備後の空港・ダム廃村と 1番目の取材旅

備後の空港・ダム廃村と 1番目の取材旅 広島県三原市用倉,世羅町八田原

駅があった廃村 八田原(はったばら)の,ダム湖沿いに移設された往時の駅名標です。



2011/5/27 三原市(旧本郷町)用倉,世羅町(旧甲山町)八田原

# 16-1
「廃村 千選U −西日本編−」の冊子が,市販本「廃村をゆく」とともに完成したのは平成23年5月23日(月)。市販本の製作に係わることで得た記事づくりのノウハウを活用すべく,平成24年夏完成予定で次の私家版の冊子「廃村 千選V −集落の記憶−」の製作を本格化させることになりました。
冊子の目玉記事「集落の記憶」の取材で最初に行くことになったのは,愛媛県旧伊予三島市中之川(Nakanokawa)と徳島県旧穴吹町空野(Akino)です。
「せっかく西に行くのなら…」と,欲張りになるのはいつものことです。検討の結果,目指すことになった廃村は,瀬戸内海を挟んだ愛媛県の対岸,未訪県のひとつ広島県の三原市(旧本郷町)用倉(Youkura)と,世羅町(旧甲山町)八田原(Hattabara)です。

# 16-2
戦後の緊急開拓によって入植が行われた用倉は,広島空港の建設(平成5年開港)に伴い,昭和62年に無住化しました。また,かつてJR福塩線の駅があり,平家の落人伝説が残る農山村 八田原は,八田原ダムの建設(平成9年竣工)により,昭和57年に移転が行われました。
空港建設に伴う廃村は,用倉と箕島(長崎県)の2か所です。また,駅があった集落の廃村(北海道を除く)は,八田原と大荒沢(岩手県)の2か所です。
「用倉には飛行機で行って…」,「八田原には福塩線の最寄り駅(河佐駅)から歩いて行って…」と,煮詰めた結果,旅の行程は,中之川,空野,さらに母方の実家がある淡路島,大阪の実家に足を運び,さらに関西出張(大阪・京都)の仕事をこなすという,とても欲張りなものになりました。



# 16-3
平成23年5月27日(金)は年休取得。曇り空の南浦和を未明4時50分に出発し,羽田発広島行の飛行機に乗り込み,広島空港に到着したのは朝8時10分。不運にもこの日梅雨入りした広島ですが,天気は曇りです。五万地形図(竹原,S.43)と住宅地図(本郷町,S.59)を調べたところ,用倉の分校跡は,空港のターミナルビルを出て,歩いて10分ほどの距離です。もしかすると用倉は,「廃村千選」の中でいちばん行きやすい廃村かもしれません。
北方小学校用倉分校は,へき地等級2級,児童数35名(S.34),昭和26年開校,昭和50年閉校。分校跡は,広島エアポートホテルの敷地の一部になっていて,芝が植えられた庭にはモニュメントが見られましたが,「この地に学校があった」ことを示すものではありませんでした。

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# 16-4
広島空港の周囲は,公園(中央森林公園)として整備されており,地図を見ると用倉の集落跡はすべて公園になっている様子です。「何か目標を定めよう」ということで,管理棟(公園センター)に立ち寄り,職員の方に「開拓集落 用倉について調べているのですが,何か痕跡はありませんか」と尋ねたところ,年配の方から「バーベキュー広場のそばに往時の畑の石垣がある」との答をちょうだいしました。
10分ほど歩いて到着したバーベキュー広場の裏手の山には,確かに石垣はありましたが,往時を偲ぶというほどのものではありません。戻り道は用倉大橋を渡るサイクリングロードを歩くと,橋と公園センターの真ん中あたりの左手に,ビニールハウスの骨組みが見つかりました。

# 16-5
思いがけず往時を偲ぶものに出会えたので,改めて公園センターに立ち寄ると,年配の方は留守でした。先にご挨拶をした若い女性職員に「近くにビニールハウスの骨組みがありますね」と話すと,「そうですか…」というお返事でした。
「本郷町史」には,昭和21年,広島県緊急開拓事業により用倉地区は開拓地に指定され,海抜550mの丘陵に最盛期には55戸が入植したと記されています。開拓地では稲,麦が作られ,特産物としては木炭,椎茸があったとのこと。戦後の開拓集落の中では規模が大きく,かつ成果も上がっていた用倉集落でしたが,昭和58年に新空港の建設候補地に決まり,昭和61年には設置が認可され,移転を余儀なくされたとのことです。

# 16-6
用倉集落跡(中央森林公園)の探索は1時間20分ほど。集落に係わる方には出会うはずはなく,公園の利用者にも出会いませんでした。
広島空港からJR福塩線河佐駅まで行くには,高速バスで福山に出るのがよさそうです。調べてみると,福山の手前の千田BS(高速バス停)からJR横尾駅までは1kmほどということがわかりました。私は高速バスとは縁が薄く,路線途中の小さな高速バス停はどんな様子なのか興味が湧きました。
広島空港バスターミナルを出発したのは午前9時40分発。到着した千田BSは気まぐれな旅では下車することはない雰囲気で,扉を開けて階段を降りると平凡な住宅地がありました。千田BSから15分ほど歩いてたどり着いた地味で小さな無人駅 横尾駅は,通勤・通学にはよく利用されている様子でした。

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# 16-7
神辺で途中下車してざるそばを買って,府中発三次行のディーゼル車の中でそばを食べて,河佐駅に到着したのは午後12時27分。小さな無人駅ですが,駅前には古い商店がありました。八田原ダムへ続く道は峡谷(河佐峡)になっており,気分よく歩くことができます。
八田原ダムの建設に伴い,福塩線旧線(河佐−八田原−備後三川)が廃止されたのは平成元年のこと。新線の八田原トンネルの近くからは,旧線を利用した歩道が整備されており,枕木が敷き詰められた歩道は遊び心をくすぐります。パークゴルフ場を過ぎると,先には八田原ダムの堤体がそびえ,旧線跡の歩道はトンネルの入口の所で終わっていました。「トンネルの反対側はダムの底になっている」と考えると,味わい深い造りです。


# 16-8
八田原ダムの堤高は85m(堤底の標高は190m)。ダムの中にはエレベータがあって,楽ができます。堤体近くのダム湖(芦田湖)沿いには資料館と湧き水の汲み場があって,その先には水没記念碑(離村記念碑)が立っていました。
碑には「国は,昭和44年に治水・利水を目的としたダム建設を計画した。民家48戸が湖底に沈み,住み慣れた墳墓の地を失うことに涙するも,時代の流れにはいかにもしがたく,昭和57年3月にこの里を離れることとなった」との旨が記されていました。
ここまで何とかもってくれていた天気ですが,梅雨入りにふさわしく弱い雨が降り始め,離村記念碑から先は傘をさしながらの探索となりました。


# 16-9
八田原ダムからは河佐駅には戻らず,最寄りのバス停(宇津戸下)までの道程を歩く計画です。歴史民俗資料館と神社を目指しながらダム湖を回ると,ダム堤体から宇津戸下バス停まではおよそ8kmです。
資料館入口の駐車場の脇には,唐突に往時の八田原の駅名標が立っていました。八田原駅の開設は昭和38年,住民の陳情が実って開設された駅ですが,昭和57年にダム建設のため集落は移転し,駅は平成元年に廃止となりました。また,伊尾小学校八田原分校は,へき地等級1級,児童数11名(S.34),昭和23年開校,昭和39年閉校。駅は旧線跡や駅名標により,存在感を醸し出していましたが,分校の記念碑などを見つけることはできませんでした。

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# 16-10
一時期食事処を併設していた歴史民俗資料館は,平成21年に休館となったようです。資料館の脇にも駅名標が立っていたので,記念撮影をしました。
雨は資料館を出発した辺りから本降りとなりました。神社は車道から湖のほうへ下ったところにあり,入口には「関係者以外立入禁止」という札がありました。「個人の山林です。山への立入りはできません」という立て札が随所に見られるダム湖のほとりを,私は傘をさして足早に歩きました。
無住地から宇津戸集落にたどり着き,ホッとしながら宇津戸下バス停に到着したのは午後4時頃。バスが来るまで少し時間があったので,隣の宇津戸小学校前バス停まで歩いたところ,校舎には「ありがとう!宇津戸小学校」という幕がかかっており,小学校はこの春閉校になったことがわかりました。

# 16-11
宇津戸小学校前からは尾道駅前までバスに乗り,尾道で因島(土生)行のバスに乗り継ぎ,さらに因島重井BSで今治行の高速バスに乗り継ぎました。瀬戸内海(しまなみ海道)の夕焼けを楽しむ計画は崩れましたが,この日宿泊の伊予三島のビジネスホテルには,予定通り到着することができました。
翌5月28日(土)は,伊予三島で鎌倉重清さんにお会いして中之川のお話をうかがい,現地(黒蔵,中之川)にも行くことができました。夕方には穴吹へ移動して,田浦春夫さん夫妻にお会いして空野のお話しをうかがいましたが,台風2号接近による大雨のため,空野を再訪することはできませんでした。
3泊4日の旅の道中は雨続きでしたが,広島県の廃村訪問と中之川,空野の「集落の記憶」の取材は無事完了し,廃村全県踏破は残り5県になりました。

(追記) 「廃村 千選V −集落の記憶−」は,冊子「廃村と過疎の風景(6) 集落の記憶」として,平成24年9月に完成しました。



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