活火山とともに生きる高度過疎の島

活火山とともに生きる高度過疎の島 鹿児島県鹿児島市新島

高度過疎の島 新島(しんじま)に残る分校跡の建物です(午後2時20分頃)。



2013/4/1 鹿児島市(旧桜島町)新島


◎ 1 事前情報
新島(しんじま),別名 燃島(もえじま)。面積0.13平方q,周囲2.3km(軍艦島の約2倍),南北750m,東西400m。人口は,7戸12名(2000年国勢調査),5戸6名(2011年地図インフォ)。所在地名は,鹿児島郡桜島町赤水字新島(1973〜2004年),平成の大合併後は鹿児島市新島町。
錦江湾内,桜島の北東1.5kmに位置するほぼ楕円形の比較的平坦な島(最高標高43m)で,安永の桜島大噴火(1780年)のときに隆起してできた。桜島の火山灰が堆積した痩せた土壌であることなどから,耕地はほとんどなく,生業は漁業である。戦後,最盛期には人口250名を数えた。
桜峰小学校新島分校は,へき地等級1級,児童数25名(S.34),明治33年開校,昭和47年閉校。児童数,最終年度(昭和46年度)は8名。

◎ 2 宿(海潟温泉)から新島まで
平成25年4月1日(月),天候は晴,起床は午前5時半。垂水市海潟温泉の宿出発は午前6時10分。食料は海潟のコンビニで調達。朝食はパン2個とミルク,昼食は島の方にお湯を借りることができたとき用にカップ麺を,できないとき用におにぎり2個を購入。あと,お茶を1リットル用意した。
海潟から港(浦之前港)まではおよそ15km。鹿児島市が運営する行政連絡船は日に2便(週5日)の運行。出発は午前7時と午後3時なので,島での滞在はおよそ8時間だ。「少し迷うと乗り遅れる」と思うと緊張感が走るが,浦之前の高台から初めて見えた新島の写真を撮って,6時50分に港へ到着。
港には釣りの格好をした若い男子3人組がいて,新島行きの船のことを尋ねると,彼らも新島に行くとのこと。船(しんじま丸)の乗船時間は6分だった。


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◎ 3 滞在1時間目(およそ午前7時〜8時)
上陸は船の舳先から。新島の港には島のおばあさんが待っていて,4人組と入れ替えに乗ったと思えば,しんじま丸はすぐに桜島へと戻って行った。
漁港らしい広いコンクリのスペースには,人が広げたのか打ち上げられたのか定かではない海藻が広がっていて,その先の比較的新しい建物は公民館(桜峰校区公民館新島分館,平成10年建設)で,施錠されていた。3人組は防波堤のほうへ歩いて行って,私はとりあえず公民館の階段に荷物を置いた。
手元の住宅地図(H.24)の新島の名前が入った家屋は3戸。どんな様子か見に行くと,1戸は窓越しにおじいさんと目があった。「こんにちは」と声をかけてもこれでは通じない。1戸は洗濯物が干してあるけど留守らしく,庭の隅に静かなイヌが居た。もう1戸は閉ざされてしばらく経った雰囲気だった。


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◎ 4 滞在2時間目(およそ午前8時〜9時)
午前8時,公民館の階段に戻って,桜島と漁港の風景を見ながら朝食。3人組は防波堤をちょこまか歩いている。そのうちに,港に小さな船(第2たか丸)が着いて,サカナが入った網をもった漁の方(60代ぐらいの女性)が下りてきた。「こんにちは」と声をかけたら,歩きながら会釈をしてくれた。
食後,再び集落探索に出かける。堤防沿いの道(堤防通り)を歩くと,白い1匹のネコを発見。愛想がよいわけではないが,逃げて隠れるでもない。
南側の道(第二通り)から左手に入る枝道沿いにはいくつかのお墓があって,表面に火山灰が積もった造花が飾られていた。お墓がある枝道は北側の道(本通り)に続いていて,三差路の周囲ではブロック塀で囲まれた屋敷跡が見られた。本通りから堤防通りに戻ると,ネコは3匹に増えていた。

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◎ 5 滞在3時間目(およそ午前9時〜10時)
午前9時,公民館の階段に戻ってから,いざ,分校跡へと出発。ネコ3匹のうち2匹が途中まで付き合ってくれた本通りの行く手は,トンネルのような茂みになっている。これを抜けると右手に小さな畑があって,リヤカーが止められていた。まさか分校近辺で島の方と会うことになるとは思わなかった。
分校跡の前にはツワブキを取るおばあさんがいて,ご挨拶をしてから「この建物は分校ですか?」と尋ねると,「わからん」というお返事だった。
校舎(昭和42年建設)はRC造平屋建てで,右側には京大防災研究所の火山観測所がある。校舎の中には4部屋あって,おそらく教室2部屋と給食室,職員室。建物自体は比較的落ち着いていたが,周囲は荒れていて,灰が積もった茂みをかき分けながら校舎の回りを歩くと,外付けのトイレは大破していた。


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◎ 6 滞在4時間目(およそ午前10時〜11時)
分校の隣の神社(五社神社)にご挨拶をして,本通りの末端(東側の海岸に向かう道)を途中まで確認して,午前10時,また公民館の階段に戻る。堤防通りの3匹のネコは日だまりで佇んでいた。桜島にかかった雲(もしくは噴煙)は少し薄くなって,噴煙が火口から出ている様子がはっきりしてきた。
ぼんやり桜島を見てすごしているうちに,第2たか丸の漁の方が戻ってきて,コンクリスペースに広がる海藻の手入れを始めた。朝方に踏んづけて歩いたことを心の中で謝ったが,風が吹くと海藻から火山灰が舞い上がっているのを考えると,踏んづけたことに問題はなさそうに感じた。
携帯電話は通じていたが,場の雰囲気にはなじまず使う気になれず,公民館の階段に座って島から空港までの行程計画を練ったりして過ごした。

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◎ 7 滞在5時間目(およそ午前11時〜12時)
空港までの行程案ができたところで,南側の海岸を訪ねてみようとなった。防波堤には,釣り3人組の荷物が置いてあることもあって,足を運ぶ気にはならなかった。堤防通りでは,3人組のひとりとすれ違ったので,「帰りの船は3時でした?」と声をかけると,「確か3時だったはずです」とのお返事。
新島をほぼ全体に見られるテトラポットによる護岸は,波による浸食を防ぐため,昭和41年から離島振興法の適用を受けて施されたものとのこと。南側の岬のような一角(スサキ)は,テトラポットの護岸が切れて砂洲が広がっていて,ここから見る桜島もとても風情がある。人の気配は皆無で,天気は晴れ,気温は暑くも寒くもない。砂洲にはペットボトルなど,いくつかの漂着物が散らばっていたが,隅のほうに集めると,5分ぐらいで綺麗になった。

◎ 8 滞在6時間目(およそ午後12時〜1時)
お昼になったので定点の公民館の階段に戻ると,第2たか丸はいなくなっていた。釣り3人組は,相変わらず防波堤をちょろちょろと歩き回っている。暖かく感じられたので,階段そばの柵にジャンバー,トレーナー,シャツを干して,半袖でおにぎり2個を持って,再び南側の海岸に向かった。
砂洲のそばの三角形の標識は,海底にケーブルが通っていることを示したもので,白一色のもの2本はNTTが,黄色が混ざったもの2本は九州電力が立てたものとのこと。船から見るとよく目立つし,島に行くとよく見かける標識だが,注意の看板をしっかり読むのは今回が初めてのこと。南側の岬の防波堤に座って,春の日差しを浴びて食べるおにぎりは格別だ。防波堤から浜辺を見ると,1時間ほどの間に潮はずいぶん引いていた。

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◎ 9 滞在7時間目(およそ午後1時〜2時)
南側の岬の防波堤から崖を上がる階段が見えたので登ってみると,桜島町が設立したという簡易水道施設の建物があった。さらに高いところへと続く道らしきものがあったのでたどってみると,そこにも簡易水道施設の建物があった。2段目は,おそらく新島の最高標高(43m)地点だ。
後で調べたところ,この施設は昭和57年に完成したもので,新島の水道は本土並みとのこと。新島の国勢調査の人口は,S.45=87名,S.50=40名,S.55=26名,S.60=22名,H.2=18名,H.7=13名,H.12=12名,H.17=5名,H.22=4名と,この40年で見ても,眼をひく割合で急減している。南日本新聞(鹿児島の地方紙)で「無人化の恐れ」という記事(H.23.5)があることもわかった。新島は,鹿児島では過疎問題の象徴なのかもしれない。

◎ 10 滞在8時間目(およそ午後2時〜3時)
公民館の階段に戻ると,第2たか丸の姿があって,漁の方が海藻をかき集めていた。近くに出荷用の袋が置かれていたので,ヒジキということがわかった。漁の方にも一言かけたくなって,「帰りの船は3時でした?」と声をかけると,「ろっぷん!」と両手を使いながら返事してくれた。
帰る時間が迫ってきたので,いま一度ひと通り歩いておこうと,第二通りからお墓を通って本通りへ進み,分校跡,神社で一服して,草をかき分けて東側の海岸に向かう道を下りきった。分校跡の建物は,光の加減のせいか,午前中よりもしっかりと見える。自動車はなく,自転車もない,クルマといえばリヤカーぐらいの新島は,お散歩天国だ。住宅地図に記した新島の家々の状況をまとめると,現住が2戸,空家が6戸,屋敷跡が5戸だった。


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◎ 11 新島を離れて
3時を過ぎたので,柵に干したジャンバーなどを取り込んで,身繕いをする。釣り3人組ものんびりと港に向かってきた。やがてしんじま丸がやってきて,8時間過ごした新島とお別れ。下船の時,船長に「おいくらですか?」と声をかけると,「にひゃくえん!」との返事がきた(200円は往復の値段)。
新島の8時間は,人間本来のゆったりしたペースに包まれていたせいか,すんなりと消化できた。強い日差しのもと,電子機器はいらない。しかし,桜島の存在感はすごかった。どんどん変わるその見え方に,一年見ていても飽きることはないだろうと思った。住民の方々は島の風景の一部のようで,話をする気が起こらず,ひと声おかけするぐらいがちょうどよかった。「カップ麺のお湯を頼む」は絵にかいた餅だった。


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◎ 12 浦之前港から牛根埋没鳥居まで
浦之前港で釣り3人組とあいさつをして別れたのは午後3時20分。桜島の観光は,埋没鳥居を訪ねることに特化した。浦之前集落では,道沿いにしっかりした屋根の待避壕があって驚く。桜島内,黒神埋没鳥居は県道沿い,中学校の敷地に混ざり合うようにしてあった。大隅半島に渡って垂水市,牛根埋没鳥居はR.220から少し入った見晴らしの良い場所にあった。黒神の鳥居は観光客の姿が絶えなかったが,牛根の鳥居は静かで素朴な風景の中にあった。
2つの鳥居を埋没させた大正3年の大噴火では,桜島と大隅半島が熔岩でつながった。熔岩で埋まった集落は壊滅。黒神は昭和21年の大噴火でも壊滅したが,その地に今の集落がつくられている。この数年,1年365日噴火し続けている桜島の周囲の集落は,活火山とともに生きているという印象を受けた。



◎ 13 牛根埋没鳥居から自宅(南浦和)まで
小さいながらも新島の遠景が見える牛根埋没鳥居(牛根麓稲荷神社)を出発したのは夕方4時40分。およそ40kmを1時間少しかけて,鹿児島1日目に泊まった旧隼人町「妙見温泉 きらく温泉」に戻ってひとっ風呂。温泉からはJR肥薩線嘉例川駅の木造駅舎を再訪するなどなごりを惜しみながら,およそ10kmを30分少しかけて,鹿児島空港のレンタカー店に帰還したのは夜6時50分。丸2日(48時間)の走行距離は460km(うちこの日は82km)だった。
空港では「大空食堂」というお店に入り,きびなごの塩焼きを当てにひとり生ビールで乾杯。お酒の追加はもちろん芋焼酎(白波とさつま大海)。終電を気にしながら飲む都内の居酒屋と同じ空気を楽しんで,ほろ酔いで鹿児島空港を8時35分に出発したら,南浦和の自宅には11時50分に帰っていた。

(追記) 平成25年8月,「新島は全住民が島外へ移住した」との旨,南日本新聞の報道がありました。



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