東の軍艦島 アパート群の屋上めぐり

東の軍艦島 アパート群の屋上めぐり 岩手県八幡平市松尾鉱山,
_________________________________________花輪鉱山,袰部

廃都市 松尾鉱山(まつおこうざん)の鉱員住宅「ち」棟の屋上から見た風景です。



2009/8/1〜2 八幡平市(旧松尾村)松尾鉱山,(旧安代町)花輪鉱山,袰部

# 16-1
廃村全県踏破は残り14県。北から南へという流れができたので,「青森県の次は岩手県」とイメージをつかみやすくなりました。岩手県旧松尾村には,廃村というよりは廃都市,廃墟として有名な松尾鉱山(Matsuo-kouzan)があります。私は平成11年10月にアスピーテラインを通ったとき,松尾鉱山の鉱員住宅らしきものを遠目で見たことはあるのですが,そのときは簡単に行ける場所ではないと思い,近づくことはありませんでした。
松尾鉱山の主要鉱物は硫黄で,戦後の最盛期には15,000名が住む鉱山街として栄え,標高900mの高地にあったため「雲上の楽園」と謳われていたそうです。しかし,高度成長期に入り,硫黄は石油の脱硫の工程で入手できるようになり,昭和44年に鉱山は閉山し,翌年には鉱山街は無人化しました。

# 16-2
現在の松尾鉱山で目を惹くのは,昭和26年から建てられ始めた11棟のRC造4階建てアパート群です。見晴らしのよい高原に残るアパート群の廃墟には強い存在感があるため,炭住の高層アパート群がひしめく長崎県の端島(通称 軍艦島)に対して,松尾鉱山は「東の軍艦島」と称されることがあります。
私は平成12年8月と11月に,端島を訪ねて高層アパート群や炭鉱の施設跡を探索しましたが,現在,端島への上陸には厳しい規制があります。また,平成21年4月に開始された端島の観光上陸では,ごく限られた場所にしか行けず,アパート群の探索などはもってのほかです。「軍艦島の現状に対して,東の軍艦島はどんな様子なのか」。このことにも興味が強く湧き,岩手県の廃村めぐりでは,松尾鉱山が第一の目標となりました。

# 16-3
旅では松尾鉱山からほど近い,主要鉱物は銅の鉱山街の廃村 花輪鉱山,農山村の廃村 袰部(Horobe),下沢,小端(Kobata)も目標に入れました。
当初,平成21年3月の岡山県・児島諸島めぐりの東京チーム(ふたつぎさん,はがねさん)と一緒に,高速夜行バスとレンタカーで回る計画を立てたのですが,日程が調整できず断念となりました。
「ひとり旅ならばレンタバイクがよい」と調べたところ,北上市に「カントリーロード」というバイク屋さんが,レンタスクーターを用意していることがわかりました。廃村めぐりにレンタスクーターを使う計画は何度か立てたことがありましたが,実際に使うのは今回が初めてです。

# 16-4
平成21年8月1日(土,旅1日目),大宮から東北新幹線「やまびこ」に乗り,北上到着は午前9時頃。梅雨明け前で気になっていた天気も晴れ間が覗く好天です。迎えにきてくれたお店の方(高橋さん)にお話を伺うと,レンタバイクは地元のお客さんが主で,夏には旅の方も時折使われるとのこと。
借りたスクーターは「アドレス V125G」(125cc),北上から盛岡までのR.4(約50km)では無理なく80km/hで走ることができ,足慣らしになりました。盛岡から松尾鉱山も約50km。米沢ラーメン屋で早めの昼食をとった後,アスピーテラインを走り,松尾鉱山入口(緑ヶ丘バス停)に着いたのは12時半頃。枝道の分岐点の脇には「立入禁止」の看板がありましたが,ガードは緩そうです。枝道に入ってすぐ右手の丘にはアパート群がそびえていました。

# 16-5
さあ,いよいよ松尾鉱山探索のはじまりです。11棟の4階建てアパート群には「い・ろ・は・に・ほ・へ・と・ち・り・ぬ・る」の棟記号があり,最初に道からいちばん近い「い」棟(番号なら1号棟)に入りました。囲いや柵はない開放的な雰囲気の中,建物の探索ができるのはありがたいことです。
雪の深い場所にあるためか,「い」棟から「へ」棟までの6棟のアパートは棟内の廊下でつながっており,つなぎ目には「は」などの文字が書かれています。似たようなつくりの部屋には,なぜかよく便器が転がっています。トイレは水洗で,大型ボイラーによる全館暖房が施されていたそうです。
「は」棟と「に」棟のつながり部分には,一般の住居と異なる雰囲気の部屋があり,商店跡なのかも知れません。その奥には共同浴場跡がありました。

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# 16-6
「ほ」棟の先,「と」棟にはつながりや棟内を抜ける廊下はなく,先に進むためには窓から出入りしたり藪こきをしたりで,少々骨が折れました。しかし,探索を続けるうちに「と」棟から「る」棟までの5棟のアパートは,屋上に登れることに気が付き,屋上を回ると先に進みやすいことがわかりました。
「と」棟の後は,2本の高い煙突が印象的なボイラー棟を過ぎて,「生活学園」と記されたRC造3階建ての中学校跡の建物を探索しました。松尾鉱山中学校はへき地等級無級,児童数428名(S.34),学校教育法施行の昭和22年開校,昭和45年閉校。閉校後は,生活学園(現在 盛岡大学短期大学部)の施設として使われていました。棟続きで大きな体育館も残されているのですが,校舎・体育館とも落書きなどで荒らされた箇所が多いのが残念なところです。


# 16-7
小学校跡はアスピーテラインを渡った先にあります。この辺りのアスピーテラインはスノーシェッドに覆われているのですが,中学校跡から小学校跡へは,短い切れ目を通って渡ることができます。松尾鉱山小学校はへき地等級無級,児童数1898名(S.34),大正6年開校,昭和45年閉校。閉校後は産業能率大学の施設として使われていましたが,昭和末頃に取り壊されたようで,今は「産業能率大学 学生村建設予定地」という古い看板が立つのみです。
戻り道は,屋上めぐりのはじまりです。まず,「と」棟に並んだ「ち」棟の屋上に登ると,とても見晴らしのよい風景が広がっていました。軍艦島のアパート群を探索したときも,屋上からの見晴らしを楽しんだものです。梅雨明け前の松尾鉱山で,日差しのある風景に出会えたのはとても幸運でした。

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# 16-8
続いて,高台に並ぶ「り」棟,「ぬ」棟,「る」棟の屋上に足を運びました。「る」棟(番号なら11号棟)の屋上からは,草原の中に風呂らしきものが見えたので,後で草をかき分けて行ってみると,はっきりと共同浴場跡が残っていました。今はまるで露天風呂のようで,これもとても開放的です。
アパート群内の探索では,6組ほどの方々に出会いました。すれ違ったときは,山登りの要領で「こんちわ」とご挨拶です。建物は風化して,鉄筋がむき出しの箇所もありましたが,廃墟探索にはちょうどよい場所に思えました。もっとも,事故があると規制が厳しくなるので,自己責任のもと,安全第一を念頭に回ることが大切です。慣れない方は,柵のない屋上の縁に近づくなどをしてはいけません。慣れていても,細心の注意がいることは同じです。

# 16-9
アパート群の周辺にも足を運びました。手前にある鉱山病院跡は,改修されて学習院大学八幡平校舎として使われてきましたが,平成18年夏に閉校となり取り壊され,跡地は記念公園となっています。石碑がふたつあったので見てみると,ふたつとも松尾鉱山ではなく学習院関係のものでした。
アパート群より先の鉱水処理場では,鉱山跡から流れ出る強酸性の水を中和しているとのこと。そばには大きな鳥居の山神社があるので,遅ればせながらご挨拶。鉱水処理場を過ぎると,中和処理をするための貯泥ダムがあり,様子を見ると茶色と青色の水が二層に分かれていました。ダムの外周道路はフラットなダートで,一周しながら見るアパート群の全景は,「確かにここは東の軍艦島」と思える見応えでした。


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# 16-10
ひと通り回ってからは,御在所でお茶を調達してから,改めてアパート群を探索しました。最後に「と」棟の屋上に登り,お茶を飲みながら屋上めぐり完結です。「明るく住みよい鉱山にいたしましょう」と書かれた折れた街灯へのご挨拶で〆となった松尾鉱山の探索には,たっぷり4時間かかりました。
気になっていた,以前「鉱員住宅らしきものを遠目で見た」地点は,御在所よりも2kmほど先で,山側から見下ろしていたことがわかりました。
「ふけの湯」に入って一服した後,この日泊まる秋田県鹿角市八幡平の民宿「ゆきの小舎」に着いたのは夕方6時頃。「ゆきの小舎」は平成14年冬以来で4回目。8月の土曜日ながらお客は私ひとりで,宿主さん(おゆきさん,郁男さん)と夜遅くまで話をしていました。この日の走行距離は約155kmでした。

# 16-11
翌2日(日)は朝6時頃起床。天気は予想外の好天。朝8時頃,連泊の「ゆきの小舎」を出発し,岩手県旧安代町花輪鉱山,袰部を目指しました。
花輪鉱山の閉山は昭和61年。田山のR.262からの分岐点には「花輪鉱山」と記されています。しかし,スクーターを走らせていると,鉱山施設を見過ごして秋田県の看板まで進んでしまいました。もう少しだけ先に進むと,視界が開けて「国有林」「鉱山専用道路」という看板があるダートがありました。
地形図(花輪,S.48)やツーリングマップを見ると,この辺りには女平(Onnadaira)という集落があり,鉱山マークが記されています。花輪は秋田県鹿角市の地名であり,かねがね「なぜ岩手県なのに花輪鉱山」と思っていたのですが,鉱山が岩手・秋田の両県にまたがっていたからのようです。


# 16-12
女平からは岩手県側に戻り,小学校跡を訪ねました。花輪鉱山小学校はへき地等級1級,児童数228名(S.34),昭和16年開校,昭和51年閉校。小学校跡は女平と岩手・花輪鉱山の間にあり,女平の鉱山住宅も通学範囲になっていたようです。文マークがある辺りは,草が刈られた平地がありましたが,往時を偲ばせるものは見つかりませんでした。
学校跡から少し戻ると,鉱山跡らしい建物が目に入り,花輪鉱山到着です。作業の方がいたので,ご挨拶をしてお話すると,道沿いの鈍い赤色の筒は苛性ソーダの貯蔵庫,その上の円形の建物は選鉱場(シックナー)とのこと。また,鉱山住宅はこの辺りにあったがすべて取り壊されたそうです。

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# 16-13
地形図に神社マークが記されていなかったので,「神社はどこですか」と尋ねると,「取り壊し中の事務所の奥に入るとある」と教えていただきました。お礼を言って足を運ぶと,朱色の鳥居が見つかりました。灯篭や祠の屋根も朱色で統一されているのは,銅山の神社らしくてよい感じです。
花輪鉱山でも鉱毒の処理が行われており,道を挟んだ場所には,完成まであと少しという感じの新しい事務所が建てられていました。
花輪鉱山からは田山に戻り,R.262を走り,JR兄畑駅で小休止。次に目指す袰部は,兄畑から9km山に入った奥地の小集落です。途中の道には,橋を挟む形で通行止の柵がふたつありましたが,幸いにもスクーターは脇から通り抜けることができました。

# 16-14
到着した袰部は,山中にもかかわらず開けた雰囲気で,可愛い絵が描かれた家屋や新しいブランコやすべり台があったりします。さわやかな日差しを浴びながら,脇の道を歩いていくと,作業小屋が見えてきて,農作業の方に出会いました。「こんにちは」とご挨拶をしてお話をすると,「俺は袰部に住んでいた家の12代目だ」とのお返事。袰部には安比(Appi)のほうからも入る道があり,その方は安比から通われているとのこと。
地形図(田山,S.50)には文マークはなく,分校跡について尋ねたところ,「安比方面への道を少し進むとある」と教えていただきました。神社についても尋ねたのですが,赤い鳥居の稲荷神社がすぐそばにあって苦笑い。鳥居前の水道は手入れされており,蛇口をひねると水が出てきました。

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# 16-15
分校跡は,教わった通りに進むとすぐに見つかりました。館市小学校袰部分校はへき地等級4級,児童数8名(S.34),昭和29年開校,昭和46年閉校。「袰部分校記念碑」は,奥地の小さな分校跡とは思えないほどすっきり整っていました。規模の大きさを考えると,松尾鉱山や花輪鉱山に鉱山街があったことを示す記念碑がないのは,不思議な感じもします。もっとも松尾の場合は,アパート群が残っていれば十分なのかもしれません。
JR兄畑駅まで戻り着いたのは,お昼12時少し過ぎ。駅で「午後は秋田のどこかに行きましょう」と決めて,秋田県鹿角市に戻って,昼食はJR八幡平駅前の食堂でざるそばとなりました。スクーターの乗り心地はすこぶるよく,「普段着で乗るにはBAJAよりよいかも」と思えるほどでした。



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