東西の境界 紀伊半島の廃村めぐり(東編)

東西の境界 紀伊半島の廃村めぐり(東編) 三重県熊野市和田

廃村 和田(わだ)の小学校跡へと続く,ゆるやかで幅の広い階段です。



2010/10/10 熊野市(旧紀和町)和田

# 23-1
「廃村全県踏破」の目標が,「平成17年夏から平成25年夏までの丸8年間(足かけ9年間)で,既訪を含め全県の廃村に足を運び,旅の記録にまとめる」へと発展し,平成22年夏現在,東日本で訪ねるべき道県として残ったのは,三重県と北海道の道央・道南です。
「廃村と過疎の風景(7)」の旅は,この3道県で完結することが決まり,まず訪ねることになったのが三重県(紀伊半島)の旧紀和町和田(Wada)です。
平成22年10月,祖父の十三回忌があるため,旅はこの時期に合わせて行くことになりました。関西への旅は10月7日(木)から11日(月)の4泊5日ですが,紀伊半島への旅は10月9日(土)から10日(日)の1泊2日,「村影弥太郎の集落紀行」Webの村影さんと落ち合って,一緒に出かける予定です。


# 23-2
10月9日(土,旅1日目),堺の実家での起床は6時半頃。あいにく天気は台風22号の影響で雨。バイクで出かけるという当初の計画はもろくも崩れ,まずkeiko(妻)と一緒にJR阪和線に乗って,和歌山電鉄貴志川線貴志駅のたま駅長(三毛猫)を見に行くことになりました。
貴志川線の電車は全面にたまの絵が描かれていて,内装もたまのイメージで統一されていました。たまにはテーマパーク的なノリも良いものです。
戻りの和歌山駅でkeikoと分かれ,紀勢線で紀伊田辺へ向かおうとすると,台風のため箕島までしか動いていないとのこと。しかし,村影さんの軽トラが箕島まで迎えに来てくれて何とかなりました。この日の夜は村影さんと飲み会をして,旧中辺路町の熊野古道近露王子近くの民宿に宿泊しました。

# 23-3
10月10日(日,旅2日目),起床は朝6時。天気は台風一過の晴天。村影さんと合流し,午前中は和歌山県北山村の高度過疎集落小松(Komatsu)と和田,午後は奈良県十津川村の大渡(Oowatari)と錨(Ikari)に出かける予定で,朝8時20分に近露を出発しました。小松,和田は村影さんも初めてとのこと。
和歌山県北山村は奈良県と三重県に挟まれた行政村単位の飛び地で,県境が記された日本地図で見るととても目立ちます。R.311,R.168,R.169とつなぎ,平成8年まで車道がなかった十津川村神下−北山村小松間を数本のトンネルで抜けて,午前9時半に小松の小学校跡にできた公園に到着しました。
北山第三小学校は,へき地等級2級,児童数11名(S.34),明治38年開校,昭和47年閉校。整備された公園に学校跡の痕跡は見つかりませんでした。


# 23-4
小松の集落とバス停は,公園よりも600mほど北山川の上流にあります。小松の戸数は5戸(H.22),高度過疎集落の範疇ですが,訪ねた小松は整然とした集落で,奥瀞峡の筏下りのポイントという要素もあるので,「廃村千選」のリストでは取り上げないことにしました。
小松と和田は,北山川に架かる高い吊り橋(小松橋)を隔てて1km弱。県境がなければ,学校はひとつでよさそうな距離です。
軽トラを小松側の橋のそばに停めて吊り橋を渡ると,和田側の橋のそばで地域の方と話をすることができました。このおじさんによると,和田集落は手前(下和田)と奥(上和田)に分かれており,往時は10数戸あったとのこと。また,主な産業は材木の筏流しなどの山仕事だったそうです。

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# 23-5
橋から坂を上がると,旧紀和町中心部(板屋)から続く道に合流し,300mほど歩くと下和田到着です。スギが生い茂った集落跡には多数の石垣,石段と屋敷跡があり,木造二階建ての廃屋も見当たりました。手入れされた墓地もあって,どんな感じで集落があったのかがよくわかります。
上和田は,下和田から細い枝道を上がって300mほどの距離にあります。途中には「征清役兵士政浩君碑」と記された倒れた石碑が見当たりました。
枝道の終点の日差しがあたる木造平屋建ての家屋は,雨戸は閉まっていましたが,今も使われているような雰囲気でした。持参した住宅地図を見るとこの家屋が上和田のいちばん奥になるようで,学校跡らしき敷地は枝道から離れた山側に記されていました。

# 23-6
奥の家屋から学校跡の間も,スギが生い茂っていましたが,多数の石垣,石段と屋敷跡があり,数戸の木造の廃屋も見当たりました。村影さんと私と,どちらが先に学校跡を見つけることができるか,競うように集落跡を歩いていると,やがて村影さんがゆるやかで幅の広い階段を見つけました。
和田小学校(のち西山小学校和田分校)は,へき地等級2級,児童数9名(S.34),大正11年開校,昭和39年閉校。石段を登り切ると「和田小学校跡地」と記された石碑が私たちを迎えてくれました。二段に分かれた敷地はスギが生い茂っていましたが,上段の隅のほうには往時の便所の建物が残されていました。「紀和町史」には和田小学校の校舎の写真が載っており,校舎は便所の向かって左側に建っていたようです。

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# 23-7
旧紀和町板屋では,昭和53年まで紀州鉱山という銅山が稼働していました。事前につかんだ情報がほとんどなく,場所柄「鉱山に関係する集落かも」と思った和田ですが,地域の方に話を伺い,集落跡を訪ねることで,山仕事を生業とする農山村だったことがわかりました。閉村年は,スギの生い茂り方から,学校の閉校(昭和39年)からそれほど経たない,高度成長期ではないかと推測しました。
学校跡からは,来た方向に戻るのではなく,下りの道筋をたどって進むと,木造の廃屋,かまどや風呂釜が見当たりました。道を下り切ると元来た枝道に合流しました。村影さんは気が付いたという,枝道と学校跡への道筋の分岐は,私は先の石橋に気を取られ,気が付きませんでした。

# 23-8
「廃村全県踏破」の旅の記録は,東日本(「廃村と過疎の風景(7)」−東海・北陸以東)と西日本(「廃村と過疎の風景(8)」−関西以西)に分かれていますが,和田は最も東西の境界線に接近している廃校廃村といえます。他の心当たりである滋賀県多賀町の廃村 五僧(Gosou)は,岐阜県大垣市(旧上石津町)との境界(五僧峠)のすぐそばにありますが,学校跡はありません。
小松橋を渡って北山村小松に戻り,十津川村大渡を目指して和田・小松を後にしたのは午前11時50分。板屋の方向に行かなかったこともあって三重県の廃村へ行ったという感じは薄く,和田は三重県(大げさに言うと東日本)の飛び地のように感じられました。



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