ホハレ峠越え 門入キャンプ

ホハレ峠越え 門入キャンプ 岐阜県揖斐川町門入,戸入


昔も今も,ホハレ峠を見守り続けるお地蔵さんです。



2007/10/6〜7 揖斐川町(旧徳山村)門入,戸入


 ●ホハレ峠 眠りから目覚めた里道

 日本一の貯水量(6億6000万立方m)を誇る徳山ダム(岐阜県揖斐川町)が試験湛水をはじめたのは平成18年9月25日のこと。それから約1年,私はネット仲間4人でホハレ峠を越えて旧徳山村の8集落の中で唯一水没しない廃村 門入(かどにゅう)まで歩き,さらに水没してしまった廃村 戸入(とにゅう)の船着場まで歩く1泊2日の旅に出かけた。
 これまで揖斐川町の中心から門入に通じていた町道はダム湖に水没し,現在門入に行くためには永年廃道状態だった旧坂内村川上から延びるホハレ峠越えの山道を歩く道と,ダム湖を船で戸入の船着場まで渡るルートの2つしかない。しかし旅人が門入に行く場合,船を使うのはほぼ不可能であり,ホハレ峠越えが唯一のルートと言える。
 私は平成18年8月5日〜6日,ネット仲間5人と水没直前の旧徳山村をクルマで訪ねる旅をした。その時は戸入でテントを張って1泊し,翌日の午前中に門入へ向かった。町道の終点付近ではホハレ峠へ向かうダートの林道が分岐していたが,ネット上の峠越えレポートを読む限りでは,ここからホハレ峠に向かうのはとても難しいように思えた。

 平成19年10月6日(土曜日)の天気は快晴。旧徳山村は8度目だがホハレ峠は初めて。川上から林道をクルマで登り,峠のお地蔵さん近くに到着したのは午前10時頃。地域の方のクルマが5台停まっていたが,ここまでクルマで来れるようになったのはこの夏のことだという。道中の無事を祈願したお地蔵さんの前には,数本の杖が置かれていた。
 標高790mの峠から440mの門入までの距離はおよそ6km。ほぼ中間点の黒谷第一砂防ダムまでは沢沿いを下る山道で,その先はクルマも通れる林道。私がリュック二つに振り分けた荷物は約10kg。重い荷物を背負った山道歩きは初体験だが,同行の3人は下見を済ませていることもあり,心配よりも「どんな道だろう」という期待感が強い。

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 先導は山歩きの経験が深い村上さん。私は2番手で杖はなし。後ろには昨年の戸入キャンプでもご一緒した水上さん夫妻。所々に崩落箇所や渡渉箇所がある山道は,しっかりとした踏み跡があり,崩落箇所には握りながら歩けるロープが張られている。季節の花が咲くブナ林は歩いていて楽しいが,ぬかるみの箇所ではすべるので注意が必要だ。
 広々とした砂防ダムの河原を歩き切ると,続くのはクルマも走れるダートの林道。Tシャツ1枚の歩きが心地よい。
 スギの並木を通り抜け,無事門入に到着したのは午後12時頃(所要約2時間)。町道を上ってきた足跡と,山道を下ってきた足跡が重なった喜びは格別だ。夜は八幡神社跡の四阿でテントを張って1泊した。

 翌10月7日(日曜日)の天気はうす曇。ホハレ峠を目指して複路を歩き始めたのは午前11時半頃で,隊列はほぼ往路と同じ。昼食は砂防ダムの河原でとるなど,ゆっくりしたペースで林道,山道を歩く。復路では持っていった杖は,崩落箇所では第三の足としてとても役に立った。峠の近くでは,往路では気付かなかった滝を見ることができた。
 ホハレ峠に戻り着いたのは午後2時半頃(所要約3時間)。お地蔵さんに無事を報告して,クルマに戻る途中で,地下足袋を履いた地元の方と出会ってご挨拶。このおじさんはマイタケなどを採るため,門入の山小舎に泊まって山に入っていたという。徳山村に生まれ育ち,「ここはいちばんの遊び場」と言うおじさんの表情はとても明るかった。

 「徳山村史」(昭和48年)では,ホハレ峠は「江州への道」と記されている。歴史的には,門入は揖斐川下流域(旧藤橋村,揖斐川町など)よりも,峠を2つ越えた滋賀県木之本町などと強く係わっていた。しかし,昭和28年,下流域から徳山本郷と経て門入へ続く車道が開通し,ホハレ峠は生活道の役割を終え,やがて山道は地形図からも消えていった。
 ランプの暮らしが山にあった頃(昭和30年代頃)は,生活道としての山道(里道)が数多く存在した。時は流れてクルマ社会の現在,昔ながらの里道は皆無になったと言ってよい。しかし,徳山村の自治体規模での廃村(昭和62年3月),ダムの堪水による町道の廃道(平成18年9月)を経て,ホハレ峠越えの山道は一種の生活道として復活したのである。
 ホハレ峠越え門入までの山道を往復して,この道が復活したのは,ダムからの新道が容易にはできない事情に加えて,かつて門入をはじめ徳山村に暮らした方が村を想う気持ちがあることがよくわかった。「村に行くためには歩くしかない」という,昔ながらの里道の匂いがそこにはあった。



 ●湖に沈んだ村 戸入の現況

 中日新聞の記事によると,試験湛水から丸1年(平成19年9月24日)の徳山ダム(岐阜県揖斐川町)の貯水量は満水時の59%(3億9300万立方m),貯水位は標高377m(満水時401m),本格運用は平成20年春からはじまるとのこと。堤体(堤高161m)がある位置の揖斐川水面の標高は245m。1年で132mの高さの水がたまったことになる。
 私はこの記事で廃村 戸入(標高360m)が水没したことを確信した。戸入からその奥の廃村 門入(標高440m)に延びていた旧町道の距離は9km。旧町道はどこでどのように水没しているのか,戸入の船着場はどんな様子になっているのか,ホハレ峠越えの道や門入の現況とともに,「この眼で確かめたい」と強く思った。
 平成18年8月6日早朝,私は戸入で目覚めて,集落跡や下手の橋,船着場の建設現場などを探索した。「ダム湖にフェリーが走る」という構想を知ったときは驚いたものだった。平成19年8月より,下開田(徳山会館近く)から戸入を結ぶ水資源機構の定期船が週に1回運航されるようになったが,フェリーが運航されるのは平成20年春以降だという。


 平成19年10月6日(土曜日),ホハレ峠から山道を下り,門入に到着したのは午後12時頃。「無事に戸入の船着場まで徒歩で往復できるだろうか」という心配はあったが,歩かないと先には進まない。離村記念碑がある広場(八幡神社跡)の四阿で昼食をとり一休みした後,身軽な格好で村上さん,水上さん夫妻ともに門入を出発したのは午後1時頃だった。
 昨年は多くのダンプが走った町道も,今はほとんど4人の専用道。川のせせらぎの音や鳥の鳴き声が清々しい。ゆるやかに下る道の幅は3人並べるほど広く,順序を自由に変えながら歩く足取りは軽やかだ。地図を見ても今どこにいるのか見当がつかないので,私は15分を1kmと仮定して,帰りの目印になるように枯れ枝を道に置きながら歩いた。
 2時頃(門入から約4kmの地点),川の流れは止まり,湖がその姿を見せた。せせらぎの音がなくなり,景色はどこか寒々しくなった。少し歩くと町道(立石谷−甚酌線)とダム管理用道路の境界を示す掲示板があった。2時15分頃(約5kmの地点),新設されたダム管理用道路と旧道との分岐に到着。私たちは迷わず旧道へと進んだ。
 使われなくなった旧道には草が茂った箇所があり,ヘビには注意が必要だ。どこか重い雰囲気の中,旧道が水没したのは2時半頃(約6kmの地点)。靴を脱いでズボンを膝までめくって水の中を歩いてみたが,5mほどで歩けない深さになった。分岐まで戻る時間のロスを心配したが,すぐ近くに上りの工事用ダートがあったのは幸いだった。


 新設道は見晴らしがよいせいか,どこか雰囲気が軽い。「どこまで歩けば船着場へ着くのか」という心配は,3時10分頃(約8kmの地点),高台に作られた戸入の離村記念碑がある広場(望郷広場)に到着することで解消された。広場からは,小さく船着場を見下ろすことができる。昨夏泊まった戸入の集落跡が水に沈んでしまったことを実感した。
 広場から船着場までは500mほどだっただろうか。船着場には小さな浮桟橋とモーターボートがあった。その他,戸入では,真新しい避難小屋と公共のものらしき建物を見かけた。
 船着場を後にしたのは3時40分頃で門入に戻り着いたのは夕方5時半頃。道中出会ったのは,門入で公共の建設作業をされている方のクルマ一台だけだった。

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 「徳山村史」によると,江戸後期(天保7年)の戸入は,本郷をしのぐ戸数があったという。以後も74戸・393名(T.9),59戸・199名(S.45)と,本郷に次ぐ規模であり続けた。「徳山村の語り部」増山たづ子さんの故郷であり,神山征二郎監督の映画「ふるさと」(S.58)のロケ地でもある戸入の風景は,二度と見ることができない。
 私はこの旅で戸入を訪ねて,「なじみがある村がダムに沈むことはとても寂しいことだ」と強く感じた。「下手の橋はふたりのお気に入りの場所」という水上さん夫妻はさらに強くそのことを感じたに違いない。私はダムの建設に対する賛否は言えないが,徳山村で生まれ暮らされた方の寂しさ,村を想う気持ちには少しだけ近づけた気がした。
 「戸入の船着場まで歩きたい」は,村上さん,水上さん夫妻,私,4人共通の想いだった。この日歩いた距離は約24km(所要は7時間半)。想いがかなった夜,門入の沈下橋のたもとで焚き火をしながら,流れ星を見ながら皆で飲んだお酒と食事は最高だった。皆が眠りに着いたのは10時半頃,周囲の明かりがない夜空はとても黒く,静かだった。



 ●変化し続ける村 門入の現況

 徳山村最奥,唯一水没しないのが門入集落。「へき地学校名簿」(1961年)によると,徳山小学校門入分校のへき地等級は5級。この級数の判断は「へき地教育振興法」により定められており,5級が最高級。東海4県のへき地5級地は他に同じ岐阜県の白川村加須良(S.42離村)しかなく,全国でも有数のへき地といえる。
 合掌造りの家屋が建ち並んでいた門入の風景は,昭和31年7月に起こった大火(35戸中,24戸が焼失)により一変した。焼け出された村人たちは,山中の炭焼小屋を使うなどでしのぎ,苦難の上に新しい家を建てたという。しかし,徳山村が自治体規模の廃村となった昭和62年,ダム建設に伴う移転の補償条件としてほとんどの家屋は取り壊された。
 最後まで残った門入大橋近くの広瀬さんの家屋が取り壊されたのは平成18年5月。同年8月私がネット仲間と訪ねたときは,広瀬さん宅跡は更地となっており,土台の脇のお地蔵さんに花を供えて手をあわせた。また,峠に向かう林道沿いの泉さん宅を訪ねてお話しをうかがい,その近くに養蜂場を持つ今井さん宅も訪ねて,蜂蜜の瓶詰をお土産に買った。

 平成19年10月7日(日曜日),離村記念碑がある広場(八幡神社跡)の四阿に張ったテントで目覚めたのは未明5時頃。私はひとり,昨夏戸入で泊まったときと同じように,朝もやがかかる門入を探索した。離村記念碑は水資源機構が建てたもので,「平成18年9月建立」と記されている。同様の記念碑は,旧徳山村の8集落すべてに建立されるという。

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 少し下手に建っている古びた小屋は,私が平成12年春に訪ねたときには真新しかった水資源機構の事業用地管理棟。緊急用の電話が通じるこの小屋は,建築工事の作業小屋としても使われている様子だ。少し離れた道の反対側に立つ「警告 ここは旧徳山村民が生活されていた門入です」という看板とともに,私にとってはなじみが深い。
 その隣には,建設中の屋根裏がある大きな建物。工事の方のお話などから推測すると,この家屋は避難施設を兼ねた公共の建物で,横にはバーベキューができそうな施設も作られていた。「ダム湖にフェリーが走るようになると,夏休みにはこの家屋に子供たちが泊まり,キャンプをするようになるのかも」と想像できる雰囲気があった。

 テントに戻り一度休んでから,皆と一緒に朝食をとり,荷物をまとめて再び門入の探索を始めたのは午前9時頃。この日の天気は曇。なぜか網が取り払われた門入分校跡を通り過ぎ,町道の終点に建つ家屋には,愛嬌があるイヌが三匹居てご挨拶。主の方には会えなかったが,山仕事の作業小舎として活用されている様子がうかがえた。

 広瀬さんの家屋の跡には,真新しいログハウスが建てられていた。偶然出会えたログハウスを建てたという方によると,丸太は近くの山から切り出し,コンクリートや建材は,ホハレ峠越えの山道を通じて調達したとのこと。主に,釣り仲間の宿泊の基地などとして使われているそうだ。そして変わらぬ姿のお地蔵さんに,再び花を供え手をあわせた。
 門入には数台のクルマやバイクが走っているが,ガソリンも峠越えの山道から調達しなければいけない。たいへんなことだが,それができるのは門入で過ごすひとときが楽しいからに違いない。そのことは私たち4人の旅人にも当てはまることだ。「ここで飲むビールの味は格別だ」は,趣味でここに集うお酒好きの方なら誰でも思う言葉であろう。

 「徳山村史」の冒頭のカラーページ,門入集落の写真には,黒い屋根の八幡神社の社殿,赤い屋根の門入分校の校舎,多くの家屋や水田が写っている。八幡神社には,室町時代(1478年)に作られた宝物が収蔵されていたという。「昔から神様が奉られてきた場所でテントを張った」と思うと,改めてこのキャンプの重みを感じた。
 午前11時半頃,門入を後にしてホハレ峠に向かって歩き始めたとき,私は寂しさを感じなかった。それは無事にホハレ峠まで歩き通すことへの緊張感のせいもあったが,昨夏は「よほどのことがないともう来ることはないだろう」と思っていた門入,戸入への再訪を果たしたからに違いない。「よほどのこと」が実現してしまったのだ。
 帰り道のクルマの中,4人の間では「来年も門入でキャンプをしたいね」という声が飛び交っていた。来年訪ねることができたら,どのような変化があって,誰に出会うことだろうか。眠りから目覚めたホハレ峠越えの道,湖に沈んだ戸入,変化し続ける門入の様子は,いよいよ本格運用が始まる徳山ダムの様子とともにこれからも目が離せない。

(注1) 門入−川上間は,王子製紙の作業道によりクルマが通じた時期があった(S.38事業所開設,S.40開通,S.49事業所撤退)が,生活道ではなかったのでここでは割愛した。現在最新版の地形図のホハレ峠は,この作業道上の峠(新ホハレ峠)である。

(注2) 立石谷は町道・管理用道路分岐点近くの沢の名前,甚酌(じんしゃく)は門入より2kmほど先,入谷沿いの地名である。かつて甚酌の近辺には,水銀鉱山に関連する集落があったという。

(注3) 徳山本郷でも昭和29年5月に村役場や小学校を巻き込む大火(118戸中,116戸が焼失)があり,この災害の復旧時,区画整理がなされた。さらに昭和40年10月の集中豪雨でも小学校を含む多くの家屋が被災した。ダムに沈んだ徳山小学校跡のRC3階建て校舎は,災害復興の象徴として昭和41年に建てられたものである。

(注4) 門入からホハレ峠へ向かう道の画像は,村上さんにお借りしました。



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