しおかぜに乗って 銅山集落跡へ(2)

しおかぜに乗って 銅山集落跡へ(2) 愛媛県四国中央市古野,甲斐野,
________________________________________中之川,脇之谷,佐々連,城師

旧金砂村 平野橋近くの鎌倉商店前にて,ご主人と私(スーツ+ウインドブレーカー)です。



2010/3/29 四国中央市(旧新宮村)古野,(旧伊予三島市)甲斐野,______
________________________________________中之川,脇之谷,佐々連,城師

# 7-1
愛媛の銅山集落跡をめぐる旅,2日目の目標は,銅山川沿いの四国中央市(旧伊予三島市,旧金砂(Kinsha)村)佐々連(Sazare),新居浜市(旧別子山村)旧別子(Kyuubesshi)です。ともに住友の銅山ですが,佐々連は昭和54年離村,旧別子は大正5年離村(東平に移転),栄えた時期は異なります。
金砂村(昭和29年の合併で伊予三島市)は,過疎の進行度が著しく高い旧自治体で,昭和35年の1008戸・4175名に対して,平成21年は76戸・120名(うち65歳以上の高齢者75名)。6校あった小学校本校は,今は1校も残っていません。銅山川沿いに集中する旧新宮村古野(Kono),旧金砂村甲斐野(Kaino),中之川(Nakanokawa),脇之谷(Wakinotani)と旧富郷村城師(Joushi),計5か所の農山村の廃校廃村をめぐるのも,この旅の大きな目標です。

# 7-2
平成22年3月29日(月),スーツの上にウインドブレーカーを着て川之江グリーンホテルを出発したのは早朝5時。レンタカー(スズキ スプラッシュ 1200cc)のメーターに記された外気温は8℃。堀切トンネルで法皇山脈を越えてR.319に入り,最初の目標 古野に到着したとき,まだ周囲は真っ暗でした。
古野は新宮ダム(昭和50年竣工)建設のため生じた廃校廃村ですが,住宅地図(H.21)にはダム湖沿いに2戸が記されています。
古野小学校は,へき地等級1級,児童数141名(S.34),明治9年開校,昭和49年閉校。クルマを停めてダム湖沿いの中山神社に参ると,神社のすぐそば湖側に「古野小学校跡地の碑」が見つかりました。往時の標札が埋め込まれた石碑には「小学校は,この下100mにあった」との旨,記されていました。

# 7-3
古野橋を渡って,対岸から古野集落を見ているうちに周囲は明るくなりましたが,空は曇りです。2番目の目標 甲斐野は,R.319から中ノ川沿いの枝道に入って2kmほどの場所にあります。まず見つかった建物には,「田邊商店 酒類 日用品 雑貨 学用品」と記された看板がありました。商店からすぐの橋を渡ると,電灯がついたトイレが見つかったので,クルマを停めて歩いて坂道を上がると,あっけなく学校跡の建物が見つかりました。
久保ヶ市小学校は,へき地等級1級,児童数87名(S.34),明治10年開校,昭和46年閉校。建物には「甲斐野集会所」という看板があるので,小学校の所在地は甲斐野,久保ヶ市(Kubogaichi)は校区内の集落名と捉えています。古びた木造校舎を見ながら,丸太に座ってパンをつまんで朝食休みです。


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# 7-4
住宅地図(H.21)に記された甲斐野の戸数は4戸ですが,これらはすべて少し山に入ったところにあり,学校周辺には家屋は見当たりません。甲斐野集落の様子をうかがうのはあきらめて,3番目の目標 中之川へ向かいました。甲斐野からは中ノ川沿いの枝道をさらに6kmほど上がります。道を走っているときは「この先,何があるの」という雰囲気でしたが,たどり着いた中之川には山間らしくない開けた空間がありました。
中之川小学校(のち久保ヶ市小学校中之川分校)は,へき地等級2級,児童数43名(S.34),明治10年開校,昭和45年閉校。サクラの花が咲く整備された学校跡には中之川集会所があり,傍らの集会所建設記念碑には「平成6年建設」との旨,記されていました。

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# 7-5
住宅地図(H.21)に記された中之川の戸数は7戸ですが,学校周囲の家々には人の気配はありません。少し上手の新田神社のほうにも足を運ぶと,一軒だけクルマが停まった家が見当たりました。40分ほどの中之川の探索でいちばん印象に残ったのは,お墓の跡に無造作に置かれた蜂蜜採取用の樽でした。
4番目の目標 脇之谷に向かう途中,中之川−甲斐野の戻り道では,木材を積んだトラックとはち合わせましたが,幸いこの焦りは一回で済みました。
大藪小学校は,へき地等級1級,児童数37名(S.34),明治10年開校,昭和48年閉校。学校跡は大藪橋で銅山川を渡った北側,橋より少し上手の川沿いにあります。このため,小学校の所在地は川の北側の集落名 脇之谷,川の南側の大藪(Ooyabu)は校区内の集落名と捉えました。

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# 7-6
学校跡は門柱,校舎,錆びた遊具が残っていて,校庭には蜂蜜採取用の樽が置かれていました。脇の無人の家屋は教職員住宅だったのかもしれません。
住宅地図(H.21)に記された脇之谷の戸数はゼロで,学校周辺に残る無人の家屋は2戸。学校跡から少し先に進むと,道に鎖が張られていて,その先には数戸の家屋が見えました。クルマを降りて近づいてみると,家屋は枯れ草が絡まっていて,手入れされなくなってから久しい印象を受けました。
脇之谷からは大藪橋,柳瀬ダム(昭和28年竣工)を通過して,かつて郵便局があった岩鍋(Iwanabe)で小休止。郵便局跡らしき建物には,「岩鍋山荘」という標札がかかっていました。また,旧金砂村役場は岩鍋に近い横籔(Yokoyabu)にありましたが,横籔集落はダム建設により水没した様子です。

# 7-7
まとまった戸数がある集落 上小川でR.319から枝道に入り,5番目の目標 佐々連銅山集落跡に到着したのは朝10時。まず目に入ったのは,住友金属鉱山佐々連事務所の「立入禁止」の看板です。住宅地図を見ると,柵の向こうには事務所と廃水処理施設,調整池がある様子です。
佐々連小学校は,へき地等級2級,児童数470名(S.34),大正15年開校,昭和53年閉校。事務所を過ぎてすぐ,無人集落を走る道には横断歩道が残っており,学校跡はそのすぐそばにありました。敷地では「伊予三島市立」「佐々連小学校」という標札が入った門柱が横倒しになっていて,その上には蜂蜜樽が置かれていました。また,「なかよく たくましく」と書かれた台座の上にも蜂蜜樽がありましたが,往時は何かの像が立っていたのでしょうか。

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# 7-8
小学校跡の先には社宅街跡,鉱山施設の跡,「佐々連鉱山碑」などがありましたが,廃村めぐりの眼ということで,前日の鹿森に引き続き,社宅街跡の階段,かまどの観察などを追いかけて歩きました。鹿森では見かけなかったタイルが貼られた水回りの施設は,内風呂のような感じがしました。
佐々連から上小川まで戻り,狭いR.319を進むと,視界が開けて平野橋の三差路(地形図上の集落名は灰原瀬)に到着しました。R.319は右折して法皇トンネルを経由して伊予三島市街に向かいますが,旧別子山村に向かうのは直進の県道です。どちらの道もこれまで走ってきたR.319よりも立派でした。
三差路には昔ながらのお店(鎌倉商店)があったので,カップラーメンを買って昼食休みです。温かな食べ物にありつけて,とても幸せです。

# 7-9
店の中でラーメンを食べているうちに,ご主人(鎌倉重清さん)とお話をすることができました。鎌倉さんは大正10年生まれ(89歳)の中之川出身の方で,ボランティアで地域のひとり暮らしのお年寄りのもとに定期的に通っているとのこと。後日の鎌倉さんとの手紙のやり取りで,「岩鍋山荘」は横籔から移転した金砂村役場として使われていた時期があることがわかりました。
6番目の目標 城師がある旧富郷村(昭和29年の合併で伊予三島市)の過疎の進行度も高く,昭和35年の338戸・1668名に対して,平成21年は82戸・151名(うち65歳以上の高齢者88名)。山間部にある農山村主体の自治体が,平地部の都市に合併された場合,過疎が進行するという典型的な例です。

# 7-10
城師小学校は,へき地等級3級,児童数95名(S.34),明治10年開校,昭和61年閉校。城師は富郷ダム(平成12年竣工)建設のため生じた廃校廃村で,県道に城師バス停,城師トンネルがあり,学校はトンネルを越えてその先少し上手にいったところに水没している様子です。
住宅地図(H.21)に記されたダム湖沿いの3戸は林業関係の社宅で,住む方に声をかけたのですが,往時の集落の様子はわからないとのことでした。
最後の目標 旧別子がある旧別子山村は,最小規模の自治体として有名でしたが,平成15年に新居浜市に編入されました。人口は昭和40年の1816名に対して,平成21年は112戸・202名。旧別子山村役場(現新居浜市別子山支所)の前には,編入時にできた「別子山村閉村記念碑」が構えていました。

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# 7-11
旧別子に来たのは,平成12年8月以来10年ぶり。明治期の遺構が残る案内板が整った山道を歩いているうちに,雪がちらついてきました。15分ほどでたどり着いた小足谷接待館跡のレンガ塀は,10年前と変わっていませんでした。同時に,私の廃村めぐりの情熱も10年間続いたことが確認できました。
旧別子からは大永山トンネルを越えて,「マイントピア別子」でお土産を買って,新居浜市街に戻りレンタカーを返却。19時間借りて走行距離は164km。
駅前でうどんを食べて一服すると,収穫の多さに気分も上々です。特急「しおかぜ」に乗ってJR新居浜駅を出発したのは午後3時35分。瀬戸大橋を渡り,岡山で新幹線に乗り換えて東京駅に到着したのは夜8時53分。夕食は「しおかぜ」の車中で買ったタコ飯を,静岡を通過するあたりで食べました。



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