西海の炭鉱跡と空港の島めぐり

西海の炭鉱跡と空港の島めぐり 長崎県西海市崎戸炭鉱,大村市箕島

炭鉱町 崎戸炭鉱(菅峰)に残る,RC造三階建ての小学校跡の建物です。



2012/4/10 西海市(旧崎戸町)崎戸炭鉱,大村市箕島

# 21-1
平成24年春の山口・九州の旅,前半は,山口県向畑の取材・廃村探索,佐賀県山瀬の廃村探索,長崎市での端島の取材と,目まぐるしく進みました。そして後半は,炭鉱があった島 旧外海町池島,旧崎戸町崎戸炭鉱(Sakito-tankou)と,空港建設で無人化した島 大村市箕島(Mishima)を目指しました。
最初に池島を訪ねた平成12年11月には,まだ炭鉱が操業していて,午前4時,午前5時,午前6時と三交代勤務のサイレンが響き渡ったものでした。
2度目の平成15年3月(閉山から1年半)は,まだ賑わいが残っていて,「やきとり江夏」のおかみさんに連れられて「スナックマキ」へと出かけました。
3度目の平成17年3月は,keiko(妻)と一緒に急きょ訪問。「やきとり江夏」は閉店していて,強い風の中に雪が混じる早春の寒さが記憶に残りました。

# 21-2
4度目の今回は,旅の4日目(4月9日(月)),旅人宿「カピタン」のご主人(竹内修一さん)と二人での訪問です。観光ツアー「池島炭鉱さるく」の開始は池島港午前10時45分。32名の団体さんと一緒になって,坑内トロッコ観光は少しやりにくかったけれども,賑わいがあるのはよいことです。
夕方までは,竹内さんと私の2人の観光。三井松島リソーシスの若葉谷三秋さんに観光用炭住の部屋を案内していただき,長崎市地域おこし協力隊の小島健一さんに島一番の高所(四方山)などを案内していただきました。端島には詳しい竹内さんですが,池島は初めて。楽しんでもらえてよかったです。
そして夜は「スナックマキ」へ足を運び,ママと9年ぶりに再会。途中から小島さんにも加わっていただき,賑やかに過ごしていると午前様になりました。


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# 21-3
旅の5日目(4月10日(火)),起床は朝6時30分。天気は曇。小学校に近い「池島中央会館」は初めてでしたが,泊まり心地はよかったです。最盛期(昭和45年)には7800人,平成12年11月でも3800人だった池島の人口は,今は300人弱。池島は,炭鉱町の盛衰と町跡の今を肌で感じられる大切な場所です。
朝食のパンを食べ,「池島中央会館」から港まで歩き,池島を後にして松島経由で30分ほど高速艇(西海沿岸商船)に乗船し,肥前大島に到着したのは午前9時8分。大島には大きな造船所があり,池島−佐世保間で立ち寄る景色は印象には残っていますが,下船するのは今回が初めてです。
大島港で荷物を預けて,崎戸本郷行きローカルバス(さいかい交通)に乗って,目指す崎戸炭鉱の炭鉱町跡(末広バス停)までは30分ほどでした。

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# 21-4
大島と狭い海峡で隔てられた蛎浦島(Kakinourashima)にあった崎戸炭鉱は,明治40年開鉱。昭和15年からは三菱の経営下になり,炭鉱町の最盛期(昭和30年頃)には2万人を超えていたが,昭和43年に閉山。現在の蛎浦島の人口は約1400人ですが,炭鉱町があった島の中央部にある家々はわずかです。
炭鉱町の跡地には,平和寮,美崎アパートという有名な遺構がありましたが,平成19年から21年にかけて解体されたと耳にしました。 炭鉱町の学校跡(昭和小学校)は「RC造三階建ての校舎が残る」という情報があったのですが,残っているとも,取り壊されたとも,はっきりしたことはわかりません。
ただ,バスの車窓,末広バス停の少し手前,道の左側の森の奥に建物が見えたので,比較的早く「これに違いない」と確信を持つことができました。

# 21-5
昭和小学校は,昭和5年開校。 最盛期(S.34)には,51クラス2720名を数え,長崎県で二番目の規模を誇りました。そんな巨大小学校も,崎戸炭鉱(二坑)の閉山とともに昭和43年に閉校となりました。 一坑は昭和39年に閉山しており,最終年度(S.42)の児童数は373名でした。
比較的早く見つけることはできたものの,手前にある森を抜ける道がわかりません。探索できる時間は限られており,少々心配になりました。
末広バス停のそばから,丘を上がる道があり,「危険に付,社有地への立入を禁止します」と記された三菱マテリアルの看板があったので,「ここから行けるはず」と思ったのですが,丘に登り着いた後は下りの道となって,たどってみると裏手の海に近づくばかりでした。

# 21-6
バス停から少し戻る方向に歩くと新しい住宅が数軒立っていて,道はないもののこの辺りが最短距離の様子です。昭和小学校が裏手にあると思われる緑の塊の中にサクラが咲いていたので,これを目印にして,藪をこいでみることにしました。 藪こぎではイバラがなんぎでしたが,うまくかわしながら歩くと,15分ほどで昭和小学校の校舎が視界に入り始めました。じわじわはっきりと見えてくる,至福のひとときです。
たどり着いてみると,校舎のそばの雑木は切られたばかりでした。 手入れしたのは,地元の有志か,気合いが入った廃墟フリークか,ともあれ,様子がよくわかって,ありがたかったです。教室,廊下,階段と探索しましたが,あっけらかんと,綺麗に残っていました。

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# 21-7
校舎の屋上に上がってみると, 三階の裏手から丘に向かって渡り廊下があることがわかりました。その立体的な構造は,ちょっと端島(軍艦島)に似ています。渡り廊下の屋根の端っこから真下を見下ろすと,なぜか門柱が1本立っていました。門柱の横の雑木も,綺麗に伐採されていました。
「崎戸セピア」Webで昔の写真を見ていたら,門柱がある上側の丘には運動場があって,下側の平地には木造平屋建て校舎が建っていたようでした。管理者の方は昭和19年生まれで,「RC造の校舎は,記憶にない」と記されていたので,校舎は昭和32年〜33年頃に建ったもののようです。
改めて地形図を見ると,炭鉱町から学校に通じる道は水浦からと菅峰からとの2本あって,藪こぎをした場所に道はありませんでした。

# 21-8
昭和小学校からは,来た方向に藪をたどってバス通りに戻り,「33°元気ランド」という大きな芝生の広場を歩きました。かつては炭鉱住宅がたくさん建っていた崎戸炭鉱居住区の中心で,今も三菱マテリアルの社有地とのこと。福浦の崎戸炭鉱資料館を目指して,芝生広場を横切り,芝生と茂みの境目まで到達すると,プールの跡が見つかりました。島のプールらしく,往時は塩水が入っていたとのことです。
塩水プール跡から炭鉱資料館の方向に続く森を抜ける小道をたどってみると,右手に趣がある建物が見つかりました。炭鉱資料館の方に建物について尋ねたところ,「かつては駐在所だった」と答えていただきました。

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# 21-9
炭鉱資料館からは,高峰の現役アパートにも立ち寄りました。平和寮,美崎アパートも,こんな感じの建物だったのでしょう。残っていてほしかったところです。高峰バス停からバスで大島港に戻ったのは午後2時15分。久しぶりに冒険心をかきたてられた約3時間半の崎戸炭鉱の探索でした。
大島港からは高速艇で佐世保に出て,JR大村線のローカル列車で大村駅に到着したのは夕方4時22分。大村からはバスに乗って長崎空港に行くということで,通常だと廃村めぐりの旅は終わっているのですが,長崎空港はかつての有人島 箕島の集団移転によって造られた空港です。本木修次さん著の「無人島が呼んでいる」には,「箕島には13戸66人が暮らしていたが,昭和47年,空港建設に伴い全員が大村市街に移転した」と記されています。

# 21-10
長崎空港は昭和50年,箕島手前の海を埋め立てることで,世界初の海上空港として開業しました。空港の所在地名は箕島町,通じる橋の名前は箕島大橋です。私が初めて長崎空港に来たのは平成7年12月,今回は5度目ですが,来る度に「箕島集落にかかわるものは何かないか」と気になっていました。
3月下旬,大村市役所の方にWebを通じて箕島について問い合わせをしたところ,「長崎空港(箕島)は県有地となっており,市では詳しいことはわからない」とのことでした。しかし,「空港施設にも碑があるようだが,開放される日以外に立ち入ることはできない」,「大村市内の前船津公民館に箕島に関する資料館がある」,「毎年春に,島に住まれた方々が慰霊祭を行っている」など,興味深い情報を提供していただきました。

# 21-11
西大村小学校(のち大村小学校)箕島分校は,へき地等級2級,児童数22名(S.34),明治38年開校,昭和47年閉校。往時の箕島は,二つの山が狭い地峡でくっついたような形をしており,分校は空港から見て地峡のやや右寄りにありました。私は、空港に隣接した時津行き連絡船の二階待合室から左側の山に施された「NAGASAKI」という緑の文字を見ながら,「あの山の麓のどこかに,箕島の暮らしがあったんだなあ」と想いを馳せていました。
長崎空港発午後6時5分の飛行機(スカイマーク)は,神戸空港を経由して,午後9時少し前に羽田に戻りました。旅の道中はやや詰め込み過ぎの感がありましたが,向畑,端島の「集落の記憶」の取材とともに,未訪県 佐賀県の廃校廃村を踏破することができました。



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