北の果て 三支庁をまたぐ旅

北の果て 三支庁をまたぐ旅 北海道音威子府村咲来団体,___
____________________________________枝幸町大曲,豊沃,雄武町中幌内,
________________________上幌内,名寄市北山,智東


廃村 大曲(おおまがり)の学校跡(体育館)です。



2007/9/17 音威子府村咲来団体,枝幸町(旧歌登町)大曲,豊沃,
__________雄武町中幌内,上幌内,名寄市北山,智東

# 3-1
早朝の音威子府の廃村めぐりは思いつきでしたが,三支庁(上川・宗谷・網走)をまたぐ廃村めぐりは,時間が限られているため,周到に用意をしました。クルマの走行予定は,音威子府村から,旧歌登町,オホーツク海沿岸(枝幸町,雄武町),美深町を経由して,この日の宿がある名寄市までです。
事前の調べには,地形図,住宅地図に加えて,国土交通省のインターネットサービス「国土情報ウェブマッピングシステム」を活用しました。このサービスで閲覧できる昭和50年頃の全国の航空写真には,学校をはじめとする建物まで映し出されているので,廃村めぐりでも威力を発揮します。訪ねる予定の7つの廃校廃村(咲来団体,大曲,豊沃,中幌内,上幌内,北山,智東)は,すべて航空写真を用意し,学校の様子を確認しました。

# 3-2
平成19年9月17日(月・祝),宗谷本線豊清水駅に稚内行普通列車(1両編成)が到着したのは朝8時38分。名寄在住の成瀬健太さんとお会いするのは,東京・山谷の大衆酒場以来1年半ぶり。「初めて降りた」という豊清水駅と駅周囲の寂れ方には,驚かれた様子でした。
最初に目指したのは上川支庁音威子府村咲来団体(Sakkuru-dantai)で,戸数(H.14)は5戸。明治40年に富山県団体を中心とした入植したことからこの名があります。豊清水駅からは6kmほどですが,広い大地の北海道ではすぐに着きます。ただ,家々は点在しており,五万地形図(音威子府,S.47)で見当をつけた場所に行っても学校跡は見つかりません。10数分探して常盤小学校跡の標柱を見つけたときは,ふたりで喜び合いました。

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# 3-3
常盤小学校は,へき地等級3級,児童数14名(S.34),大正7年開校,昭和47年閉校。音威子府村は,昭和38年に改称するまで常盤村でしたが,常盤小学校は村はずれの小さな学校でした。学校跡の近辺に建つ家屋はすべて無人で,離農されてそれほど経たない様子の家もありました。
特に酪農の方が離農される例は多い様子で,サイロの廃墟は数多く見ましたが,この旅で牧場のウシを見かける機会はほとんどありませんでした。
次の目標は宗谷支庁旧歌登町大曲(Oomagari)で,戸数はゼロ(H.18)。咲来団体から大曲は歌登市街を経由して約55km,「それほど時間はかからないかな」と思いきや,途中の集落 本幌別,志美宇丹(Shibiutan)の学校を見つけると,クルマを停めて探索したくなり,なかなか先には進みません。

# 3-4
驚いたのは,大きな校舎の両小学校にあった「平成20年3月閉校」という看板です。この年(H.19),本幌別の児童数は7名,志美宇丹(小中学校)の児童生徒数は18名。両校が閉校すると,昭和34年には12校あった旧歌登町の学校は,歌登市街の1校だけになります。
大曲に到着したのは,午前10時50分。今も往時の校舎が残る大曲小学校跡は道道沿いにあり,簡単に見つけることができました。
大曲には国鉄美幸線(美深−北見枝幸)の未成区間があり,開通時には北見大曲という駅ができる予定でした。航空写真(S.52)では小学校の川を挟んだ裏手に美幸線の路盤が写っているのですが,美幸線(美深−仁宇布)の廃止は昭和60年,今その跡をたどるのは困難でした。


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# 3-5
大曲小学校は,へき地等級5級,児童数31名(S.34),大正14年開校,昭和51年閉校。手前に立つ学校跡の標柱には,歌登町の名がありました。
青い屋根の校舎,体育館を探索すると,校舎は牛舎に転用されたようですが,放棄されて久しい様子でした。体育館は農業用倉庫に転用されたようで,こちらはまだ活用されているようでした。体育館の窓,木製の梁には往時の雰囲気がよく残っており,成瀬さんと「いいねぇ」と談笑です。
地形図(乙忠部,S.32)には文マークから北に2.5kmほどのところに,大曲と記された集落があり,これを目指して道道から枝道に入ると,何軒か無人の家屋がありましたが,道は荒れていて,人の気配はありませんでした。同時に「クマが出るのでは」との心配が頭をよぎりました。

# 3-6
北海道は廃校廃村の宝庫(全275か所)ですが,ヒグマの宝庫でもあります。成瀬さんは,クマの気配を感じる場所にはグループで訪ねられるとのこと。
また,道内の廃校めぐりを趣味とする方の数は多く,きたたびさん,まこっちさん,ウインデーさん,K.Tさん,piroさんなど,やり取りがある方の名前が次々に浮かびます。Webもいくつかありますが,piroさん開設の「学舎の風景」Webには100を超える廃校廃村が掲載されており,よく閲覧しています。
piroさんは,私が訪れてから一週間後に大曲小学校跡を訪ねられたそうで,mixiの「廃村コミュ」に「体育館跡へ続く足跡があり,誰が訪れたんだろうと思った」との旨,コメントをちょうだいしました。

# 3-7
3つ目に訪ねた豊沃(Houyoku)の戸数は2戸(H.18)。地形図(乙忠部,S.32)では,豊沃はタチカラウシナイというアイヌ語の地名で記されていますが,昭和28年開校の豊沃分校の文マークは記されていません。学校跡の特定には,新しい二万五千図(上音標,S.47)を使いました。
途中で立ち寄った上徳志別の小学校跡は,個人経営のキャンプ場として活用されています。活用されている学校跡を見ると心が和みます。
何度か道を間違えながら到着した豊沃の学校跡の前には,農家の家屋跡とサイロの廃墟がありました。近くの家屋の様子もうかがいましたが,人の気配は感じられませんでした。豊沃は昭和22年に戦後の緊急開拓で大きくなった集落で,地名の由来は川に掛かる橋の名前からとのことです。


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# 3-8
上徳志別小学校豊沃分校(S.37より豊沃小学校)は,へき地等級4級,児童数17名(S.34),昭和53年閉校。きたたびさんの「北海道観光ブログ」の学校めぐりには,残雪の中,半壊した豊沃小学校の校舎(平成16年5月)が掲載されていますが,藪の向こうに見える校舎は崩れていました。
藪こぎをして校舎跡を探索すると,屋根や窓枠は原形を留めていました。また,崩れていない一角があり,覗き込むとタイル貼りの風呂が見つかりました。市町村史でへき地の学校を調べていると,時折「学校風呂が設けられていた」との記述を目にするのですが,現物を見るのはこれが初めてです。
校庭を挟んで反対側には,教職員住宅跡があるようなのですが,籔が深かったため訪ねる気力は湧かず,遠目で眺めるに留まりました。

# 3-9
豊沃を後にして,オホーツク海沿いの乙忠部(Occhuube)に着くと,コンビニ(セイコーマート)が見つかり,ホッと一息。おにぎりを買って,食事は音標(Otoshibe)の漁港でとりました。この辺りも相当なへき地なのですが,集落には人の気配があり,漁港にはデートする若者の姿がありました。
20年ぶりのオホーツク海沿いのR.238は心地よかったのですが,走ったのは20kmほどで,網走支庁雄武町幌内からは内陸へ向かう道道に入りました。
なだらかな丘陵の中にある小さな幌内ダムを過ぎて,4つ目の廃校廃村 中幌内(Nakahoronai)に到着したのは午後1時50分。中幌内の戸数はゼロ(H.15)。航空写真(S.52)でも学校跡らしき広がりと小屋があるだけで,校舎は見当たりません。周囲の家屋も点在する程度です。


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# 3-10
中幌内小学校は,へき地等級4級,児童数22名(S.34),明治43年開校,昭和46年閉校。校庭跡らしき広がりには何とかたどり着けたのですが,まったく人の気配のない林となっていました。後に「学舎の風景」Webを見ると,学校跡の門柱が載せられており,見つけられなくて残念です。
学校跡よりも少し幌内寄りに,農家の廃屋があったので探索すると,荒れた部屋の中でキタキツネの毛皮が見つかりました。
5つめの目標 上幌内(Kamihoronai)の戸数は6戸(H.15)ですが,かつての学校の規模を勘案して高度過疎集落に数えています。きたたびさんの「北海道旅情報」Webには,上幌内−中幌内間の道道の様子を「さながら廃屋銀座の様相です」と記しており,これを見て是非訪ねてみたいとなりました。

# 3-11
「北海道旅情報」Webでも印象的な赤レンガ造りのサイロがある農家の廃屋は,車窓右手に見つけることができました。北海道の廃村は,多くが明治以後という開拓の歴史の浅さと,再利用されないことが多いことからか,往時の建物がそのままに残り,本州以南とは違う独特の風景があります。
学校跡,郵便局跡がある上幌内の中心部に着いたのは午後2時半。「上幌内山の里パーキング」にクルマを停めて,学校跡と郵便局跡の探索開始です。
上幌内小学校は,へき地等級4級,児童数121名(S.34),大正元年開校,平成2年閉校。校舎は取り壊されていましたが,門柱をくぐった右手には「開魂」と記された開拓記念碑が残っていました。上幌内郵便局は平成10年閉局ですが,現役のポストがあり,建物は今も使われている様子でした。

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# 3-12
上幌内からは峠越えで上川支庁(美深町)に戻り,かつて美幸線の終着駅があった仁宇布(Niupu)で小休止。駅跡と駅近くの線路は,「トロッコ王国美深」という観光施設として再利用されています。「トロッコ王国美深」Webは,「平成10年に住民有志によって開国」とあります。
トロッコ王国は,その後多くの方が訪ねられる観光スポットとして定着したとのこと。時間があったら,トロッコにも乗ってみたかったところです。
仁宇布でもうひとつ訪ねたかったのは,今も存続する小中学校です。仁宇布小学校は,へき地等級5級,児童数66名(S.34)。美深市街から21kmの山間の小集落に今も学校が残るのは,山村留学制度が定着しているからです。小中学校の児童生徒数は16名(H.19)で,うち半数は山村留学生とのことです。

# 3-13
旅も終盤,6つ目に目指したのは,名寄市の北山(Kitayama)です。東美深から道道を離れ宗谷本線智北駅に向かうと,この辺りの線路沿いの道はとてもローカルで,名寄市に着いたという感じではありません。北山への入口 北星駅は,板張りの片面ホームがあるだけのいわゆる秘境駅です。
北山は,成瀬さんが平成18年3月に東京に来られる直前に,地形図(名寄,S.47)を調べて見つけた廃校廃村です。半年後(9月),成瀬さんは北山を訪ねられて,私のWebの「廃村・過疎集落探訪体験記」に探訪記を投稿してくれました。ふたりに重なる縁があるので,「是非訪ねたい」と思っていました。
北星駅から北山に向かう道はすぐにダートとなりました。いくつかの廃屋が見えるササの茂る道をたどると,駅から2kmほどで学校跡に到着しました。

# 3-14
北山小学校は,へき地等級2級,児童数67名(S.34),大正15年開校,昭和52年閉校。校庭跡は2つの石碑があり,北山小学校跡の碑は平成元年,北山小学校応援歌の碑は平成18年8月,いずれも卒業生の方の会が建てられたとのこと。「名寄新聞」Webには,応援歌の碑 除幕式の様子が記されています。
この日最後,7つ目に目指したのは,かつて駅もあった智東(Chitou)で,この旅の直前,調べた二万五千図(名寄,S.47)で見つけた廃校廃村です。
智東駅は昭和61年に無人化し,昭和62年に臨時駅に降格(冬季営業休止),平成18年3月をもって廃止となり,往時の車掌車を改造した駅舎は「トロッコ王国美深」で転用されています。後日成瀬さんにいただいた資料によると,集落の無人化は昭和51年でした(駅の無人化の10年前,廃止の30年前)。

# 3-15
智東の学校跡は,駅から2kmほど下流方向に離れた天塩川沿いにあります。航空写真(S.52)では学校跡は畑になっている様子で,建物は見当たりません。
北星−智東間の道には,山に入るダートの区間があり,鉄道沿いとは思えない距離感です。道が舗装に変わって,あたりに畑が見られるようになりましたが,人の気配はありません。ときどき畑が見られるダートを走り,智東小学校に着いたときには夕方4時45分になっていました。
智東小学校は,へき地等級1級,児童数52名(S.34),明治43年開校,昭和47年閉校。学校跡の広がりはじゃがいも畑になっていて,往時の痕跡は見当たりません。少し手前の畑に農作業をされていた方がいたので,急いでクルマで戻り,学校跡について尋ねてみることになりました。

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# 3-16
畑には現場監督風の男性が2名と,畑仕事の女性が3名。幸い,女性のひとりが学校跡について知っていて,「線路に近い草むらに門柱が残っている」というお話を伺うことができました。お礼を言って,ふたり顔を見合わせて,期待とともに急いで学校跡に戻ったことはいうまでもありません。
心当たりの草むらを注意深く見ていくと,草に埋もれた門柱がひとつ見つかりました。門柱の表には「智東青年團事務所」と,裏には「行幸記念 昭和12年」と記されていました。小学校に係わりのある門柱ということは間違いなさそうです。
その後,あわてて試した智東駅跡探しは失敗しましたが,代わりに天塩川沿いに立つ川舟安全記念碑のもとで,旅の終わりのひとときを味わいました。

# 3-17
無人の智東から8kmの距離の名寄市街は,とても大きな街に感じられました。レンタカーを返却したのは夕方5時45分。豊清水駅から名寄市街まで,所要時間は9時間,走行距離は202km,7か所の廃校廃村を無事に廻ることができました。一日に10か所もの廃校廃村を廻ったのは,初めてのことです。
国労 名寄闘争団の方々との交流会は午後6時から。クルマのお店の方にこの日の宿「ホテル藤花」まで送ってもらうと,ホテルのロビーで着いたばかりらしい労組のメンバーと遭遇。成瀬さんとは,自販機で買った缶ビールで乾杯しただけで,あわただしい別れとなったのは残念なところです。
夜の交流会では前夜に続いて地域の方との交流を楽しみ,二次会のスナックでは北の果ての街とは思えない賑やかなひとときを楽しみました。

(追記1) この旅では活躍した航空写真ですが,その後の旅での定着はありませんでした。

(追記2) この旅のおよそ1年後(平成20年11月頃),雄武町上幌内は最後の3戸5名が転出し,無住集落(廃村)となりました。

(追記3) 北海道の各支庁は,平成22年4月,総合振興局または振興局に改組されました。その時、網走支庁はオホーツク総合振興局へと名称変更しました。



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