東西移動ツーリングで訪ねた 峡南の廃村

東西移動ツーリングで訪ねた 峡南の廃村 山梨県身延町折門,早川町天久保

廃村 天久保(そらくぼ)の村役場跡・小中学校跡の記念碑と二宮金次郎像です。



2010/7/3 山梨県身延町(旧下部町)折門,早川町天久保

# 22-1
平成22年,廃村全県踏破の重点は西日本に移り,「この夏休みにはバイクで四国へ行こう」という計画が立ちました。しかし,埼玉(浦和)から四国はとても遠いので,大阪(堺)の実家を中継地点にすることが必須です。
7月に入ってすぐ,「梅雨のうちに,大阪までコマを進めておこう」と思い付きましたが,浦和から堺まではおよそ530km,1日で走る気にはなれません。
「途中一泊したら,寄り道ができる」ということで,ターゲットとなったのは,山梨県の峡南(Kyounan)にある廃校廃村 旧下部町折門(Orikado),早川町天久保(Sorakubo)です。峡南は山梨県南部(富士川沿い,JR身延線沿線)の広域名称で,東京方面からは意外と行きにくい地域です。

# 22-2
折門,天久保は,ともに「村影弥太郎の集落紀行」Webの村影さんからの情報で,「廃村と過疎の風景(4)」の冊子の完成直前(平成22年4月),急きょリストに追加した廃校廃村です。つまり,私独自の調査では見出せなかった廃校廃村なので,「どんなところだろう」という興味も強くなります。
7月3日(土曜,旅1日目),起床は6時半頃。天気予報は曇のち雨で,西のほうが早く崩れるとのこと。「浜名湖あたりまで進みたいところだけど・・・」と思いながら,焼津でビジネス旅館を探して,予約の電話を入れて,浦和を出発したのは午前8時45分。
板橋本町ICから首都高に入り,中央道を河口湖ICで出て,河口湖,西湖と湖畔の道を走っていると,偶然,浅原(私の姓と同じ)バス停を見つけました。



# 22-3
その後も精進湖,本栖湖と湖畔を走ったので,富士五湖のうち4つまで回ったことになります。R.300は本栖湖を離れると急に田舎の雰囲気となり,昭和31年まで古関村の村役場所在地だった古関(Furuseki)も,のどかな空気に包まれていました。古関小学校は,平成13年閉校とのこと。
反木川沿いをさかのぼって行くと,沢(Sawa)という小集落がありましたが,住む方はごくわずかな様子です。大字折門は,折門,御弟子,沢の3つの小集落からなり,分校跡があるのは御弟子(Mideshi)です。地形図(鰍沢,S.44)では山道で1kmほどに見える沢−御弟子ですが,高低差が大きく,新しい林道でたどると5kmあります。御弟子では,林道の幅が太くなっている箇所があり,林道から下方を見ると茶畑と家屋の屋根がありました。


# 22-4
古関小学校折八分校は,へき地等級2級,児童数54名(S.34),明治10年開校,昭和48年閉校。折八の名称は,折門と隣りの大字 八坂(Hassaka)に由来するもので,「地図インフォ」Webに載っていた平成19年の戸数は,折門が3戸5名,八坂が8戸14名です。
林道の幅が太くなっている箇所は,分校の敷地だったようで,林道より一段上の平地には,校舎が建っていたことが想像できる石垣がありました。校舎は平成17年に老朽化のため取り壊されたとのこと。この辺りからは晴れていれば富士山が望めるそうですが,あいにく天気は曇です。分校跡の隣には,神社と記念碑があって,折門に向かう山道の入口にはお地蔵さんが奉られていました。折門は高度成長期の頃,無住化したとのこと。

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# 22-5
下方の家屋にも足を運ぶと,長屋状に並んだ古い建物の間には新しい物置があって,誰かが住まれていてもおかしくない雰囲気です。家屋の前の道は花が咲くなど落ち着いていたので,外付けの廊下に座って昼食休みをとりました。住宅地図から推定した御弟子の離村時期は,平成20年頃です。
御弟子からは古関に戻り,旧下部町中心部のJR身延線甲斐常葉駅を回り,富山橋で富士川を渡り,上沢でR.52を横切り,早川町天久保を目指しました。
天久保を目指す道の分岐は,高住(Koujuu)にある早川町役場が目印です。昭和35年には10,679名あった早川町の人口は,現在1,308名(H.21)。全国一人口が少ない町で,38番目に小さい自治体とのこと。

# 22-6
町役場からは栄代橋で早川を渡り,早川南中学校跡(昭和60年閉校)がある薬袋(Minai)を過ぎ,「ここから山」という所には,半分閉まった柵がありました。柵には「熊・鹿・猪・猿による被害で困っています。人・農作物を護るために扉を必ず閉めてください」「今は夜間だけ扉を閉めています」と書かれた看板があり,薬袋の住民が野獣から集落を守るために作ったようですが,先に塩之上集落があることを考えると,珍しい柵です。
薬袋から2km少し,頼りない町道の急な坂を上り詰めると,右に分岐する小道があり,小道の右側の高台には苔生した階段が見当たりました。わくわくしながら階段を上がると,門柱と,コンクリート製の二宮金次郎像をはじめとする,いくつかの石碑が迎えてくれました。

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# 22-7
五箇小学校は,へき地等級無級,児童数212名(S.34),明治22年開校,昭和43年閉校。植林された広々とした敷地には,五箇村の村役場(昭和31年,合併により早川町に),五箇中学校(昭和34年 併合により早川南中学校に)も建っていました。戦後の行政村の公共機関が人家のない山の上に集まっていた例は,私の知る限りでは全国唯一です。近い例としては,行政村の廃村 滋賀県多賀町旧脇ヶ畑村(村役場所在地は保月)が思い浮かびます。
昭和10年の五箇村の人口は1,004名。名前の通り5つの集落(薬袋,千須和,榑坪,笹走,塩之上)からなり,各集落は過疎になりながらも存続しています。村役場,学校の所在地 天久保は,大字薬袋の枝村ですが,地形図(身延,S.43)をはじめ,多くの地図に載っている小集落です。

# 22-8
現在天久保には,町道沿いに比較的新しい家屋が1戸あるのみ。町道からぎりぎりバイクが入れる枝道を上った所には,神社の祠があり,その少し先には大きな閉ざされた廃屋が見つかりました。「角川地名大辞典」と住宅地図から推定した天久保の離村時期は,昭和50年頃です。
天久保から1kmほど先の塩之上にも足を運びましたが,塩之上は集落に住む方の姿も見られる,比較的広い平地がある山上集落でした。
塩之上を後にすると,後は一路焼津を目指すのみです。南部町のJR井出駅あたりから降り出した雨は,駿河湾沿いの静岡市清水区興津あたりから本降りになりました。焼津市「太洋旅館」着は午後6時半頃。雨降りということで,夕食付きで予約してよかったです。この日の走行距離は335kmでした。



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