演習場の騒音対策で生じた 宮城の廃村

演習場の騒音対策で生じた 宮城の廃村 宮城県大和町嘉太神,升沢,___
________________川崎町小松倉,小沢,七ヶ宿町渡瀬,追見,仕切目


廃村 嘉太神(かだいじん)に残る分校跡の建物です。



2009/9/7 大和町嘉太神,升沢,川崎町小松倉,小沢,
______________七ヶ宿町渡瀬,追見,仕切目

# 21-1
思い付きで動いた南東北3県(福島県,山形県,宮城県)の廃村めぐりも3日目。道中,いちばん行っておきたかったのは,宮城県大和町の嘉太神(Kadaijin)と升沢(Masuzawa)です。大和町は仙台市の北隣にある人口2万5千人ほどの町で,過疎の匂いはありません。そこに平成になって2つも集団移転で廃村が生じたということで,当初私はダムが建設されるのかと思いました。
しかし調べを進めていくと,嘉太神,升沢の北側には陸上自衛隊王城寺原演習場があり,両集落は演習場の騒音対策によって集団移転がなされたとのこと。王城寺原演習場は,全国に5つという規模の陸上自衛隊の大演習場で,ライフルから戦車砲まで,ありとあらゆる演習が実施されているそうです。

# 21-2
平成21年9月7日(月),起床は朝6時頃,天気は晴。早い目に東鳴子温泉「旅館大沼」を出発し,R.47をさらりと走り,朝食はJR岩出山駅でパンとミルク。駅では通学の高校生がちらほら見られます。
岩出山からのR.457は,通勤時間のためか,中新田近辺では軽い渋滞が起こりました。王城寺の地名がある色麻町を辺りを過ぎ,大和町の中心 吉岡から嘉太神,升沢に向かう道の名は県道147号升沢吉岡線。所々の看板に載っている太い眉毛の子供は,大和町の地域キャラクターのようです。
田んぼの黄緑色に包まれながら,たどり着いたバスの終点 沢渡では,大きな榧(かや)の木が立っていました。ここが廃村への入口とは思えません。



# 21-3
沢渡から軽い上り坂を1kmほど進むと,右手に新しい校舎が目に入り,嘉太神に到着です。辺りには他に家屋はなく,何とも不思議な雰囲気です。
吉田小学校嘉太神分校は,へき地等級1級,児童数38名(S.34),明治11年開校,平成16年閉校。住宅地図から推定した離村年は平成18年頃。後に大和町教育委員会の方からいただいた「平成15年度 大和町の学校教育」によると,昭和56年に建てられたこの校舎は防音対策がなされたものとのこと。
時刻は朝8時半ということで,校庭のベンチに座って携帯で会社に電話をして,お休みの連絡を入れました。「騒音とはどのぐらいのものなのか」という思いもあって月曜を選んだのですが,私の他に誰もいない廃校の校庭は,静まり返っていました。

# 21-4
古い地形図,住宅地図を見ると,嘉太神は広範囲に家屋が分散した集落で,もともと分校のそばには数軒しか立っていなかったようです。宅地の跡らしき場所には「この土地は,仙台防衛施設局の管理用地です」という看板が立っていて,これはあちこちにありました。
嘉太神と升沢の間にある集落跡 下原には三差路があり,往時からの家屋が一軒残っていました。古い住宅地図を見ると生活センターの建物のようです。
「楽しみは残しておこう」と,この三差路で県道を外れ,先に集落跡 種沢を訪ねると,道沿いに水汲み場があり,ポリタンクを持った方と出会いました。何でもこの辺りは名水の産地だそうで,人の出入りもあるようです。私もペットボトルに水を汲みました。

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# 21-5
下原まで戻って,軽い上り坂を進むと,左手に校舎の気配が感じられて升沢に到着です。ここも他に家屋はなく,山神という石碑が見られる程度です。
吉田小学校升沢分校は,へき地等級3級,児童数54名(S.34),明治35年開校,平成6年閉校。住宅地図から推定した離村年は平成13年頃。校舎跡は「升沢 森の学び舎」という公共施設に転用されていて,今も活用されているからか,校庭の草は嘉太神分校よりも整っています。校庭の隅にはヒマワリやアサガオが咲いており,誰かに出会っても不思議ではありませんでしたが,関係の方に出会うことはありませんでした。
升沢の家屋跡の更地には,「王城寺原演習場 騒音測定位置」という看板が立っていましたが,騒音とも最後まで遭遇することはありませんでした。

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# 21-6
探索を終えて,嘉太神分校に戻ってきたのは午前10時40分。その後のことは白紙だったのですが,天気はすこぶる良く,時間もまだまだあります。
「よし,次は釜房ダムに行こう」と決めて,先を急ぐことになりました。吉岡からはR.4に出て,泉ICから仙台南ICまでだけ東北道に乗って,R.286を走って川崎町に入り,やがて見えてきた釜房ダムには,小松倉(Komatsukura),小沢(Kosawa)という廃校廃村が水没しています。
釜房ダム(総貯水量4530万立方m)の竣工は昭和45年。完成してから長い年月が流れたダム湖は,昔からここにあるのではないかと思わせる,穏やかな表情をしています。まずは,堤体を渡ってすぐの小松倉の商店のそばにバイクを停めて,隣の釜房八幡宮へお参りに行きました。

# 21-7
川崎小学校小松倉分校は,へき地等級1級,児童数65名(S.34),明治35年開校,昭和43年閉校。現在の小松倉の戸数は湖畔に4戸(H.19)。お参りの後はジュースを飲みながら店のおじさんに廃村めぐりのお話をしたのですが,こだわりなくやって来たせいか,実のある話はできなかったようです。
堤体を渡る道路は一方通行のため,対岸に戻るには下流のほうへ戻らなければならず,小松倉から小沢までは,案外時間がかかりました。
支倉小学校小沢分校は,へき地等級無級,児童数83名(S.34),明治15年開校,昭和43年閉校。小沢の戸数はゼロで,目印は「小沢橋」という橋の名前だけです。橋を渡って,「何か見つからないかな」と思いつつ走っていると,湖岸の公園に多くの往時のお地蔵さんや石柱が集められていました。

# 21-8
「では,次は七ヶ宿ダムまで行こう」と決めて,小沢を出発したのは午後12時半。村田ICから白石ICまでだけ東北道に乗って,R.113沿いの中華料理屋で昼食休みを取って,七ヶ宿町に入るとすぐに見える七ヶ宿ダムには,渡瀬(Watarase)と追見(Okken)という廃校廃村が水没しています。
七ヶ宿ダム(総貯水量1億900万立方m)の竣工は平成3年。平成生まれのロックフィルの堤体は,どこか荒々しく感じられます。
関小学校渡瀬分校は,へき地等級1級,児童数98名(S.34),明治45年開校,昭和42年閉校。集落跡付近の湖岸には,「七ヶ宿街道 渡瀬宿(湖底)」という看板と離村記念碑が立っていました。なお,七ヶ宿(しちがしゅく)という名前は,町内の街道沿いに宿場が七つあったことに由来します。

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# 21-9
渡瀬の看板の近くには道の駅 七ヶ宿があったので,お土産の品定めをしてから,少し上手,ダム湖の端に位置する 追見へと進みました。
関小学校追見分校は,へき地等級1級,児童数40名(S.34),昭和22年開校,昭和42年閉校。渡瀬と追見の離村年は昭和54年頃。R.113からダム湖を渡る枝道に入ると,「天使ランド」という寂れた施設があったので,施設の一角にバイクを停め,高台にある追見神社へお参りに行きました。
七ヶ宿町にある廃校廃村は,稲子,渡瀬,追見と仕切目(Shikirime)の4か所。ここまで来たら,仕切目にも行くべきでしょう。七ヶ宿町役場がある関を通過して,滑津でR.113から枝道に入って,沢(大深沢)沿いのダートを進むと,「古河林業七ヶ宿林業所」という看板が見えました。

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# 21-10
関小学校大深沢分校は,へき地等級2級,児童数6名(S.34),昭和11年開校,昭和43年閉校。古い地形図(上山,S.44)を見ても,大深沢沿いには「古河林業事務所」以外には何も記されておらず,仕切目は林業関係の集落に違いなさそうです。林業所には,プレハブの作業小屋や古い木造の倉庫がありましたが,人の気配はありません。関係の方に会えたなら「分校はどこにあったのでしょうか」と,話を切り出そうと思っていたので,少々残念です。
仕切目を出発したのは午後2時半。道の駅七ヶ宿でお土産を買って,国見ICから一路東北道を走って,南浦和に帰り着いたのは夕方7時10分。この日の走行距離は507km(うち高速は302km)。急な思い付きの南東北三県の廃村めぐりでしたが,2泊3日で18か所もの廃校廃村をまわることができました。



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