大錠冬季分校は,へき地等級4級,児童数12名(S.34),昭和26年開校,昭和47年閉校。集落からの下手に約1km。何かの施設の門の対面に「大錠冬季分校跡」と記された標柱が見当たった。

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     大錠・15年ぶりに見た冬季分校跡の標柱                  折渡・石柱と木柱が並ぶ分校跡に案内していただいた


# 25-9 折渡(Oriwatari,2015年11月2日(月)訪問)
折渡は仏社川最上流域(国見沢)の山中にある。私はこの6月以来5か月ぶりの再訪。国見沢林道は,おそらく普通車は走れない。左に入る道が林道から折渡へ続く枝道で,林さんはピンと来ない様子だった。轍はあるが,部外者がクルマで入れる道ではない。集落跡には「折渡部落跡」の石柱が建っていた。驚くべきことにそばに軽トラが停まっていて,元住民の方(河村さん)とお会いできた。
仏社小学校(のち小沢田小学校)折渡分校は,へき地等級4級,児童数17名(S.34),大正4年開校,昭和49年閉校。河村さんに案内していただいた分校跡には,「折渡分校跡」の石柱と木柱(昭和58年建立)が並んでいた。神社跡は道より一段高い場所にあり,行き帰りは藪の斜面を上り下りした。

# 25-10 合津(Kattsu,2015年11月3日(火祝)訪問)
合津は合津川上流沿いにあり,家屋は南北に細長く点在している。私は平成23年11月以来4年ぶり5度目の訪問(初訪は平成11年10月)。調査対象62か所の中でいちばんなじみがある。成章小学校合津冬季分校は,へき地等級2級,児童数15名(S.34),昭和27年開校,昭和46年閉校。霧の中で見た冬季分校跡の建物は,校舎の部分が崩壊していた。残りの部分も長くは持たないことだろう。
合津橋には「扇田営林署」の標板がある。建物の数は減り,周囲には耕作放棄地が目立ち,訪ねるたび生活感は薄くなっている。耕作放棄地の外れ,道が見当たらない高台に神社らしき建物が見つかった。この建物は5度目の訪問で初めて見つけた。本殿には,板がはめられた小さな祠が祀られていた。

合津・大破した冬季分校跡の校舎


# 25-11 おわりに
私は「廃村千選」全国1000か所の学校跡がある廃村・高度過疎集落のうち,500か所超えの訪問を当面の目標としている。調査では,秋田県の学校跡がある廃村22か所を訪ね,うち12か所は初訪だった。このうち校舎が残っていたのは大館市合津のみだった(1/22)。
調査は『消えた村』未掲載の集落,戦後開拓集落,ダム建設関係の集落,営林事業集落,高度過疎集落を対象外とした。したがって,「廃村千選」秋田県48か所の学校跡がある廃村・高度過疎集落のうち,既訪はまだ29か所に留まっている。機会があったら残り19か所についても訪ねてみたい。
生産基盤班(秋田班)の成果を含む林直樹さんを代表者とする研究の成果は,平成28年3月,論文として国土交通省に提出された。

(注1) 文中,『消えた村』は『秋田・消えた村の記録』(佐藤晃之輔著,無明舎出版刊,1997),『消えた分校』は『秋田・消えた分校の記録』(佐藤晃之輔著,無明舎出版刊,2001),『消えた開拓村』は『秋田・消えた開拓村の記録』(佐藤晃之輔著,無明舎出版刊,2005)を示す。

(注2) 第2陣・第3陣では,県北(南秋田,山本,北秋田,鹿角)で訪ねた22集落(オプション2集落を含む)の中から,学校跡がある10の廃村を紹介した。だたし,2015年11月2日(月)に訪問した学校跡がある廃村 萩形(Haginari),屋布(Yashiki)は,6月に訪ねていることを考慮して,ここでは取り上げなかった。

(注3) 生産基盤班(秋田班)のフィールドワークの成果は,平成28年10月,『秋田・廃村の記録〜人口減時代を迎えて』というタイトルで秋田文化出版から刊行された。



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