廃村で出逢ったおばあさんと,9年ぶりに再会

廃村で出逢ったおばあさんと9年ぶりに再会 秋田県由利本荘市袖川

廃村 袖川(そでがわ)で平成11年秋に出逢ったおばあさんです。



2008/7/19 由利本荘市(旧鳥海町)袖川

# 7-1
平成20年5月21日(水),東京・山谷の大衆酒場「大林」で,ひとり静かに呑んでいると携帯電話に着信のサインが入りました。店の外で電話をとると,TBSテレビの「徳光和夫の感動再会“逢いたい”」という番組のリサーチャーの方(米村さん)からで,廃村の冊子を見ての連絡とのこと。
どんな番組か説明を受けているうち,「浅原さんが再会したいという方はいませんか」との話になりました。私はこの番組を知らなかったので,「一度番組を見てみます」とお茶を濁しました。「逢いたい」は地上波の準全国ネット(TBSでは木曜日午後6時55分から)で,見る方の数は多そうです。
翌日,番組を見ると,テーマは「生きる希望を与えてくれた先生に逢いたい」と「一度は恨んだ父に逢いたい」。毎回2本取り上げられるようです。

# 7-2
内容はお涙ちょうだいが主流の様子ですが,私が出るとしたら,旅,特に廃村を題材にしたいところです。少々考えた結果,対象の方は「廃村ゆかりの方とお話しするのは楽しい」と気付かせてくれた,平成11年10月に秋田県鳥海町の廃村 袖川(Sodegawa)で出逢ったおばあさんに決まりました。
この秋田の旅から,廃村に行った後,レポートをまとめるという習慣が身に付きました。おばあさんとは,ご挨拶の後 5分ほど立ち話をして,おばあさんが入った風景写真を撮ったのですが,名前や連絡先は聞かなかったので,その後,連絡は取れていません。手がかりは,一枚の写真だけです。
当初,米村さんは乗り気薄だったのですが,何度かやり取りしているうちに筋ができたようで,6月下旬に番組で取り上げることが決まりました。


# 7-3
米村さんの仕事はここまでで,その先は,番組のディレクターの方(福田さん)を中心に話を進めることになりました。打合わせは,仕事の後の飯田橋で二度ほど。一度目は福田さん,シナリオライターの方を含め4名の方との打合わせで,番組作りの熱気が伝わってきます。
ロケは,導入用の埼玉県川越市の荒川河川敷の廃村 握津(Akutsu)の現地ロケと,東京タワー真横のスタジオロケの2回。時期はともに7月上旬です。握津ロケは,カメラマン兼用の福田さんとアシスタントの方(石井さん)の2名のみ。スタジオロケは,役者の方を使った廃村めぐりのイメージ映像もあり,楽しみながら進めることができました。奈美悦子さんをはじめ,芸能人の方も10名以上居たのですが,司会の徳光さんの存在感ばかり感じていました。

# 7-4
注目の「逢いたい」の結果は,おばあさんは見つかったけれど,スタジオに来てくれることはなく,ビデオレターでのご挨拶となりました。おばあさんの名前は柴田ミヨ子さん,お歳は私の想像とほぼ同じの70代半ばでした。ロケ本番は1時間ほどでしたが,一日4本撮るとのことで,かなり重労働です。
ロケの最後に徳光さんが「旅の費用はTBSか俺が持つ」と豪語してくれて,「本当なら嬉しいな」と思っていたら,ロケ3日後にプロデューサーの方(村田さん)から「秋田にロケに行ってほしい」という電話があり,喜んで承諾しました。このとき私は,番組の終わり用の短いコマを撮ることを想像していたのですが,後に福田さんからお話をうかがうと,秋田は後追い(番組後の動き)のスペシャルとして,別枠で作る番組のためのロケとのこと。

# 7-5
秋田「おばあさんとの再会」ロケの出発は7月19日(土),東京から秋田までは飛行機,秋田空港から袖川まではレンタカーでの移動です。
この日が撮影日で,翌日(20日(日))は予備日。スタッフは福田さんとカメラマンの方(染谷さん)の2名。「撮影が順調に進めば,日帰りもある」ということでしたが,飛行機往復よりも安いこともあり,「順調に進んだときは,現地解散で一泊,帰りは新幹線を使わせてください」と頼みました。
ロケでは,まず単独で袖川に行って,廃村めぐりの様子を撮影し,その後,おばあさん宅をうかがいご挨拶とお礼をして,最後におばあさんと一緒に袖川に行き,記念写真を撮るとのこと。袖川への入口,なつかしい森林鉄道跡のトンネルまでは,秋田空港から2時間弱で到着しました。

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# 7-6
狭くて長いトンネルを越えて,9年ぶりの袖川で最初に迎えてくれたのは,テープが付いたゲートでした。「何かな」と思いよく見ると,工事用のトラックから電線を守るためのものでした。9年前にはかろうじて残っていた分校跡の建物はなくなっており,季節のせいか,草が深くなった感じがします。往時を偲ぶものは,田んぼの跡と建物のがれきぐらいしか見当たりません。
道のどん詰まりの子吉川にかかる吊り橋の付近では工事が行われており,工事の方に気を配りながら橋を渡って,水力発電所の近くで昼食休みとなりました。山の空気はおいしく,川の流れも綺麗で,福田さん,染谷さんにも廃村めぐりの楽しさがアピールできたように思えました。

# 7-7
直根小学校袖川分校は,へき地等級3級,児童数13名(S.34),昭和26年開校,昭和43年閉校(中学校冬季分校も同年閉校)。「秋田・消えた村の記録」を読み直すと,集落再編成事業の適用を受け,5戸の集団移転がなされたのは昭和45年から48年。袖川は発電所関係の方も住まれており,「廃村千選」では,全国で6つの発電所関係の廃村のひとつに数えています。発電所の自動化(昭和46年)も移転のきっかけとなったようです。
単独の袖川ロケは順調でしたが,おばあさん宅を訪ねてみたら,肝心のおばあさんは農作業に出かけられたのか留守していて,クルマを直根小学校のそばに移動させて約2時間待つことになりました。福田さんによると,「臨場感を出すため,おばあさんに待機は頼んでいない」とのこと。

# 7-8
どうなることかと心配しましたが,やがておばあさん(柴田さん)は戻ってこられて,家を訪ねて再会することができました。ビデオレター収録のロケがあったからとは思うのですが,柴田さんは私のことをよく覚えていてくれていて,9年前の写真と廃村の冊子をお渡しすることができました。
お話をうかがうと,柴田さんは昭和10年生まれで,私の両親と同じ年配です。ご主人は2年前に他界されたとのことで,仏壇に手をあわせました。お子さんが東京に一人いて,「あの子が小学校に上がる年,分校はなくなった」とのこと。昭和43年は私が小学校に入学した年で,お子さんと私は同じ年のようです。9年前は,自宅から袖川まで2時間歩いて通われていたとのことで,トンネルの中ですれ違っていたら,怖い出会いになっていたことでしょう。

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# 7-9
スタッフのクルマで柴田さんと一緒に袖川に行き,9年前と同じ場所で記念写真を撮ったときは,もう夕闇が迫っていました。クルマの中でのお話によると,柴田さんが留守の間出かけていた先は,田畑(農作業)ではなく美容室だったそうです。
秋田県にはTBSのネット局がないのですが,柴田さんは「恥ずかしいから,まわりのみんなには見られないほうがよい」と笑っていました。
家の近くまで戻って,柴田さんとは感謝のご挨拶をして別れました。私は改めて,「旅の醍醐味は見知らぬ人との出会いにある」と感じました。このときの写真は,すぐにお送りすることができました。このロケのおかげで,袖川は特別な思い出が残る廃村となりました。

# 7-10
ひと仕事終わって,福田さん,染谷さんも安心された様子です。おつかれさまです。私もこの日のうちにロケが終わってホッと一息です。スタッフには袖川の最寄駅 由利高原鉄道矢島駅まで送っていただき,お礼を言って別れました。飛行機ならば日帰りできる時間でしたが,さすがのスタッフも近くの温泉に一泊されて,リラックスのひとときを過ごされたそうです。
この夜は,矢島から羽後本荘(JR羽越本線),酒田(陸羽西線)を経由して,3時間かけて山形県の新庄(山形新幹線のターミナル)まで行き,なじみがある駅前ビジネスホテル「やまき」に泊まりました。遅い晩飯を食べた後,乾杯はあけぼの町の焼鳥屋「鳥吉」にて,大将を相手に行いました。

(追記) 柴田ミヨ子さんは、平成21年5月に亡くなられたと、その年の年末にご子息から連絡を受けました。ご冥福をお祈りいたします。



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