道南の農山廃村 学校跡の記念碑めぐり

道南の農山廃村 学校跡の記念碑めぐり 北海道八雲町富咲,夏路,_______
______________________桜野,八線,熊嶺開拓,上鉛川,八雲鉱山,二股

昭和後期に小学校が再開校した高度過疎集落 桜野(さくらの)の牧場のウシです。



2012/5/4〜5 八雲町富咲,夏路,桜野,八線,熊嶺開拓,上鉛川,八雲鉱山,二股
[ 5/4 むかわ町(旧穂別町)累標沢,長和 ]

# 26-1
「廃村と過疎の風景(7) 全県踏破への道T」の記録の始まりは,平成17年2月の北海道・道南 八雲町の桜野でした。「廃村 千選」開始直前,偶然訪ねた高度過疎集落 桜野は,「廃村(7)」の記録・旅を進めるうちに,「旅の終わりに再訪したい」という目標になっていました。くしくも八雲町には廃校廃村が8か所もあり,道南では群を抜く数です。
「廃村千選」の製作でお世話になった旭川在住のpiroさん(「学舎の風景」Web管理者)とは,平成22年頃から「八雲で現地探索+オフ会をしましょう」というやり取りをしており,結果,今回の北海道への旅の計画は,前半が道央 夕張市と旧穂別町,後半が道南 八雲町という予定となりました。

# 26-2
八雲町の最盛期(S.35)の人口は約2万5千人で,主要産業は農業,酪農業,漁業。現在(H.24)の人口は約1万5千人(平成の大合併で八雲町となった旧熊石町を除く)。八雲町の廃校廃村8か所を分類すると,明治期にできた農山村が5か所,戦後開拓が2か所,鉱山関係が1か所です。
八雲の現地探索は,道南の廃校・廃村に詳しいラオウさん,ふゆをさん,さらに「北海道旅情報」Web管理者のきたたびさんも参加されることになりました。平成19年9月,名寄近辺の廃校廃村めぐりでご一緒するなど,なじみが深い成瀬さんもお誘いしたのですが,今回は不参加となりました。
私も主体的に動きたくなり,ウインデーさん,piroさんが発見できなかった廃校がある旧穂別町累標沢(Rubeshibezawa)行きを旅の計画に入れました。

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# 26-3
平成24年5月4日(金祝,旅3日目),千歳近郊「ニタッポロ荘」出発は朝8時頃。ウインデーさんのクルマに乗って,穂別総合支所に到着したのは朝9時頃。ほどなく初顔合わせのpiroさんも来られました。むかわ町教育委員会の方の力添えを得て,まず,穂別和泉在住で地域史に詳しい小石川武美さんのお家を訪ねて,林業集落 累標沢の往時の様子を伺いました。続いて小石川さんの案内で,和泉から約10km離れた累標沢集落跡,分校跡を訪ねました。
和泉小学校累標分校は,へき地等級4級,児童数18名(S.34),昭和32年開校,昭和41年閉校。以前ウインデーさんとpiroさんが2人で累標沢を訪ねたとき想定した分校跡は,もう少し上手だったとのこと。「この小高くなった場所に分校があった」という小石川さんの案内には,説得力がありました。


# 26-4
piroさんのクルマに乗り換えて,穂別市街を出発したのは午後12時半頃。ウインデーさん,Iさんとはここでお別れです。
旧穂別町では,長和(Osawa)というダム建設関係の農山廃校廃村も訪ねました。長和小学校は,へき地等級3級,児童数59名(S.34),明治40年開校,昭和51年閉校。学校跡はむかわ穂別ICの入口となっており,門柱と体育館跡の建物が,ICで分断される形で残っていました。「学舎の風景」Webには,取り壊される直前(平成20年5月)の校舎の画像が載っています。近くに開基70周年記念碑と神社があったので,これらもさらっと確認しました。
むかわ穂別IC−八雲ICは252q,目安時間は3時間15分。「今日中に,富咲と夏路には行く」という予定をうかがい,急ぎ足で八雲へと向かいました。

# 26-5
途中,登別室蘭IC−伊達ICが強雨通行止でたいへんでしたが,何とか八雲IC近くのコンビニで初顔合わせのラオウさん,ふゆをさんと娘さん(未森さん)と合流したのは夕方5時頃。函館在住のラオウさんは,若い頃から道南の廃校・廃村に足を運んでいるが,同好の士が集う会は初めてとのこと。
クルマ3台で八雲市街から遊楽部川沿いを山へ向かって走り,見晴らしがよいシバ畑の中のダートを進み,道の左手,柵の中の茂みが富咲(Tomisaki)の学校跡でした。大関小学校富咲分校(のち富咲小学校)は,へき地等級4級,児童数19名(S.34),昭和47年閉校。戦前はトワルベツ(富有別)と呼ばれ,学校は明治40年私設教育所開設,翌41年公設教授場開設,昭和15年一度閉校となり,戦後開拓の流れから昭和31年再開校という歴史を持ちます。

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# 26-6
富咲の廃校記念碑は,ササ藪の中,「ここが学校跡です」と語りかけるように毅然と立っていました。藪の勢いがないこの時期にラオウさんに教えていただけなかったら,まず見つけることはできなかったことでしょう。敷地では,便槽ではないかと思われる複数の穴が見つかりました。
弱い雨が降る夕暮れ,寂しい風景の中ですが,同好の士5名(未森さんを含む)はわくわく感がいっぱいで,寒さはほとんど感じなかったことでしょう。
一行は,引き続き西隣りの夏路(Natsuji)に向かいました。ダートの右手,古びた木製の鳥居を過ぎてすぐの場所が学校跡でした。大関小学校夏路分校は,へき地等級3級,児童数6名(S.34),昭和51年閉校。この地の旧名はサックルベシベ(咲来)で,夏路はこれを和訳した地名です。

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# 26-7
学校は明治37年私設教育所開設,翌38年公設教授場開設,明治42年にはトワルベツとサックルベシベの学校の統合が村当局によって画策され,校舎まで建てられたが,両集落の住民の反対により実現しなかったとのこと。ちなみに富咲という地名は,富有別と咲来の合成地名です。
夏路の廃校記念碑は,ササ藪の中,樹の陰にひっそりと立っていました。piroさんは,再度の訪問でこの碑を発見できたとのこと。敷地では,校舎のガレキが見当たりました。周囲には,使われているかどうかわからない作業小屋が見られるぐらいで,探索の間は,誰にも出会いませんでした。
ラオウさんによると,八雲町の各学校跡の記念碑は,人影がなくなった藪の中でもそのまま残されているとのこと。探索の目標にはもってこいです。

# 26-8
この日の宿は,平成17年2月にも泊まった桜野(Sakurano)の「桜野温泉 熊嶺荘」で,私の希望で決まったものです。7年強続いた,東日本全県踏破の旅の終わりをかみしめるつもりもあったのですが,同好の士が集うオフミートは話題が尽きず,どのような話があったか覚えていない状況となりました。
そのうちに,この日は美唄炭鉱跡合同探索のリーダーを努めたというきたたびさんが場に加わり,散会は午前様になりました。
翌5月5日(土祝,旅4日目),起床は早朝4時半頃。天気はおおむね曇り。露天の温泉に入って,ひとり歩いて新旧桜野小学校跡を目指しました。平成17年以来,「いつかは行かねば」と思い続けてきた桜野小学校跡へ続く野田追川に沿った道道は平凡な舗装道でしたが,足取りは軽やかでした。

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# 26-9
宿から歩いて30分ほどで,赤い石の廃校記念碑が眼に入り,新しいほうの桜野小学校跡に到着。新しい桜野小学校は,昭和57年再開校,最大児童数7名(S.58),平成4年休校,平成7年閉校。RC平屋建ての小さな校舎は,学校跡というよりは企業の施設のように見えました。
また,校庭には温泉施設(桃太郎温泉)として作られたという比較的新しい建物がありましたが,使われている様子はありませんでした。
「岡山県畜産公社 桜野牧場」が桜野に進出したのは昭和50年。戸数は4戸から15戸に増え,就学児童のために再開校となったとのこと。しかし,牧場の運営はうまく行かず,学校の閉校を経て,平成12年には地域の有限会社に経営母体は変わり,現在(H.24),桜野の戸数は3戸に減少しています。

# 26-10
続いて,古いほうの小学校跡を目指して,さらに道を歩いて行くと,牧場の牛が私のほうに寄って来ました。「人なつこい牛なのかな」と思いきや,どうも見知らぬ者を威嚇しているようでした。柵を隔ててのことでよかったです。
古い地形図(濁川,S.41)に記された文マークは,牧場の敷地の中にあります。たどり着いてみると,幸いたどることができる枝道がありました。近くに牛はいなかったため,気も楽にその場所を目指しましたが,柵が半円形にくぼんでいるところから見えた古い建物と,その先の小高い場所に鎮座していた祠を見つけただけで,敷地に残されているという廃校記念碑は見つけることができませんでした。

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# 26-11
「そろそろ戻ろう」と思った頃,一行のクルマが道道に到着しました。古い桜野小学校は,へき地等級4級,児童数30名(S.34),明治40年私設教育所開設,43年公設教授場開設。昭和48年閉校,併設の中学校は昭和51年閉校。廃校記念碑は私が立ち入らなかった柵の内側,ササ藪の中に地味に立っていました。ともあれ,見つかることができホッとするところです。
ラオウさんによると,柵が半円形にくぼんでいるところは,往時は相撲の土俵があった場所で,その先の神社(祠)では,今も秋に集いが行われているとのことです。後で「学舎の風景」Webを見ると,平成22年5月にはあった神社の鳥居は崩れて,片足を残すのみとなったことがわかりました。

# 26-12
その後,比較的近くにある蕨野小学校跡(平成3年閉校),赤笹小学校跡(平成2年閉校)を経由して,熊嶺荘に戻って朝食。昭和末頃,桜野小学校と蕨野小学校,赤笹小学校は,極小規模校同士の集合学習「くまげら学級」を編成し,互いに協力しながら特色ある教育を実践したとのこと。
ややあわただしく熊嶺荘を出発したのは朝8時15分。廃校の数では,すでに4校立ち寄ったことになります。
桜野を後にして目指したのは,八雲市街の保育所の隣に移築された旧八雲鉱山小中学校体育館です。八雲鉱山は,市街から約24kmの山中にあり,主要鉱物はマンガン・鉛,昭和44年閉山。今は八雲町子育て支援センターの施設として使われているとのこと。鉱山町の規模の大きさを偲ばせる体育館です。

# 26-13
八雲市街からは,まず,昨日立ち寄った富咲,夏路に近い八線(Hassen)を目指しました。富咲,夏路,八線の入口に位置する集落 上八雲の小学校跡(大関小学校跡,平成23年閉校)にも立ち寄りました。昭和34年には26校(うち分校3校)あった八雲町の小学校は,今(H.24)は8校になっています。
現在,八線の学校跡付近は北里大学獣医学部の付属牧場(八雲牧場,昭和51年開設)となっており,廃村を訪ねるという雰囲気はありませんでした。
八線小学校は,へき地等級3級,児童数15名(S.34),明治40年私設教育所開設,明治43年ペンケルペシベ特別教授場開設,昭和48年閉校。八線という名称は校地の位置を表すもので,これが地区の総称としても用いられるようになったとのことです。

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# 26-14
牧場の駐車場からは学校跡に向かって遊歩道が整備されており,これをたどるとほどなく学校跡の敷地に着いて,記念碑を見つけることができました。牧場の中という場所柄,碑は有刺鉄線に囲まれていました。
八線からは一度八雲市街に戻り,piroさん,ラオウさんがメインイベントという熊嶺開拓(Kumane-kaitaku)を目指すことになりました。十数年前に訪ねられたというラオウさんの先導でクルマを走らせると,砂蘭部川沿いの道はダートになってしばらくすると二又に分かれていました。「左側から行くほうが近い」という判断でダートを進むと,左手にサイロの跡が見当たりました。しかし,少し先の路上には,まとまった雪が残っていました。

# 26-15
しかたがないので,一行は二又の場所まで戻って,右側の道を進むことになりました。坂が急になる手前でクルマを停めて,やや急な坂を上り,さらにササ藪かきをすること10分ほど。登り着いた場所には前よりも太めのサイロの跡があって,そこからは学校跡の敷地を見降ろすことができました。
それまでの疲れが一気に吹き飛んだ感じの6人組は,敷地を目指して藪の中を下り,難関といわれた熊嶺小学校跡へ到達することができました。
熊嶺小学校は,へき地等級4級,児童数18名(S.34),昭和24年創立,昭和47年閉校。熊嶺開拓集落は,昭和21年,砂蘭部川沿いの国有地が開放され,15戸が入植し成立。しかし,高度成長期を迎え,離農者が続出し,昭和47年10月(閉校2か月前)の小学校は教員の子4名のみになったとのことです。

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# 26-16
熊嶺小学校跡の敷地は,校庭に残されたタイヤの成分が溶けた水のためか草がほとんど生えておらず,沼状になっている場所もありました。敷地では廃校記念碑のほか,「希望の池」というPTAの方の奉仕でつくられた憩いの場の痕跡が見つかりました。ラオウさんも希望の池は初めて見たということで,感慨深いとのこと。ここでも,「雪が融けたばかりで草の勢いが弱い今だから,比較的簡単に行けた」という声が上がりました。
ウインデーさんが平成23年6月に行かれたときに見つけたという門柱と熊の形をしたオブジェは,なかなかわからなかったのですが,皆で探したところ,敷地からダートに戻ってきたところで見つけることができました。ものが見つかりやすくなるのは,眼が多い大人数の探索の長所です。

# 26-17
熊嶺開拓からは再び八雲市街に戻り,鉛川沿いの国道(R.277,雲石街道)を走り,上鉛川(Kaminamarikawa),八雲鉱山を目指しました。上鉛川小学校は,へき地等級2級,児童数11名(S.34),大正3年特別教授場として開設,昭和40年閉校。校地はペンケルペシベの基線にあり,開拓時期は八線よりも遅いが,雲石街道の開削もあって,入植者は順調に増加したとのこと。また,過疎の進行時期も八線よりも早かったことがわかります。
現在,上鉛川小学校跡にはバイオマスリサイクル工場が建てられており,廃校記念碑は,工場敷地の片隅に申し訳なさげに建っていました。現在,上鉛川は無住地になっており,国道沿いの利便良い場所ながら,暮らしがあったという雰囲気を見い出すことはできませんでした。

# 26-18
八雲鉱山は,上鉛川より先,R.277から枝道に入った場所にあり,枝道は「おぼこ荘」という温泉宿の先はダートです。古い地形図(遊楽部岳,S.35)では鉱山町は文マークから始まり,その先には温泉,神社,鉱山と,賑やかそうに並んでいます(なぜか〒マークは載っていません)。
八雲鉱山小学校は,へき地等級2級,児童数154名(S.34),昭和9年に特別教授場として開設,昭和44年閉校。江戸時代からの伝統を誇る鉱山は昭和44年4月に閉山となり,同7月学校も閉校となりました。「八雲町史」には往時の学校の写真が載っており,そこには市街で見た体育館の姿がありました。体育館は敷地の右側,赤い石の廃校記念碑があるあたりに建っていたようです。どうも,平成建立の碑は赤い石になって,大型化している様子です。

# 26-19
「学舎の風景」Webにはpiroさんが平成22年5月に単独で訪ねたときの記事があり,この記事を見た感じと比較するとすんなり到着したのですが,それも大人数の探索ならではです。道を挟んで反対側にあったというモニュメント「平和の塔」も探したのですが,見つかったのは電柱だけでした。
学校跡から先は,piroさんも初訪問です。古い廃橋,街灯に往時の鉱山町を想像しながら先に進むと,山荘(オボコ山の家)として活用されている郵便局跡の建物が待ち構えていました。山荘前には古びた円筒形の郵便ポストがあって,鉱山町の歴史を知らない方が訪ねても,ここに郵便局があったということがわかるのですが,ここはそんなことは夢のように思えるほどの山奥です。なお,オボコとは,雄鉾岳という近くの山の名前です。

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# 26-20
山の家の左隣りの小高い場所に神社の祠が見当たったので,私とラオウさんは「ご挨拶しておきましょう」と階段を上がっていきました。少し遅れてきたたびさんもやってきました。思えばきたたびさんとは,平成19年3月の愛知県の廃村 宇連の探索以来です。
八雲鉱山の探索が終わったのは,午後12時少し過ぎ。八雲町の廃校廃村めぐり,とても順調に進んでいます。八雲鉱山からは,三たび八雲市街に戻り,市街地に近い久留米小学校跡(昭和40年閉校)を訪ね,コンビニで各自買い物をして,昼食をとりました。クルマは全部で4台。確か熊嶺など,山深い廃校廃村に向かうとき,砂蘭部川に近い公園で台数の調整をしたはずなのですが,どのようにしたか,なぜかまったく思い出せません。

# 26-21
最後の目標 二股(Futamata)は,八雲市街からR.5を函館方向に少し走った落部という漁港がある集落から山に入った場所にあります。私は,古い地形図(濁川,S.41)に記された落部御料(Otoshibe-goryou)をこの集落の名前と解釈していたのですが,ラオウさんによると,分校の名称と同じく二股でよいとのこと。冊子「廃村千選−東日本編−」の記述とのずれが生じる残念さとともに,横つながりの大切さが感じられるところです。
落部から道道に入って,二股への林道が分岐する集落の上の湯の学校跡(上の湯小学校,平成5年閉校)も訪ねました。校庭よりも一段高い場所にある木造平屋建ての校舎は,どこか内地の学校と似た雰囲気があります。学校跡はガラス工房として使われていたようですが,人の気配はありませんでした。

# 26-22
二股へ向かう林道は,入ってすぐにダートとなりました。路盤が弱い箇所がありましたが,すれ違うクルマがあるなど,使われている様子です。上の湯から8kmほど,二股の廃校記念碑は,道の傾斜がなくなった林の中に忽然と立っていました。
上の湯小学校二股分校は,へき地等級4級,児童数14名(S.34),昭和32年開校,昭和42年閉校。二股開拓集落は,昭和21年から25年の間に16戸が入植し成立。しかし,荒れた土地は開墾には適さず,昭和35年12月の北海道新聞の記事には「下二股集落は渡島管内一の不振開拓集落で,すでに7戸が去り,残る9戸も生産意欲を失い,絶望的な暮らしをしている」との旨記されています。


# 26-23
二股の学校跡のそばには,ブロック造りの開拓農家の廃墟が残されていました。ラオウさんのお話と「八雲町史」から,この建物は,入植して住宅建築後まもなく離農した農家のもので,昭和32年1月(開校時)からおよそ1年,分校の仮校舎として用いられていたものだとわかりました。
未森さんは小学3年生。学校跡だから往時はこの年頃の子供が賑やかに過ごしていたんだなぁと,ほんのり想像しました。分校は4年生までで,5年生からは約8km離れた上の湯の本校へ通ったそうです。その他,分校跡の敷地では,旗を掲げるためのポールが残っていたのが印象的でした。
6名での合同廃校廃村めぐり,これで最後となったので,二股の廃校記念碑を囲んで,記念写真を撮りました。

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# 26-24
二股からは,林道途中のダムに併設された魚道を見ながら落部に戻り,JR落部駅で一服した後,八雲方面に戻るきたたびさんとふゆをさんのクルマ,函館方面に進むラオウさんとpiroさんのクルマに分かれたのは午後3時頃。
これほどしっかり記念碑を建てた八雲町の行政の方々はすごいです。また,集落ではなく学校が記念碑となりやすい,北海道の地域性を感じた次第です。
4泊5日の北海道廃校廃村探索の旅,夕張市8か所,旧穂別町2か所,八雲町8か所,計18か所(うち初訪14か所)を訪ねることができ,頭の中がいっぱいになったので,最終日,すぐに浦和に帰ることができるように,この日の宿は津軽海峡を越えて青森市街で取ることになりました。

(追記1) 夏路の廃校記念碑です。あまりにもひっそりとしています。

(追記2) 新旧両方の桜野の廃校記念碑です。旧の記念碑を見つけることは至難の技です。

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