合言葉は釜島リベンジ!

合言葉は釜島リベンジ! 香川県直島町牛ヶ首島,岡山県倉敷市釜島

リベンジでたどり着いた釜島(かましま)の分校跡の建物です。



2010/3/6〜7 直島町牛ヶ首島,倉敷市釜島

# 5-1
平成21年1月,岡山県倉敷市 児島諸島(松島,六口島,釜島)へ出かけたとき,所在地の見当がついていながらたどり着けなかったのが釜島分校跡です。
このときの6人組(おきのくにさん,アルプさん,マミーさん,ふたつぎさん,はがねさん,私)の間では「釜島分校跡はいつかリベンジしましょう」という話があって,その後もおきのくにさんと私の間では,「草刈り機があったら何とかなるはず」と,航空写真,分校が記された詳細な地図等,着々と用意を進めてきました。距離や地形を考えると,分校への取り付きは,前回も途中まで藪かきをした東側の砂浜が良さそうです。
そして再訪時期は平成22年3月上旬,宿泊は前回に続いて六口島「象岩亭」に決まり,草刈り機は宿で貸していただくことになりました。

# 5-2
「釜島を再訪するのであれば,近くの別の無人島にも足を運びたい」と頭が働き,ターゲットとなったのは,香川県直島町 直島諸島の牛ヶ首島(Ushigakubijima)です。牛ヶ首島は直島諸島でいちばん北側(本州寄り),面積0.36kuの起伏がある離島です(ちなみに釜島は,面積0.40kuの平坦な離島)。
牛ヶ首島までのチャーター船は,ネットでの検索から絞り込み,彫刻家 よしもと正人さんの牛ヶ首島探訪記に登場する宇野港の大前廻漕店(代表 大前裕さん)にお願いすることになりました。よしもとさんの探訪記には,巨大な日蓮上人涅槃像(顔の長さ12m・高さ8.5m,胴体部分は未完成)が主役として登場しています。石材の産地 瀬戸内の島らしい話なので,集落跡,学校跡とともに,この巨大涅槃像も探索の目標に加えました。

# 5-3
今回の参加者は6人組と,以前長野県飯田市大平,小谷村戸土などの探索でご一緒した愛知県の佐合さん(アオレンジャーさん)を含めて7名です。
平成22年3月4日(木)夕方,東京駅至近の北町ほろよい通りで仕事の打合わせをした後,大阪・堺の実家に移動。5日(金)は年休を取って,入院中の父の見舞いを含めて大阪で一日過ごし,翌6日(土)は朝早くに堺を出発,新大阪駅でふたつぎさん,はがねさん,佐合さんと合流したのは朝8時45分。佐合さんは島の廃村めぐりは初めてとのことで,話がはずみます。しかし,乗り換えの岡山では強い雨が降っていて,先行きに不安が走ります。
JR宇野線のローカル電車に乗って,宇野駅に着いたのは10時38分。駅ではおきのくにさん,アルプさん達に加えて,大前さんも待っていてくれました。

# 5-4
宇野でも雨は降ったままなので,とりあえず,宇野港内の新しいビルで早めの昼食をとり,大前さんとはお昼時に改めて連絡を取ることになりました。昭和63年に瀬戸大橋ができるまで,宇野は本州から四国へ向かう表玄関でした。閑散としているけれど大きな港湾施設や,ビル内の待合室に飾られていた東京と宇野を結んだブルートレイン「瀬戸」や,宇野と高松を結んだ宇高連絡船の写真は,往時の賑わいを想像させます。
幸いにも雨はほぼ上がり,大前さんの11名乗りボード「飄」に乗り込んだのはお昼12時5分。宇野−牛ヶ首島間(約4km)は10分ほど。「飄」は主に離島生活支援船として,屏風島,石島など,宇野近辺の定期航路のない離島への貨物輸送に使われているそうです。

# 5-5
牛ヶ首島に到着し,まず目を惹いたのはしっかりした港の石積み,「火気注意 緑を大切にしましょう 直島町消防団」という古い看板,それと案外新しい家屋です。この家屋は宿泊施設として使われていた様子で,窓を覗き込むと食堂が見えました。
続いて視界に入ったのが,数台の廃車と真ん中が朽ちて崩れた木造家屋です。両端はぎりぎり形を留めており,その様子を見ると分校跡らしいことがわかりました。直島小学校牛ヶ首分校はへき地等級3級,児童数15名(S.34),明治44年開校,昭和34年秋閉校。閉校後,建物は永らく集会所として使われていたようです。また,児童・生徒は,直島までスクールボードで通っていたが,昭和54年に居なくなったとのこと。

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# 5-6
分校跡の向こうにある閉ざされた家屋はしっかりしたもので,少し奥の草をかき分けて進んだ先の家屋には風格がある門構えがありました。
「SHIMADAS」(日本離島センター,H.16)によると,牛ヶ首島は明治9年に塩田の造成があるまで無人島で,戦後は直島精錬所の物資を運ぶ海運業が盛んだったこともあるとのこと。また,大前さんのお話では,海運業で栄えた頃は,直島諸島の中でも豊かな島だったそうです。
港・分校跡は島の南部,神社は島の中ほど,涅槃像は島の北西部と,距離があるので,7人組はやや間をあけながら,それぞれに神社への道を歩きました。途中,時折島に戻られるという浜口さんの家屋には,ネコがいるなど生活感がありましたが,浜口さんにお会いすることはありませんでした。


# 5-7
浜口さんの家屋を過ぎたあたりから道の周囲の草は深くなり,探索というよりも探検という雰囲気になります。そのうちにたどり着いた鳥居が傾いた神社(天満宮)には,神輿が残されていました。今は無人島となった牛ヶ首島にも,往時は神輿を繰り出す祭りが行われていたのですね。
神社から涅槃像までは数百mのはずなのですが,道を見つけ出すことができません。下る道は西側の浜に出てしまいますし,上りの道ともいえない道をたどると,涅槃像らしき巨岩を見下ろすことはできましたが,先は急な崖になっています。大前さんに電話をして,涅槃像が海の上から見える場所から警笛を鳴らしていただくなど,できるだけの努力をしましたが,陸路で涅槃像まで行くことはあきらめることになりました。

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# 5-8
結局,涅槃像は帰路に大前さんのボートに寄り道してもらい,海の上から遠目に見ることとなりました。明治時代に地域の新聞社の方が構想し,昭和57年頃に顔だけが完成したものの,その後は放置されることになった涅槃像。「牛ヶ首島というと涅槃像」と思わせる存在感がありました。
宇野港に戻ってきたのは午後3時半。宇野港から下津井港(六口島「象岩亭」に向かう港)までは,おきのくにさんとアルプさんのクルマで移動です。
昨冬以来 二度目の下津井では,近頃おきのくにさんがはまっているという道路元標を見に行きました。大正8年施行の道路法で,市町村ごとの設置が義務付けられたという道路元標,アルプさんも興味深々とのこと。複数で趣味の旅をすると,いろいろな思いがけない枝葉が生えてきます。

# 5-9
今回の六口島「象岩亭」は,ログハウス風の新館に宿泊です。海の幸たっぷりの夕食をちょうだいしながら,1年強ぶりの再会を祝して乾杯。しかし,外は強い雨が降っていて,「明日,釜島に行けないときはどうしましょう」という話が出るほどです。
それでも資料を片手に廃村・廃校などマニア話に火がつくと,その勢いは止まらず,会は零時過ぎまでだらだらと続きました。
翌7日(日)の起床は朝6時半頃。心配していた雨は上がっていて,ひと安心。天然記念物の象岩にも,朗らかにご挨拶をすることができました。六口島には木造平屋建ての分校跡(下津井西小学校六口島分校)があるのですが,ここには六口島初上陸の佐合さんが単独で訪ねただけでした。

# 5-10
朝食をとった後,象岩亭の宿主さんと釜島行の打合わせをした結果,「東側の砂浜は浅い」とのことで,屋根のない小さなボートで行くことになりました。昼食のおにぎりも宿で作っていただき,準備は万端です。
曇り空の六口島を後にしたのは午前9時半頃。冷たい風を浴びて,柳の谷(六口島分校),瀬戸大橋(下津井瀬戸大橋),松島(下津井西小学校松島分校),釜島・西側の浜を見ながら進むと,「いよいよ釜島リベンジの時が来た!」という実感が湧きます。
釜島・東側の浜への上陸は,船首を砂浜につけてです。今回は草刈り機という強力な助っ人が居て,前回と比べると時間にも余裕があります。

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# 5-11
「HEYANEKO釜島探検隊」,まず,ふたつぎさんのGPS,おきのくにさんの航空写真,私の住宅地図などを組み合わせて,分校跡の位置の確認です。次におきのくにさんは草刈り機の準備,切込み隊(アルプさん,佐合さん)はGPSの協力を得ながら,目印の電柱に向かっての藪かきです。
電柱を過ぎ,左側に進路を変えたあたりで藪は背丈よりも高くなるのは,前回も同じです。この辺りで,切込み隊を含む5名が立ち往生しているうちに,エンジン音も勇ましい草刈り機を持ったおきのくにさんが登場して,隊の先頭となって道を作ってくれることになりました。「探検隊の隊長」こと私は,隊の最後尾でつる草やイバラを引き抜いて道を整えるなど,間合いをおきながらゆっくり道を進んでいました。

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# 5-12
ササが主体の藪がタケ主体に変わり,広葉樹が茂った場所に着いた場所には,廃屋が残っていました。アルプさんのBlog「お気楽アルプ日記」によると,おきのくにさんが廃屋の位置の確認をしているうちに,切込み隊は廃屋の様子を確認しながら藪の中を先に進んで,分校跡までたどり着いたようです。
ひとりで廃屋の様子を見ていると,一段低くなった場所から「こっちにも,何か建っていますよ」とおきのくにさんが声をかけてくれたので,草刈り機の先導でふたり先を進むと,藪の中,ぼんやりとした大きな建物を見つけることができました。念願の釜島分校跡にたどり着くことができた瞬間です。
東側の浜から分校跡までは200mほどですが,藪を切り拓きながら,迷いながらの道中は,ちょうど1時間ほどかかりました。

# 5-13
下津井西小学校釜島分校はへき地等級3級,児童数14名(S.34),昭和30年開校,昭和49年休校,平成元年閉校。建物の左側に回り込むと入り口があって,中に入ることができました。窓がトタンで覆われているため薄暗いのですが,中はさっぱりと片付いていて,教室の雰囲気が保たれていました。
竹に覆われた校庭跡を探索すると,ポンプ式の井戸とブロック造りの門柱が見つかりました。
昨冬行った,塩釜神社や民宿「かましま」で感じられた歴史の深さは,分校跡周辺では感じられませんでした。分校周囲の廃屋は開拓農家の様子ですし,釜島分校が戦後開拓の入植により開校されたことがよくわかります。

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# 5-14
それぞれに探索をしている間,草刈り機が空いたので,私は主にタイル張りの風呂が残る校舎跡の側面のタケを草刈り機で刈っていました。ひもを引いてエンジンを始動させ,草刈り機を使うのは初めてのことで,緊張感が走りましたが,素手では倒せないタケをスパッと切り倒すのは快感です。
草刈り機は「面白そう」とやってきたはがねさんに引き継ぎましたが,その時は心配なので,改めておきのくにさんに使い方の説明をしてもらいました。おきのくにさんも廃村で草刈り機で道を切り拓いたのは初めてとのこと。難度の高い廃村を探索するときには,重宝な代物に違いありません。
そのうちに切り倒しは進行し,建物がしっかり見えるようになってきたので,ひと通りの探索が終わったとき,ここで集合写真を撮りました。

# 5-15
東側の浜に戻って海辺で昼食をとった後,満足感と寒さを同時に感じながら,釜島を後にして下津井港に戻ったのは午後1時半頃でした。
下津井からは,前回に続いて鷲羽山へ行き,展望レストハウスから瀬戸大橋や児島諸島を見ながらひと休みし,アルプさん達とはここでお別れです。おきのくにさんには,岡山市街のスーパー銭湯「ぽかぽか温泉」経由で,岡山駅までクルマで送っていただきました。岡山駅で「明日から四国を旅する」というふたつぎさん,はがねさんと別れ,名古屋駅で佐合さんと別れ,東京駅に単独で戻り着いたのは夜9時半頃でした。
7名で挑んだ「釜島リベンジ」,無事成功し,牛ヶ首島(香川県の廃校廃村)にも行けたということで,廃村全県踏破は残り9県になりました。

(追記) 牛ヶ首島の港,海から見た涅槃像,釜島の籔から見た海側の画像は,アルプさんに提供していただきました。



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