廃村全県踏破への道のはじまり

廃村全県踏破への道のはじまり 石川県小松市丸山,花立,新保,____
_______________________________________木地小屋,小原,光谷,白山市柳原

廃村(冬季無人集落)丸山(まるやま)で見かけた,郵便事業会社のお知らせの看板です。



2008/6/22 小松市(旧新丸村)丸山,花立,新保,木地小屋,小原,
__________白山市(旧鳥越村)柳原,小松市光谷

# 6-1
「廃村全県踏破への道」の旅は,平成20年6月,石川県小松市から始まりました。この時点で,未訪の県は19県(青森,岩手,宮城,山形,富山,石川,兵庫,鳥取,岡山,島根,広島,香川,徳島,福岡,佐賀,大分,熊本,宮崎,鹿児島)。先は長いですが,取り組み甲斐があるテーマです。
私は埼玉(浦和)在住で,大阪(堺)に実家があるので,北陸線沿線は,的をしぼれば宿泊しなくても目指す廃村まで行くことができます。小松市の山間には,旧新丸村という自治体規模の廃村(冬季無人集落)があります。私が「廃村千選」のリストを作成する以前に見つけた自治体規模の廃村は岐阜県旧徳山村,福井県旧西谷村など7か所でしたが,リスト作成で旧新丸村と岡山県旧久田村が加わり,9か所となりました。

# 6-2
旧新丸村の小松市への編入は昭和31年。その後の急激な過疎の進行の様子は,「新丸村の歴史」という書籍に書かれています。旧新丸村の廃校廃村は,丸山(村役場所在地),花立,新保,木地小屋,小原,津江の6か所。今回は,山が深く行けそうにない津江を除く5か所を目指しました。
平成20年6月22日(日),大阪の天気は曇り。前日,大学の同窓会出席のため大阪入りし,その帰路を北陸本線回りにして,日帰りで旧新丸村行きの旅に出かけました。JR大阪駅発朝8時12分の特急「雷鳥」は,昨年11月の福井県板取行きで乗った列車と同じです。小松駅到着は10時47分。駅には地域のレンタカー店が迎えにきていて,話をすると「小松は海も山も市街地から近く,食べ物も美味しくてよいところだよ」とのこと。



# 6-3
小松市街から 丸山(Maruyama)までは約24km。旅では,まず丸山の手前に位置する尾小屋(Ogoya)に立ち寄りました。かつて尾小屋には,銅鉱山と鉱山集落があり,鉄道(尾小屋鉄道)も通じていましたが,閉山(昭和46年)から37年経った今,尾小屋の集落は閑散としています。鉱山資料館の看板をたどって走ると,資料館前には鉄道の展示館があり,動態保存されているという蒸気機関車と2両の客車が飾られていました。
尾小屋から丸山へ向かうR.416にはゲートがあり,この先は冬季通行止になります。借りたクルマはブルーバード。狭い道をおそるおそる走り,五百峠を越えて,丸山に到着したのは12時頃。まず,漁協の名前が入った町内会掲示板と「町内会事務所」の看板がある木造2階建ての建物が目に入りました。

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# 6-4
住宅地図に記された丸山の戸数は9戸(H.19)。クルマを下りて探索すると,掲示板にはゴミの収集や鮎の解禁といった貼り紙があるなど,確かに人の気配がします。そのうちに「これはどう見ても学校跡」という敷地に建つ比較的新しいRC造の公民館が見つかりました。
新丸小学校は,へき地等級3級,児童数18名(S.34),明治7年開校,昭和44年閉校。冬季無人化は閉校の頃に始まったと予想されます。残念なことに雨が降り出し,気分が重くなったこともあり,集会所にいるらしい地域の方への挨拶はできずじまいになりました。学校跡からの戻り道の廃屋の前には,「ポストを撤去しました」という郵便事業会社のお知らせの看板がありました。郵政民営化の波は,確実に押し寄せているようです。


# 6-5
大日川を渡って村の神様 谷郷社にも挨拶に行きました。長い石段には手すりが設けられており,手入れされている様子がわかります。
「新丸村の歴史」の地図には,神社よりも新保寄りに駐在所,診療所,出張所という公共の建物が記されているので,目指してみると,草むらの中に公共の建物らしい廃屋が見つかりました。改めて,後で調べたところ,この建物は昭和33年に開設された市立小松病院 新丸診療所の跡でした。
次に目指した花立(Hanatate)はR.416から枝道を入った場所にあり,須納谷(Sunodani)という旧称があります。住宅地図にはR.416と枝道の分岐点に「軽食喫茶 ゆとり」と記されており,どんな様子か興味深かったのですが,お店はお休みでした。

# 6-6
「ゆとり」の対面には萱葺き屋根の休憩所があったので,クルマを停めて,雨の中ここで昼食です。霞がかかる様子に風情を感じていたところ,休憩所の隅にはアオダイショウの死骸が転がっており,鳥肌が立ちました。後で「新丸村の歴史」を調べたところ,休憩所は由緒のある地蔵堂でした。
住宅地図上の花立の戸数は11戸(H.19)。集落は急な斜面にあり,クルマを停めるのもたいへんです。傘をさして探索し,出会えた地域の方にご挨拶して分校跡のことを訪ねると,「少し山に入ったところだが何も残っていない」とのこと。
新保小学校須納谷分校は,へき地等級4級,児童数24名(S.34),明治18年開校,昭和43年閉校。分校跡は平らな草むらになっていました。

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# 6-7
花立では,もう一方,地域の方のお話をすることができました。積雪時には小松市街に降りられるとのこと,「ゆとり」は地域の方の店で,過ごしやすい季節の土日に開店することなど,うかがいました。天気が良かったら開いていたのかもしれませんが,季節は梅雨時,文句は言えません。
3つ目に目指した新保(Shinbo)は,住宅地図では1戸(H.19)ですが,地域の方が別宅として使われている新しい家が数戸ありました。「小松の軽井沢」と書かれた表札もあり,夏場は過ごしやすい様子です。新保神社の脇には,県道が国道に昇格した時の記念碑があり,「昭和59年 小松市長」と刻まれていました。R.416は小松市と福井県勝山市を結ぶ道ですが,県境付近は今も開通していません。

# 6-8
新保小学校は,へき地等級4級,児童数18名(S.34),明治9年開校,昭和41年閉校。五万地形図(白峰,S.32)では,丸山寄りの川沿いに文マークが記されており,その場所はおよそ特定できたのですが,木製の古い電柱と木造の建物の瓦礫が見当たる程度でした。
雨は次第に強くなり,探索を楽しむ雰囲気ではありません。しかたがないので,駆け足で先を目指すことになりました。
4つめに目指した木地小屋(Kijigoya)は,かつて新保の出作り村だったことから新保出(Shinbode)とも呼ばれます。対向車のないR.416をどんどん進むと,「大日岳・鈴ヶ岳登山口」という看板と駐車場がありました。看板を確認をすると,駐車場の場所には木地小屋という地名が記されていました。

# 6-9
新保小学校新保出分校は,へき地等級4級,児童数1名(S.34),明治18年開校,昭和41年閉校。地形図に文マークは記されておらず,痕跡をたどるのは難しそうです。看板のそばにペットボトルが供えられたお地蔵さんがいたので,ご挨拶をして,すぐにクルマに戻りました。
午後2時半,クルマは木地小屋でUターンとなり,後半戦突入です。5つ目に目指した小原(Ohara)は,丸山よりも下流の大日川沿いにありますが,大日川ダムの建設(昭和43年竣工)により水没しました。新保,丸山を過ぎて,小原,別宮(旧鳥越村の中心集落)に向かう道は,ダム湖があるからかR.416よりもさらに静かな感じがします。対向車はまったくありません。

# 6-10
小原に到着してまず目に入ったのは,山側に立っていた「湖底に故郷 小原あり」と刻まれた離村五十周年記念碑です。建立は平成20年6月,つまり立てられたばかりという碑にはビニールがかぶせられており,除幕式はこれからだったのかもしれません。
碑には「昭和33年11月,閉町式が行われた」と記されていました。小松市に編入後の旧新丸村の各集落の名前には,丸山町,小原町のように町が付けられました。小原が編入から3年ほどで無人になったこと,編入が過疎を進行させたことなどを考えると,どこか皮肉な名称の付け方です。
なお,五万地形図(白峰,S.32)には,小原から津江(Tsue,旧称 杖)に向かう山道が記されていますが,これを見つけることはできませんでした。

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# 6-11
新丸小学校小原分校は,へき地等級3級,児童数6名(S.34),明治11年開校,昭和34年閉校。地形図の小原の文マークは,この碑より少し上流側に記されていますが,どんな集落にどんな分校があったかは,想像することもできません。小休止後しばらくクルマを走らせると,ダム湖側に四阿と「小原のふる里」という石碑が見当たりしました。集会所らしい建物もあり,小原出身の方がこの地を大切にしている様子が垣間見れます。
小原から少し走り着いた白山市(旧鳥越村)阿手は,過疎集落ながらバス停が見当たり,里に下りてきた感にホッと一息。旧新丸村の廃村めぐりは終わりましたが,阿手から小松市街に戻る途中にも立ち寄ることができる廃村・高度過疎集落があります。

# 6-12
そのうちのひとつ,旧鳥越村柳原(Yanagihara)は,県道から枝道を入った場所にあります。住宅地図に記された柳原の戸数は5戸(H.20)。クルマを停めて傘をさして探索をはじめると,神社の鳥居が見当たったので,神社の近辺を丁寧に見てみたのですが,分校の手がかりは見つけられませんでした。
鳥越小学校柳原分校は,へき地等級2級,児童数27名(S.34),明治18年開校,昭和40年閉校。相変わらずの雨の中,神社からとぼとぼとクルマに戻ると,近くの家に地域の方の姿が見えました。気を入れ替えて,その方にご挨拶をして分校跡のことを尋ねると,家の隣が分校跡で,記念碑が立っているとのこと。お礼を言って急いで訪ねると,薪置場として使われている敷地に,「鳥越小学校柳原分校跡」と記された石柱を見つけることができました。

# 6-13
雰囲気のよい分校跡の碑を見つけ出すことができて,いくらか心に明かりが点いた帰り道,最後に目指したのは小松市光谷(Mitsutani)です。
光谷は,尾小屋と同じ旧西尾村に属し(昭和31年小松市に編入),三ッ谷という旧称があります。住宅地図に記された光谷の家屋は「ふるさとセンター」という集会所のみ(H.19)。廃村としては市街地に近いところに興味が感じられます。
別宮に出て,近くの道の駅「一向一揆の里」でお土産を買って,R.360から光谷越の道に入ると,周囲は家屋のない森となりました。雨でなくても暗いのではないかという感じの道を進むと,ほどなく赤い屋根の「ふるさとセンター」が見つかりました。

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# 6-14
松岡小学校三ッ谷分校は,へき地等級3級,児童数13名(S.34),明治24年開校,昭和39年閉校。離村の契機は「三八豪雪」だったとのこと。
「ふるさとセンター」の壁には,往時の光谷の住宅地図が貼られていて,約30戸の家屋,共同浴場,そして分校が記されていました。クルマを停めた場所が分校跡のようです。周囲は鬱蒼とした森になっていたのですが,この地図のおかげで往時の集落の様子はほのかに想像することができました。
光谷から小松市街までは約16km。光谷の地内には「弘法大師之霊水」という湧き水があるのですが,帰り道を急いだことから通過してしまいました。 市街に戻った時,レンタカーの走行距離は92km。6時間ほどのドライブの大半は雨の中でしたが,無事7か所の廃校廃村をめぐることができました。

# 6-15
レンタカー屋の方に送られてJR小松駅に到着したのは夕方5時25分。金沢行きの普通列車の車窓からは,雨上がりの夕陽を見ることができました。金沢からは特急「はくたか」で,ます寿司をあてにビールを飲んでいると,すぐに越後湯沢まで到着しました。小松から南浦和までは5時間弱でした。
石川県の廃村を訪ねて,未訪県は18県になりました。平成17年から平成19年の北海道,岐阜,福井の旅のレポートを「全県踏破への道」でまとめようと決めたのは,小松から浦和に帰る電車内でのことです。一連の旅では,未訪県の廃村はもちろん,既訪県の廃村も積極的に訪ねます。こうして,平成25年8月の宮崎まで続く長い旅の道が始まりました。

(注) 光谷の住宅地図に記されているドント,ジヘイ,ヨソベ,ウシロなどのカタカナ書きは,屋号といって,家の地位・所在地・特徴などをもとに家々に引き継がれてきた名称です。



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